病院にて・一真の戸惑い
一真はそのまま涼子の病室に座って、母のシフトが終わるのを待っていた。警察は今、静岡の旅館からいなくなった涼子の母親を探しているそうだ。でも見つけるのに時間がかかりそうだって。
かわいそうに、これからどうするんだろう。
涼子の寝顔を見ていた。その時だった。
《わらわを助けよ》
また、あの時の声が頭の中に響いてきた。一真はさっと辺りを見回した。やっぱり誰もいない。どこから声が聞こえてきたんだろう。目の前の眠っている少女を見る。
まさか・・・・。
あの時も声がした。そう、同じ声。
本当は目覚めていて、この純粋な大学生をからかっているのかもしれないなんて思った。ベッド脇に立ち、少女の顔を真上から覗き込んだ。
マジで寝てるっぽいけど・・・・。
そう思った瞬間、ぱっちりと少女の目が開いた。すんげえ至近距離で目が合う。
え・・・・、マジ? やっぱ、起きてたのか?
バツの悪い思いで後ずさりしていた。
その顔がじっと一真を見つめていた。なんか、初めて見たものが親であるという情報が記憶される〔刷り込み、Inprinting〕みたいだ。じっと見られてる。
一真もその少女から目をそらすことができなかった。少女の口が開く。
「わらわを、そちのところへ連れて帰れ」
そして、にたりと・・・・あ、訂正、笑みを浮かべた。
今度は少女が一真に向かって手を差し出してくる。手を引けってことだろう。なんかホラーみたいだ。
「そこの者、さあ、手をっ」
ちょっと待てって言いたい。なんだってこんなに偉そうな命令口調なんだ。
けれど、その命令を拒否できない、そんな絶対的な強引さがあった。命令通りに手を取る。その手は暖かだった。
その手に力が入り、少女がむっくりと起き上がった。
「お待たせ、さあ、帰りましょう」
ちょうどその時、ものすごく張りつめていた空間に、場違いな明るい声がして、母が入ってきた。でもおかげで緊張がほぐれる。
「えっ」
さっきまで眠っていた少女がベッドのふちに座って、一真に手を引かれていたから、母はびっくりしていた。
「目覚めたのっ。すごい、先生~」
母が病院中に聞こえるかのような大声で叫んだ。人間スピーカーかってぇのっ。
「どうやって目覚めさせたの? まさか、まさかよね」
母は目をキラキラさせながら、かなり興奮していた。意味ありげな視線と言葉。なんかメルヘンチックなことを想像していることがわかる。
「え? なんだよ、その、まさかって・・・・」
良くない予感。母の考えは美玖とよく似ているからだ。
「白雪姫が王子様にキスされて目覚めた時みたいに、また一真がキスしたから目覚めたんじゃないでしょうね」
やっぱり。そんなこと思ってたんだ。
「してないっ、そんなこと絶対にないからっ。それにあれはキスじゃないしっ」
「本当? だって、ずっと二人きりだったんだよね~」
そうだ、そうだけど。誰が意識のない患者にキスするかって。
そんなやり取りの中、初老のでっぷりとした院長がのっしのっしと現れた。診察するからって一真は廊下へ追い出される。でも、もう大丈夫だろう。偶然にせよ、助けた命だ。この先、強く生きていってほしい。
その病室から、ひょいと母が顔を出す。
「ねえ、一真、あの細川さん、あなたを呼んでる」
「細川さん?」
それがあの少女だって認識するのに数秒かかった。
「え、なんで?」
「知らない、けど、あの者を呼べって」
さっきの威圧感がよみがえる。あの者ってなんだよ。かなり上から目線な言い方だと思う。それに得体のしれない強いモノを感じていた。あの命令にノーって言えない。どんな命令でも服従せよって言われているような・・・・。
そういえばさっき、助けろとか、連れて行けって言ったっけ。それって一真の家へ連れて行けっていう意味か?
そんなことを思い返していた。脚がすくむ。逃げたくても動けなかった。いやだ。行きたくない。行けば絶対に逆らえない。
涼子の病室の前で立ちすくんでいた。そんなこんなでぐずぐずしていたら、目の前のドアが開いた。そこに少女が立っていて一真を見ていた。
出たっ、と心の中で叫ぶ。
しかし、少女は一真を見てにっこり笑った。まるで懐かしい恋人に会った、そんな感じの笑顔。
あれっ、かわいい、なんて思う。少女はそのまま、一真の腕の中へ飛び込んできた。
そんな意外な行動に驚いていた。まるでドッジボールの球がふいに飛んできたから、そのままの勢いで受け取ってしまった状況。だから、少女の背中を抱きしめていた。
その背は一真の喉元くらいしかない。なんだ、こんなに小柄な少女だったのか。ちょっと安心し、思わずその柔らかな感触が心地よくてニンマリしていた。
いや、にんまりしている場合じゃなかった。目覚めたばかりの少女を抱きしめている一真に向けられた周囲の異様な視線に気づく。先生の目、看護師たちの目、そして我が母までが、なにかを疑うような厳しい表情でじろりと見ていた。
「そんな関係だったの? ねえ、なんか事情があるんでしょ。なんでこんなことになる前に母さんに言ってくれなかったの」
いや、なにもない。しかも、こんなことになる前って、どういう意味だろう。ただ、ひたすら首を振って否定し続ける一真。皆がとんでもない想像をしているってわかった。
「痴情のもつれか・・・・」
とんでもないことを口走った医者。その言葉にその殆どの看護師たちがヒイという悲痛な声にならない悲鳴をあげた。
「なんてハレンチ」
「なんてみだらな・・・・」
「遊んで捨てるなんて」
「最近の若い人ってこれだから」っていう声が聞えてきた。
その場にいる全員が、この少女は一真と交際をしていて、喧嘩の果てに発作的に濠へ飛び込んだって思っているのがひしひしと感じられた。
「いや、いやいやいや~っ、違うから、絶対に違うから。俺、関係ないしっ」
そう言って少女から離れる、離れようとした。しかし、少女は離してくれない。しっかりと抱きつかれていた。俺は潔白だ。信じてくれ。
「全然関係ない女の子が、男の人に抱きつくかな?」
「抱きつかないわよねぇ」
「やっぱり怪しい」
「深い仲って感じだもん」
「無理やり捨てようとしたんじゃない?」
「まあ~」
「飽きちゃったのね」
そんな会話が看護師の間にされている。母よ、かわいい息子を庇ってくれ~っ。
「一真っ、母さんはそんな息子に育てた覚えはないっ」
母はあっち側の味方だった。
そんな皆が白い目で見ているさなか、少女がつぶやく。
「なんという安らぎ。一真とやら、わらわを連れて帰れ」
皆が、やっぱり痴情のもつれという認識をした瞬間だった。
「違うっ。俺は関係ない。信じてくれ!」
それでもまだ抗う一真に、母は無情にもげんこつをくらわせ、周囲にペコペコと頭を下げて言った。
「すみません。こんな子にしてしまったのは私の責任です。とりあえず、細川さんはうちで引き取らせていただきます。きちんと責任をとらせますから」
いや、違う。責任ってなんだ。中学生の子供相手に何を責任とれって言うんだ。しかも実習とはいえ、教え子だ。妹の同級生なんだぞっ。あんな恐ろしい、ピーチクパーチクのくちばしの黄色い少女たちに手を出そうなんて考えるわけない。
何度もそう言った。けど、そのたびに男らしくないとか、無責任、親不孝者と罵られた。なんでだ。本当に俺は関係ないんだ。でも、いくら一真が無関係だと言っても、母は常にその少女の味方だった。
「そう言えば、美玖が言ってたわよね。あんたがキスしてたとか、胸を触ってたとか」
「いや、あれは蘇生するためで・・・・」
母は一真の言い訳を遮る。
「涼子ちゃんがそれ以上の関係を拒否したから大喧嘩になったのね。その後、涼花さんが濠に飛び込んだって・・・・。情けないわ、母さん、悲しい」
母の記憶が前後している。なんで彼女が飛び込む前に俺がキスしてたってことになるんだ。
結局、すぐに退院許可が出て、その少女を連れて帰った。どちらにせよ、この涼子は行くところがないのだ。しかたがなかった。
「じゃあ、涼子さんは二階の部屋を使って」
「はい。よろしくお頼み申し上げます」
涼子はそう言って丁寧に頭をさげた。
一真は自分の部屋に逃げ込んだ。深いため息をつく。今、涼子はこの家の一真の部屋の真上にいる。なんでこんなことになったんだろう。