わらわは姫なるぞ
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「姫、こんなところにいたっ。探すの大変だったんだぞ」
振り返るとそこに一真の顔があった。破顔する。
201X年 四月の第二土曜日。
甲府駅前はものすごい人でごったがえしていた。通行止めになっている平和通りにはロープが張られ、観光客がひしめいている。
今日は恒例の信玄公祭りだった。
姫の前をむりやり少年が通り過ぎた。よけようとして体をひねり、ついよろめく姫に一真が手を伸ばした。一真の大きな手が姫を支えてくれた。温かい、大きな手。それはまるで父の手のよう。
「ボランティア、もう終わったのか」
「うん、もういいって」
「明日、笛吹川の合戦にも行くんだろ?」
「明日は行かぬ」
へっ? って顔をする一真。口調がまた戻ったからだろう。
「躑躅ヶ崎館へ」
「ああ、武田神社か。ってか、行くんだな。ついに」
「うん」
父の命日だから。
美玖が胡桃と一緒に、祭りに参加していた。三条夫人隊だった。その侍女役を七千円払って獲得していた。
「もうそろそろここへ出陣してくる」
信玄公役は有名な俳優で、湖衣姫役、松姫役も女優が演じるとのこと。しかし、姫の関心は美玖と胡桃がきちんと行進できるかということだ。緊張してナンバ歩きになったらどうしようかと心配していたのだ。刀を持つ武士たちは本来、その歩き方をしていたのだぞ、と言うと少しは安心していたみたいだったが。
なぜ、三条夫人を選んだのかと問うと、二人は声を揃えていう。
「だって正室だもん。なんてったって、本妻が正当っ」
これには薄幸の美女として謳われている湖衣姫もさぞかし苦笑いをしているであろう。
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一度は涼子の体から離れていた。涼子の意識が完全に戻ったからだ。そして、死の淵に立つ自分の体に帰っていた。そして戦国の世とも別れを告げた。
姫はそのまま昇天すると思っていた。ただ、もう一度一真に会いたかった。ひと目会うだけでいいと願った。
桃香は涼子の体に戻っていた。必要とされていたらしい。涼子の体は、桃香の意識が抜けた直後からまた眠り続け、そして翌日になってもなかなか目覚めなかった。心配した一真たちが救急車を呼ぶかと相談していた時、ようやく涼子が目を開けた。姫が戻ってきた。いつのまにか、涼子と姫の意識は同化していた。涼子にはもう姫の意識がなければならない存在となっていた。姫が考えたことは涼子の考えでもある。二人で一人だった。そして、二人は一真を意識していた。
武田神社は、雨宮家から目と鼻の先にあるが、姫は敢えて足を踏み入れなかった。怖かった。もし、当時の面影を見ることになったら、姫の心は痛み、あの時の世に戻ってしまうかもしれないと考えたから。
しかし、もうなにも恐れる物はない。桃香は父との別れをしてきた。今後、何を見ようともすべてを受け入れる覚悟ができていた。
武田軍が出陣として、平和通りを歩く。もちろん、姫は初めて見る光景。当時でもこんな姿を見送ることはなかった。ただ、裏方で無事の帰還を願うだけだった。
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その翌日、姫と一真は武田神社へ向かっていた。
武田信玄は石垣や手堅い頑丈な城を築くことはなかった。それは人を大切にすることで、その絆を石垣とし、城と考えていた。人を信用できれば、金や手のかかる頑丈な城は必要ないということ。信玄は、すべての民に、中立な裁きを重んじる法令、甲州法度之次第を定めていた。そして、それは信玄自身も例外ではない。甲斐を治める立場の信玄も、それに違反したら裁きを受けることを意味していた。
観光客の多い橋を渡る。
やっとここへ来る決心がついた。今までは、時代の流れに変貌している元躑躅ヶ崎館を見たくなかった。石段を上がるとそこに武田神社の境内がある。
姫が一真の腕をぎゅっとつかんでいた。
「御屋形様が待ってるぞ」
一真がそういうと、姫はうなづいた。
大勢の観光客と共に一之鳥居をくぐった。参拝している人や広い境内は写真を撮る人たちも多いし、子供が歓声をあげて走る姿もあった。手水舎で手を洗う。姫の記憶とは全く違う景色だった。失望よりも安心していた。
二之鳥居へ。拝殿を目の前にしていた。1919年(大正8年)に社殿が竣工されたという。
二人で歩き回っていた。
産湯として使ったとされる井戸。他にも古めかしい井戸が残されている。
「あの当時からトイレ、水洗だったって?」
「うむ、すべての御不浄がそうであったわけではないが、常に水が流れておったと記憶している」
「信玄公は偉大な人だった。それをみんなが認めているから、ここに神社が建てられて慕われている」
「そうじゃな」
「桜は見事だったぞ」
四月のこの頃にはもうその殆どが散っていた。
濠の上に二人で立った。
「のう、一真。なぜ、わらわはこうしてこの景色を眺めているのか」
「姫が若くして亡くなる時、この世にかなり未練があったんじゃないのかな」
「そうかもしれぬ。今のわらわは涼子と共に生きている」
「体をもらって生きている間は一生懸命に生きろってことなんだと思う。そうやって、人の心、魂はいくつもの体を乗り換えて、ずっと生きていくんだ」
魂は死なずに、その肉体だけを取り換えて、生き続けていく。
「一真にしては的を得たことを申すのう。魂は限りある肉体で生を受け、その体が続く限り、この世を楽しむということ。なるほど」
珍しく姫が一真を褒めていた。
「わらわはずっと体が弱いことを悲観していた。皆より先に死んでいかねばならない身を悲しみ、嘆いていた。しかし、長い目でみれば、たった十年、二十年違うだけ。如何に思う存分生きるかが重要だったと今ならわかる」
「うん、それに若くして亡くなる人って、残された周りの人たちへ何かを訴える使命があったんだと思う」
「なにかを伝える使命ということか」
「父さんが亡くなったとき、そう思った。まるでオレに、こんなふうに頑張ってやれって言われた気がしてた。けど、そんなこと、重荷になってた。できっこないって突っぱねてたんだ。父さんみたいに立派な人になれない、そう願うんだったら、自分がもっと生きてやればいいって」
「そうか。死者はただ、この世からいなくなるのではないのだな。こうして何かを人の心に残している」
「うん、亡くなる人も無念だろうけど、先立たれる人もそこからなにかを学ぶ、感じて生きていくんだ」
一真と手を繋いで家へ帰った。
美玖と胡桃がいた。もう最近では、胡桃もうちの下宿人みたいな感じで入り浸っていると一真が愚痴る。
「お兄ちゃんたち、あんなところでイチャイチャしてたでしょ」
「見てたのか。デートの場所にしては自宅から近すぎたか」
「胡桃と賭けをしてたの。お兄ちゃんたち、キスするかどうか。二人ともキスするってほうに賭けてて、負けちゃった」
「バカか、お前ら」
わかっていた。濠の上で話していた時、一真はくちづけをしたかったけど、できなかったと。姫の住んでいたところだ。父が化けて出てきたら困ると笑った。
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一真は一人、教員免許を取得するための書類を手にとっていた。
隣の部屋で美玖と胡桃、姫までがゲームをしている。高校生活にも慣れ、姫は他にも大勢友達ができた。もう姫はあまり「姫言葉」を使わなくなったけど、一真と二人きりでいる時とか、咄嗟の時には出てしまうようだ。
ああ、今も叫んでる。ゲームのキャラに向かって姫言葉で叫ぶ。
《控えいっ、邪魔立てするでないっ》は序の口。《豈図らんや》にはぶったまげた。調べてみると《思いがけないこと》のような意味がある。つまり、豈図らんやは「なんということでしょう!」って感じの意味だ。今では美玖、胡桃までが連発している。
あ、今《あなや! なんとするかっ》って姫が叫んだ。
現代語を操る姫もかわいいけど、やっぱり、凛とした態度の姫もいい。
姫が激高してる。
「ええい、無礼者めがっ」
そんなこと、ゲームの人物に言ってもしょうがないだろう。けど、笑える。
「わらわをなんと心得るっ」
あ、出た。名セリフ。
「わらわは、姫なるぞ!」
笑える、一真のかわいい姫だ。




