姫、最期の時
寒い冬の中、高校受験のため、猛勉強をしている美玖たち。その頃からずっと姫の意識は、涼子の中にいるが表にでないでいた。時には眠っていることもある。
元々この体は涼子の物。姫がでしゃばってはいけない。涼子は表面に出ても、以前のようにおびえたりしなくなった。徐々に周りの人たちと打ち解けていた。学校へ行くことが楽しいとも感じている。賑やかな美玖の家に住むこともよかったらしい。
姫の意識が内に眠っていることを、涼子が申し訳ないと考えていることもわかる。そんなことを考えなくともよいのだ。涼子が元気を取り戻すまでの体の番人として、入り込んだ姫だった。束の間だったが、二十一世紀は楽しかった。戦国の世ではできなかった平和な生活を迎えることができた。学校でもいろいろなことを学び、武田史も知ることができた。そして、なによりも一真に出会えた。本当にそれだけで満足していた。
一真を好いたのは姫だが、徐々に涼子も一真のことを意識するようになっていた。
今はもうそれが姫の意識なのか、涼子なのかがわからなくなっていた。そろそろ涼子と交代する時がきていると感じていた。涼子の意識が完全に戻ってくれば、姫の意識は元の体に戻っていくのだろう。いや、もしかすると姫の魂は体を離れて、そのまま昇天していくのかもしれない。
そして、その夜、ついにその時がきた。
花見をした晩だった。久しぶりに姫の意識に戻れた。一真が信玄堤を見せてくれたから。父の功績を見せてくれたお礼を言いたくて、久し振りに一真の部屋を訪れていた。
その夜、久し振りに一真の腕の中で眠った。深い眠りにつくと、涼子の体から押し出されるかのように、姫の意識は抜け出ていた。
このままどこへ行くのか。最期に・・・・。
*****
朝がきたというのに、桃香は一度目を開けただけで、ふたたび閉じていた。戻ってきた。二十一世紀から、この戦国の世に。
体が泥の中に埋まっているように重かった。瞼を開けるのでさえつらい。動くためには息をしなければならない。今まで涼子の体はそんなことを考えなくてもできていたのに。
死期が近づいていると感じた。今ならまだ話ができる。動けないが、無理すれば笑顔も作れる。
貴世を呼びたくて頭を動かした。すると、暖かな手が差し伸べられた。枕もとに貴世の笑顔があった。
「姫様、お目覚めですか?」
一晩中、そばにいてくれたらしい。貴世は母以上の存在だった。桃香が視線を動かすだけで、なにがしたいのかもわかってくれる。安心した。もう少し甘えさせてもらうことにする。眠かった。そしてまた、目を閉じてその後、昏々と眠り続けていた。
涼子の体から抜け出た桃香が再び目覚めた。あれからどのくらいの時が過ぎたのか。
目覚めてすぐに元の時代に戻ってきたとわかった。健康な涼子の体に入っていた時とは全然違う。体の重さと怠さに顔をしかめる。しかし、これが本来の桃香だった。体はつらいままだが、しばらく涼子の体にいて元気をもらえたせいか、意識ははっきりしていた。
「お父上様は何処に・・・・」
貴世の顔が曇る。それでわかった。今は合戦のため、甲斐にはいないのだ。
「夕べから、佐久が知らせに出ております。甲斐に戻られる途中とのこと、すぐに戻られます」
「佐久? 佐久とは誰じゃ」
それが十兵衛の嫁の名だということに気づくのに時間がかかった。
「なぜ、佐久が・・・・」
百姓の娘だときいていた。なぜ、そのような大役を受けるのかがわからない。
「佐久は忍びでございました」
「なにっ、忍びと」
桃香の脳裏に、北条の手の者という疑惑が浮かんだ。
貴世は桃香の疑惑を払拭する。
「佐久は、元々この甲斐から放たれたくノ一。百姓をしながら北条を探るための忍びでございました。そこへ義信様が幽閉され、その小田原へ多くの甲斐の家臣たちが送られたのです」
そうだ。それで十兵衛も小田原へ行った。
「御屋形様は、北条にいる佐久や他の忍びたちに、その追放された者たちの忠誠心を探らせておった次第。その家臣たちには罪はないとのお考えにございました。特に十兵衛は数々の合戦で一番槍を四回、他にも手柄を立て、この三年間に七回も氏康様、氏政様より感状をいただいたほど活躍しておりました。ほんに武田武士の誉れでございます。それらは佐久らの報告によるもの」(この雨宮十兵衛家次は実在の人物)
十兵衛を助け、その嫁になった娘は、もともと父の放った忍びだったとは。
「佐久がいたおかげで、十兵衛殿は甲斐に戻ってこられたのでございます」
「十兵衛は佐久が忍びだと知っておるのか」
「はい、存じあげております。表向きはその土地の娘を嫁にしたということで、小田原でも信用されておりました。佐久も疑われることなく、呼び戻された十兵衛と共に甲斐に戻って来られました。あの二人は夫婦というよりも相方であったようです」
十兵衛は甲斐に戻るために戦場で手柄をたてた。すべてがこの甲斐のためだった。しかし、桃香よりも佐久を選んだ。
「今だから申し上げますが、十兵衛殿はおそらくまだ姫様のことを想っております」
貴世の言葉に体温が上がった。
「そなたになぜ、わかるのか」
貴世は十兵衛との恋に反対していた。なぜ、今になってそんなことを言うのか。
「小田原へ行かれる前に姫様が渡したあの紐を、十兵衛が大事に持っておるのです」
あの緋色の紐。あの時、あんな物しか手元になかった。姫のなにかを持っていてもらいたかった。とっさに手に取り、十兵衛の刀に結び付けた紐。
「あれを十兵衛がまだ持っていると・・・・」
「はい。右の足首に結んでありました。十兵衛殿と二人だけで話をしたいと思い、訪ねた時、見かけた次第。すぐに隠しておりましたが」
足に取り付けていたとは。
「なにげなくそれを問うたところ、くれぐれもこのことは姫様には御内密にと申されました。そこにはまだ、姫様のことを想う気持ちがあると察しました」
十兵衛があの時、お守りだと言って笑う顔が思い出された。
「その場には佐久もおりました。あの者も十兵衛殿が姫様のことを想っていること、存じていた様子。少し哀しそうではありましたが」
なんということだ。十兵衛の心を疑ってしまった。けれど、それも桃香のためを思ってのことだとわかる。そして、そのすべてを知りながらもそばにいる佐久の心を想うと胸が痛んだ。
「貴世、しばらく一人にしてはくれぬか」
涙を我慢し、そう言った。
貴世はそっと襖を閉めた。
その日の夕方。枕もとに父と母が座っていた。いつもと変わらない笑顔で桃香を見ていた。父、信玄が戻ってきた。佐久からの知らせを受け、隊よりも先に馬で帰ってきたらしい。
うれしかった。手を差し伸べると、父はなにも言わず、桃香を抱き起した。
最期にもう一度、父に会うことができた。言いたいことがたくさんあった。二十一世紀で武田家の行く末を知った。父に知っておいてもらいたいこと、気をつけていただきたいことがたくさんあった。
「ああ、ありがたや。もう一度、お父上様にお会いできるとは」
「桃、つらければ無理して話さなくともよい」
父の手に力が入る。そのままだとまた布団の上に戻されそうだった。そうされまいと父の袖をつかんでいた。
「いえ、是非とも聞いていただきたいことがございます」
桃香の強い意思を感じたらしい。父が黙って桃香を見つめる。
「お父上様は、この甲斐のために大変貢献されたお方。後世にもその名を残すことになります」
母の顔がほころんだ。必死になって桃香が何を訴えるのかと懸念していたらしい。
「特にあの信玄堤は見事でした」
信玄堤と聞いてもすぐにはわからない様子。そうか。後世で信玄の名がついたということ。今、この時はただの堤でしかないのだ。
「竜王川徐けでございます」
そういうと父が納得してうなづく。
「作り終えた後も人の手が加わり、その後、三百五十年、この甲府を守りました」
父と母は驚いた顔をしてお互いを見ていた。信じられないかもしれない。けれど、それは事実なのだ。
「父上の功績として、のちに信玄堤と呼ばれます。桜の木が植えられ、その季節になると大勢の人々が花見に訪れる名所となっております」
父はその様子を頭に描いたのか、目を輝かせて高笑いした。
「なにを申すのかと思えば、桃はまるでその様子をその目で見て来たようなことを言うのう」
母も笑っている。
「ほんに、姫はお父上様の先のことを夢に見たのでしょう」
「そうか。そのような夢を見たか。それならば、その通りになるかもしれぬ」
夢と思われてもいい。まだ言わなくてはならないことがたくさんあった。そして突然の父の死、勝頼のこと、織田との関係。たくさんの資料を読んだ。すべてを頭に叩き込んだはずだった。けど、今はそれらが言葉にできない。
「お父上様、お体だけは無理なさらぬようご自愛ください。雨に濡れ、そのままでおられますと風邪をひきます。それが命取りになるかもしれませぬ・・・・」
その最期は確か、伊奈の駒場、四月十二日・・・・。雨に濡れたため風邪をひき、体調をくずして持病の結核が悪化したとも、胃癌を患っていたとも言われている。
もう桃香にはそこまでの詳細を語る力は残されていなかった。
もしかすると、桃香の見て来た未来はまったく別の未来だったのかもしれない。この先、未来が変わるかもしれなかった。それは誰にもわからないこと。
死とは、どんな立派な人でもお金のある人でも必ず訪れる。長寿だから良いと言うことではないかもしれない。長く生きる人は先に逝く者たちを見送る役目を担う。そして早く逝く者は少しでもその命を大事することの意味を託す役目なのかもしれない。
「お父上様、お母上様、桃香はお二人の娘として生まれてきて幸せでした・・・・」
そう、それをお伝えたかった。
「桃」
父がギュッと抱きしめてくれた。母の手も桃香の手を握っていた。その温かい感触が段々と薄れていく。
貴世が涙ながらに桃香の手に握らせた物。それはとっくに捨てたはずの十兵衛からのお守りだった。それがわかり、ぎゅっと握り締めた。貴世がお守りを拾い、大切にとっておいてくれたのだ。
すべての人に礼を言いたかった。桃香が係わったすべての人に。
桃香は、未来で見た武田信玄像を思い浮かべていた。四百年以上たっても甲斐の人々は武田信玄を誇りに思い、忘れてはいない。信玄の功績を今でも称え、慕っている。その娘として生まれた桃香はなんたる家宝者。
桃香の意識がなくなった。その魂は・・・・どこへ行くのか。




