あの世と現世の間には
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そんなことがあって、すぐに新しい年を迎えた。姫は、いや、涼子は美玖の部屋で一緒に受験勉強し、眠ることが多くなっていた。
一真も大学で忙しい生活を送っていた。二人の別居は自然にそうなったように思えるが、もしかすると目覚め始めた涼子が意識的にそうしていたのかもしれない。
二月になると涼子は一真の部屋に全く来なくなっていた。一真には感じられる。一日のほとんどが涼子の意識になっていること。そして、完全に目覚めたらしい涼子は市内で一番の競争率、南高校の理数科を受けると宣言し、猛勉強していた。
雨宮家は胡桃までが泊まり込むようになり、とてつもなく賑やかな下宿所と化していた。当然のこと、一真はいつでもその質問に答える無料の家庭教師。そして、勉強に飽きると、この三人のティーンたちはゲームの世界でストレスを発散させる。
涼子を見ている限り、今までとそれほど行動に違いはない。けど、一真にはわかっていた。日に日に姫に会えなくなっていた。しかたがないけど、無性に寂しかった。もっともっと姫を抱きしめて、眠ればよかった。一緒にいられる時間に限りがあったこと、わかっていたらって今更ながら後悔していた。
そうして涼子や美玖たちは受験の日を迎えた。そしてすぐに中学の卒業式。その数日後には合格発表に至った。涼子は当然、南高に合格。美玖と胡桃は家から近い、北高に入った。
そのまま春休みに突入していた。
もう涼子は一真を見る目、美玖たちと話している様子、それは百パーセント、細川涼子だった。凛とした態度で、真正面から一真の目を見る姫ではない。一言、お別れを言いたかったって思う。もう一度、姫と話したい。最後に一緒に過ごした日々をありがとうって言いたかった。
「ねえ、お兄ちゃん。車、出して」
朝からティーンたちが騒がしかった。昼頃まで寝ようと思ったのに。
いい匂いがしていた。
「お弁当、作ったの。天気もいいし、お花見に行こうってことになって。ねえ、おいしいお弁当、食べさせてあげるからさ」
おいしいかどうかは別として、ヒマだし、どこかへ出かけるのもいいかって思い、腰を上げた。胡桃と涼子も出かける支度をしていた。
すぐに顔を洗って、車に乗る。エンジンをかけた。お花見ってことは桜がたくさん咲いている所へ行くっていうこと。
「で、どこへ行くんだ。舞鶴公園か、それとも小瀬スポーツ公園か。昇仙峡も見ごろだと思う」
近場ではすぐ目の前の武田神社だった。けど、近すぎて自分の家の庭のような気分だったから、敢えて言わなかった。それに姫が絶対に足を向けなかったところだ。もう涼子なんだから行くかもしれないが。
「ん~、舞鶴は去年行ったし、小瀬もいいけど・・・・」
まだ決めかねているティーンたち。
あ、ひらめいた。
「よし、任せとけ。いいところがある」
車を走らせた。甲府市を抜け、竜王方面へ。釜無川沿いの適当な駐車スポットを見つけて車を止める。
「わああああ、すごい。いい眺め。富士山もきれいだし、桜、満開っ」
美玖がそう叫んだ。
そう、ここも桜の名所の一つ。
信玄堤公園だ。信玄橋を渡るとその向こうは南アルプス市になる。姫に見せたかった。父である信玄公が残した功績を。
美玖たちはもうすでに大勢の花見客がいる中を歩き、ちょうどいい桜の木の下にシートを敷く。バーベキューもできるから、家族連れが多かった。
美玖たちの弁当はなかなかの物。ちょっと形の崩れた巻き寿司も入っていた。ハンバーグ、玉子焼き、全部、美玖たちの好物ばかり。それらは一真にとっても好物だった。
三人のティーンたちは最近のアイドルやテレビ、映画のことで話が盛り上がっている。一真は久しぶりに涼子と向き合っていた。ちょっとした作戦を練っていた。
涼子がお手洗いに立った時を見計らって、一真も腰を上げる。これが最後のチャンスだろう。もし、まだ涼子の中に姫の意識が少しでもあったなら、なんとか引き出せるかもしれない。
手を洗って出てきた涼子に笑いかける。そしてその手を引っ張った。
「あっちから富士山がよく見える。写真、撮ってやるよ」
もし、一真の手を振りほどいて、美玖たちのところへ戻ると言ったら、もう余地なしだろう。そうしたらあきらめるつもりだった。けど、涼子はそのままついてきた。
土手の上に出た。桜と富士山がよく見えた。一真は逆方向を見る。
「あそこにかかる橋、なんていうか知ってる?」
涼子なら知っていると思う。けど、姫なら知るはずがない。
涼子は橋を見る。
「信玄橋でしょ」
なんでもない口調。まだ涼子だ。
「じゃあ、ここは?」
涼子は下の方ではしゃいでいる人々を見た。
「信玄堤・・・・」
その瞬間、涼子がなにかを思い出したかのように宙を見る。
「そうだ。信玄公が二十年間かけて、人々を水害から守った堤、堤防だ」
「信玄公・・・・」
宙を見つめていた涼子が目を見開いた。その顔つき、姫だと確信した。
「姫? 姫なんだな?」
そうだと言って欲しかった。
久しぶりに見る誇り高い澄ました顔。涼子も理知的な表情をしていたが、品のある表情は全く別のもの。
「そうじゃ、わらわは姫じゃ」
姫は苦しゅうないと言わんばかりに手を差し伸べてきた。一真は当然の如く、その手を取った。そのまま河川敷を歩いた。やった、と叫びたい気分だった。
当時、釜無川は、御勅使川と合流したのち、甲府盆地のほぼ中央部を流れ、笛吹川と合流していた。一度、長雨や豪雨があると滝のように釜無川に流れ、溢れるとその水は甲府盆地に流れ込んだ。そのたびに被害をもたらした。信玄は国主になってすぐ、晴信と呼ばれていた時から工事に着手していた。それから二十年もの歳月をかけて、堤防を築き、治水工事をおこなった。
「ここが、父上の・・・・」
姫はその周辺を見渡していた。
「そうだよ。この堤のおかげで甲府は守られた。明治に一度、破損したっていうけど、約三百五十年間も洪水を防いでた。すっごいよな」
「そのように長く人々の生活を救っていたとは・・・・。父上が残された物が今もなお・・・・」
姫は満足そうだった。水害から守るだけではなく、人々がこの地を訪れ、憩いの場としている。
「父上がこのことを知ったらどんなに喜ぶであろうか」
その一言はなんだか寂しそうに聞こえた。
花見で久し振りに姫に会えた。やっぱり、一真は姫を好きだった。涼子もいいけど、そこには妹の友人ということしか心が動かなかった。でも、最後、姫に信玄堤を見せることができてよかったと思う。もうずっと涼子のままでいるのかも、そんな感じがした。美玖と胡桃は、姫として戻ってきた涼子を見て、直感的に「姫、どうだった。きれいだった?」と声をかけていた。恐るべし動物並みの直感。
家に帰ると姫は涼子に戻ってしまったかのように見えた。ご飯を食べて、一真は自分の部屋で過ごしていた。
以前、みずほちゃんのポスターが貼ってあった壁を見つめていた。そこへ涼子が入ってきた。いや、姫だ。涼子は突然入ってくることはしない。よほどの用事があったら、控えめにノックしてから入る。
姫なのか。
「一真、またぼうっとしておったのか」
そう言って、むっとした一真の顔を覗き込んだ。ベッドに腰掛ける。
「考え事をしてたんだよ。ぼうっとしていない」
姫はどちらでもいい様子で、ガウンを脱ぎ、パジャマ姿になった。
えっ、今夜、ここで寝るのか。
それは嬉しい。
「一真、よくぞ、わらわを呼び起こしてくれた。おそらく、これで最後になると思う。今宵は一緒にここで寝たいがよろしいか?」
その返事代わりに姫を思い切り抱きしめていた。
《今夜は最後か。心の妻よ》
そんなことを強く思う。するとその想いが伝わったらしい。
姫がにやりと笑った。
《心の妻か。そうじゃのう》
ちょっと疑問に思う。なんで姫とはテレパシーみたいな心が通じ合えるんだろう。
「なあ、なんで俺、姫の声が聴こえたんだろう。心の声」
姫が一真をじっと見た。
「それほど不思議に思うか」
「うん。俺って超能力者でもないし、しかも、それって姫だけだったから」
姫はいろいろと考えているみたいだった。
「そうじゃのう。一真だけにわらわの心の声が聴こえていた」
「うん」
「昔、生死を彷徨うようなことがあったか」
生死をさまよう・・・・、そんなこと・・・・あったかな。
姫にそう言われて改めて考えていた。
《事故》
そんなことがあった。
ふと、一真の頭の中に、今まで見たこともないような風景が飛び込んできた。
雄大な山がそびえている所。車が行き交う道路沿いのパーキング。まだ若い父と母、小さな美玖。やけにはしゃいでいる男の子。それは一真だ。そして真新しい青い帽子。せがんで買ってもらったばかりの帽子だった。
なんだ。こんな記憶、今まで思いだしたこともない。まるで誰かの頭の中の動画を見ているかのよう。
いや、これは一真の記憶だ。思いだしたくなかった、封鎖された記憶。胸の鼓動が激しく打っていた。怖い。恐怖にかられている。小学生の一真。そのすぐ後に何が起こったのか。
強い風が吹いた。その風が買ってもらったばかりの帽子を吹き飛ばした。一真はあっと声を上げ、繋いでいた父の手を振り払い、帽子を追った。
道路の真ん中に転がった帽子。それを追いかけ、手を伸ばした瞬間、誰かに抱きしめられて・・・・目の前が真っ暗になった。
「なんだ、なんだ、これ」
耐えきれなくなって、頭を覆う。
姫が一真の背中から抱きしめてきた。
「大丈夫。落ち着かれよ。無意識に閉じ込めていた記憶がよみがえったのであろう」
そうだ。そうだった。どうしてこんなことを忘れていられたのか。あの時、帽子を追いかけて道路に飛び出した。その一真を助けようとした父と一緒にはねられていた。
一真のせいで父は死んだ。
「俺のせいだ」
血の気がひいていた。体が震えだす。
「違う」
「姫にそんなことがわかるのかっ」
姫に対して怒鳴っていた。けど、怯むこともなく、淡々と言う。
「わかる」
「なんでだっ。だって、俺が飛び出したんだ。そのせいで父さんが・・・・」
姫が一真の正面に座った。そしてパニック状態になっている一真の顔を見る。その頬をムギューとつねった。痛い、それってすごく痛いぞ。でも、そのおかげで姫を見つめることができた。
「違うと申しておるぞ」
「誰がっ」
「お父上様じゃ」
「え、誰の? 御屋形様か?」
駅前の武田信玄像が頭に浮かんだ。
「一真のお父上様じゃ、ほれ、そこにおる」
姫が誰もいないはずの空間を指さした。
一真は怯えた目で後ろを振り返った。やっぱり、誰もいない。やめてくれ~、いくら父親でもそういうのって苦手だ。
姫は一真の背後の宙を見つめて言う。
「ずっと一真のことを・・・・心いためておられたご様子。自己防衛のため、事故の時の記憶を失っていたから。それをそちがいつ思いだすかと心配されている」
「え、じゃあ、父さんはずっと俺のことを見てたってわけ?」
「そのようじゃ」
一真は空間を見つめる。父がどこにいるのはわからない。
「父さん、ごめんな。俺のせいで・・・・」
涙があふれていた。申し訳ないっていう気持ちでいっぱいだった。教師を天職として生き生きとしていた父。
「一真のせいではないと申しておる。ずっとこの瞬間をお父上様が心配しておったそうじゃ。今すぐにとは言わぬが、一真がこのことを受け入れて、前向きに生きていくことを願うと申しておる」
「そんなこと、できるのかな」
「時間をかければできるであろう。今は見えなくてもその道が見えてくるのではないか」
ふと気づいた。
「姫って、霊と話ができるんだ」
「一応、霊界と現世との間を通ってきておる。そういうことに感じやすいかもしれぬ」
「そうか。俺もあの時、しばらく入院してたって聞いた。俺もその間にいたことがあるのかもしれない。だからなのか?」
「うむ、おそらくはお蔭で、心が通じ合えるのであろう。わらわは助けられた」
「一つ、お父上様が一真に訊ねたいことがあるそうじゃ」
「え、なんだ」
「本当に一真は教師になりたいのかと」
それはずっと考えていたことだ。父もそれを感じとっていたんだろう。
「幼いころから父さんみたいな先生になるって決めてた。父さんが亡くなったってこともその決意を堅くした。でも、教育実習を経験して、わからなくなってた。本当に俺なんかが教師になってもいいのかって」
正直言って自信はなかった。みんなから慕われる教師、尊敬される教師になれるのか。自分に合っているのかもわからない。
実習で見てきた中学生たちの笑顔が浮かんできた。皆、明るくて、あっけらかんとしてて、それでいて繊細なところもある。傷つきやすく、怒りっぽいところも。でも・・・・あの屈託のない生徒たちの顔を思い出すとそばにいて見守ってやりたいとも思った。
「俺、ダメ教師かもしんないけど、俺みたいになるなよっていう反面教師にはなれるかと思う。こんなに不器用に生きてても笑顔が作れる、そんな代表選手に」
「お父上様は安心したようじゃ」
姫の視線が宙を舞う。
「父さん、逝っちゃうのか」
「そのようじゃのう。もう一真は大丈夫だと。わらわがついておるから」
「あ、そっち」
姫が抱きしめてくれた。一真の顔にもろ、胸のふくらみが押し付けられた。四月から高校生になった姫。以前より胸の成長がいいみたいだ。んん、言葉で慰めてもらうのもいいけどさ。
「なあ、姫。一緒に寝るか?」
いつもなら、うん、と即答する。しかし、姫は一真の何かを探っていた。
「寝るのはいいが、わらわに触れるでないぞ」
あ、やっぱり。
「やましいことは考えるでないっ」
一真は姿勢を正し、「はいっ」と元気に返事をしていた。




