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一真の失望

*****

 そんなこんなでなんとか時が過ぎた。

 妹の在学する学校での非常にやりにくい環境の中で、ようやく教育実習の三週間を終えた。いや、やっと無事に終えられたというべきか。

 思ったよりいい評価をもらってほっとしたが、教師になるという将来はまだ決めかねている。


 教師の免許を取る。それには抵抗はない。けど、実際に教師という職業を選ぶかどうかは、心が揺れていた。

 亡くなった父が教師だった。同じ教師になることが唯一の親孝行なんだと思っていた。


 しかし、教育実習を得て、ただ、授業をするだけが教師ではないと感じさせられた。生徒一人一人をよく見て、人としてつきあっていくべきだと実感していた。

 生涯で出会った先生とのつながりは、生徒に影響を与えることが多い。教師の一言で生徒が変わることもある。いいこともあれば、自信喪失させてしまう危険性もある。そんな責任重大な役目、この一真にできるのか。




 一真の中学時代、なるべく思いだしたくない思い出があった。ある新任の先生は一真の父親の教え子だった。一真の名前から向こうが判断して、声をかけてくれた。向こうはすごく一真に期待してたんだろう。クラスで皆に話す時もずっと一真を見て話したり、誰も手を挙げない質問を一真にならできるだろうと言わんばかりに指名していた。最初の一週間は、朝も帰りも一真を待ち伏せしていて、父のことを話したがった。よほど父を慕っていたんだろう。


 でも、一真はその期待に添えなかった。段々と先生の目には猜疑心のようなものが生まれていた。本当にこいつが、あの先生の息子なのかと思っていることが表情や態度からもわかった。恩師の子供なら、期待通りの反応や成績だと思い込んでいたらしい。そのうちに失望したのか、一真の存在を認めないとでもいう態度に出た。完全に一真を無視しはじめたのだ。クラスの端っこから問題を解く時も一真だけを飛ばしていた。誰かがそれを指摘しても、笑って無視する。絶対に一真と目を合わせない状態が続いた。


 期待されていたときもかなり重荷に感じていたが、無視ということはかなりこたえた。心はひどく傷ついていた。

 一真はそこから悟っていた。先生と言われていても、絶対に尊敬に値するわけではない。たまたま、そういう職業についた普通の人なのだ。先生になった人は皆、神対応ができるわけじゃないってこと。そう思うことで、一真は中学時代を乗り切った。後にその新任の先生は他のクラスでも生徒の贔屓があり、問題になって他校へ移動していった。


 今でもきっと、その先生は一真を傷つけたとは思っていないと思う。一真が父のように、成績もよく、人柄もいい、どこから見ても完璧な子供だったら満足だったんだろうけど、それはその先生の勝手な思い込みであり、迷惑な期待でもあった。一真は高校生になり、やっとそう思えるようになった。


 


*****


 姫と暮らすようになってから、二か月がすぎていった。もうそろそろ年の瀬。学校も冬休みに入る。その日の夜は、夕飯を食べ終わっても皆がお茶を飲みながら台所にとどまっていた。母が残り物をタッパーに入れる。姫が汚れた皿をさっと洗い、食洗機へ入れていた。美玖が食後だというのに、戸棚からせんべいを取り出し、バリバリやりだした。

「お前、今、ご飯、食べたばっかりだろう」

 呆れかえる。

「うん、でもいいじゃん。これ、おいしいんだから」

 美玖は一真の言うことなんか気にも留めていない。

 ふん、と鼻を鳴らし、一真もせんべいを一枚ひったくる。一真も別腹とばかりに、それを食べながら姫を眺めていた。そんな一真の視線を美玖が見ていたらしい。突然、とんでもないことを言いだした。


「ねえ、姫。どうしてお兄ちゃんなんか、好きになったの」

 ドキッとする質問を美玖が投げかけていた。普段なら、「こら、お兄ちゃんなんかってどういうことだ」と突っ込んでいたけど、そうできなかった。うん、一真もその理由を聞きたい。

「ん? わらわが一真をか?」

 姫はすぐには答えず、全部の皿を入れて食洗器のスイッチを押した。手慣れたものである。それからゆっくりと一真の向かいの席に座った。母も興味深々で、自分のお茶を持って座った。


 それは一真にもずっと疑問だったこと。

 姫は、自ら一真の妻になりたいって言った。それはどうしてなんだろう。やっぱり、インプリンティング、目覚めた時、初めてみた男だったからとか?

 そんなことで恋なんてするだろうか。いや、恋とはするものではなく、恋に落ちるものだという台詞、きいたことがある。なあ、落ちたんだよな、姫。


「一真は昔、お慕いしていた人に似ていた」

 お慕いしていた人って、好きだった人ってこと。

「あ、なんだ。そういうことか。お兄ちゃん、一応、ルックスは人並みだし」

 美玖が余計なことを言う。

 一真に複雑な思いが巡る。姫の好きな人に似ていたから、だと。


「叶わぬ恋だった。向こうはわらわのことなんて忘れて、嫁を貰って帰ってきたのじゃ」

「えっ、嫁。それって裏切られたってこと?」

 テレビドラマ、見過ぎの美玖の発想。

「あのお方とはなんの約束もしてはおらなかった。わらわが勝手に好きになっていただけのこと。怪我をしたとき、身の回りの世話をしてくれた側女を嫁にしたらしい」

 姫はなんでもないって顔をしてる。得体のしれないモヤモヤ感が沸き起こっていた。


「そいつも姫の気持ちを知ってたんだろう? なんでそんなことになるんだ」

 このかわいい姫を袖にして、他の身近な女に手を出すなんて最低な男だと思う。一真ならそんなこと、絶対にしない。

「しかし、嫁を連れて帰らなくてもわらわと十兵衛は添えなかったであろう。身分違いだったし、わらわは体が弱かったから」

 その男は十兵衛というらしい。体が弱いから? 嫁にできないってこと、許せない。なんか、無性にムカムカする。姫がずっと待ってたのに、他の女に手を出すなんて。


「昔って、ちょっと身分が高いお客がくると豪華な料理とか振る舞ったりするじゃない。夜伽の相手ってことで、自分の娘を勧めたりしたんだって。お・も・て・な・しってことで」

 母がそういうと美玖が大騒ぎする。

「やだ~、冗談じゃないよ。なに、それっ」

 美玖がことのほか、動揺している。

「あ、大丈夫だろっ。美玖はその類に入らない。差し出す女の人も誰でもいいってわけじゃないだろうし」

 一真は美玖を安心させるために言ったことだが、逆上した美玖から首を絞められていた。ぎええええと叫び声をあげた。

「兄妹けんかはやめなさい。うるさいんだからもう。江戸時代なんか、江戸屋敷に正室、国許にも別の妻を置いておくっていうのが当たり前の話だからね」

「ええ~、なんで昔の男って、そんなに女性にだらしがないの?」

 それら男の性は、すべて一真のせいとばかりに睨まれていた。


「そういう好色な輩もおるが、そのほとんどはおなご自らも望むことも多いのじゃ」

 そう淡々と姫が言う。理解できないとばかりに美玖が反発する。

「だって、ただ身分が高いってことだけでしょ。顔がいいとか人気があるとかじゃないし。美玖もアイドルの雅也くんならいいけどさ」


 美玖が夢中になっている雅也のことを、姫も知っているから目を細めて笑った。

「そうじゃのう。その時のおなごは、それに近い憧れのような感情を持っているのじゃろう。昔は今のように多くの殿御の姿など見ることはできぬ。だから、どのような人がいい、素敵などと比較ができぬ。だから、身分でしか計るしかない」

「ああ、身分の高い人なら、いい着物を着てたりするからかっこよく見えるし、顔つきもびしっと引き締まってるんでしょうね」

 美玖が誰かを想像しているみたいだ。どうせ、最近の時代劇の侍かなんかを頭に浮かべてるんだろう。


「それもある。しかし、昔はどこぞの商家や侍の家に行儀見習いとして働くおなごが多かった。今のように皆が学校へ行くわけではない。それに子だくさんの家もあって、口減らしもしたかったのであろう。もし、その身分の高い客人に気に入られたら囲ってもらえるかもしれない」

「そうね。玉の輿ってこと。それは家族が助かるわ。避妊の知識もないし、どんどん子供が増えるから十歳前の子供も奉公に出されたって話、ドラマで見た」


 母が「大根飯」っていうドラマを思い浮かべているのがわかった。知っている、すんげえ苦労した娘の話。働き手の父ちゃんが怪我で働けなくなって、その娘が子守りってことで商家へ奉公にいく。その娘の母ちゃんも温泉旅館へ出稼ぎに。働きながら「春」まで売っていたっていうことだ。


「身分の高い人の「お手」がついて子ができれば、それなりのことをしてくれるであろう」

 一真はごくりと喉をならす。そんな時代があったんだ。今の感覚ならそれらはすべて非現実的で、すべて映像の世界だと思う。けど、実際にそういう事実があったんだ。

 美玖がしきりに「ねえ、お手ってなに? 犬のお手じゃないよね」と騒いでいた。当然の如く、無視したのは言うまでもない。





 

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