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松の縁談

 その二年後のこと。


 この頃の桃香は、熱が出れば、二、三日は高熱に見舞われ、ちょっと無理をして外へ出ると息切れし、時として胸が苦しくなった。そんな桃香の楽しみは妹たちが遊んでいるのを眺めることだった。子供の頃はそれほど胸が苦しくなることはなかった。だから、わりと活発で、男勝りの桃香だった。それが十代に入ってからひどく疲れやすくなり、息切れするようになる。医師の診立てでは心の臓が弱っているとのこと。けれど、それほど重症だったとは思っていなかった。


 それがどんな影響があるのか思い知らされたのはあの日。

 侍女の貴世が知らせてきた。妹の松に縁談がきたとのこと。順番からではこの桃香が先のはず。それを飛ばして、まだ七つの松に縁談がいくことに納得できなかった。


 すぐさま父のいる表方へ行った。周りの家臣たちが驚いた目を向ける。息女たる姫たちは奥の裏方にいるのが常。そこから出ることは稀だった。

「父上はどこじゃっ、父上はおらぬのかっ」

 止めようとした家臣たちの手を振り払い、先に進んだ。

「桃姫様、なにごとでございますか。御屋形様はただ今、他国の使者と会ってございます。しばし、お待ちいただけますでしょうか」

 側近がそういう。その頃、皆に桃姫と呼ばれていた。

 しかたがなかった。他国の使者にこんな姿を見られるわけにいかない。


「では、ここで待たせてもらう」

 そう言って、廊下の隅に座りこんだ。側近たちは息を飲んでみていたが、もうそれ以上は何も言わず、遠巻きにしてみていた。そのうちにあきらめて、裏方へ帰るだろうと思ったのかもしれない。


 冷たい廊下に座って待っていた。なかなか父上は現れなかった。これだけのことで疲れていた。さっきまで興奮していたから気づかなかったが、手足が鉛をはめられたかのように重かった。背筋を伸ばしているだけでもつらい。つい、後ろの柱にもたれかけていた。


 ふいに、誰かの温かい手が肩に触れる。


「こんなところでなにをしている。そなたが怖い顔をして睨んでおるから、皆がここを通れぬとこぼしておったぞ」

 目の前に父の顔があった。そのたくましい腕が桃香をひょいと抱き上げた。

「お父上」

「ふん、背が伸びたから女らしくなったかと思ったが、軽いし、まだまだのようじゃ」

 そう言って笑う。

 父は、桃香を横抱きにしながらどんどん裏方の方へ向かって歩いていく。貴世がその姿を見て、すぐさま奥の桃香の部屋の襖を開けた。布団は常に敷いてあった。つらくなったらすぐに横になれるようにと。


 そっと桃香を寝かせる。父はその傍らに座った。

「桃、表まで何をしに来た。侍女にも知らせず、貴世がかわいそうであろう」

 それはわかっていた。しかし、貴世にそのことを言えば、反対されるのがわかっていた。だから目を盗んで表方へ行った。

「父上様、なぜ、松を先に嫁にやるのです。順番からすればわらわの方が先のはず。松はまだ幼いのに、なぜ松を・・・・」

 父は、なんだ、そんなことかと苦笑交じりで言った。

「まあ、そう興奮するでない」

 桃香は深く息を吸った。胸が苦しくなりそうだったからだ。


 父の大きな目を見た。決断力のある力強い眼力。家臣たちを統一させ、ついていこうと思わせる自信にあふれる顔つき。この甲斐の国を治める武田信玄だった。

「桃はそんなに他家へ嫁にいきたいのか」

 そう問われ、すぐに返事ができなかった。否と言ってはならないのだ。

「桃は、松が不憫に思うから、自分が先だと申しておる。図星であろう」


 その通りだった。戦国の世、女はいつでも戦いの駒だ。敵国に嫁にやられ、表向きは親戚同士仲良くするように組まれた政略結婚。そんな人質結婚に女の幸せがあるわけがない。けれど、甲斐の姫に生まれたからには、人質としてでも言う通りにしなければならない。拒否することはできない。そうやって姉たちが次々と嫁に行った。すぐ下の菊姫はもうすでに長嶋の寺の息子と婚約していた。そして、今度こそ桃香の番だと覚悟していたのだ。それをすっ飛ばし、一番下の妹へ次の縁談話がいった。それで桃香は頭にきていたのだ。


「代りにわらわが行きます。うまく嫁ぎ先でやってみせます」

「しかしな、相手の年齢が」

 松の縁談は、織田信長の嫡男、奇妙丸という。桃香と同じ十二(数えで)とのこと。

「桃ならば、今すぐに嫁にださなければならなくなる。しかし、松ならば、今はまだ婚約ということで、手元においておけるであろう。もう少し時がかせげる。この先、どうなるかわからぬが、そういう心づもりでいるということを織田に見せただけじゃ」

 父の表情は、時折、手の届かない存在、御屋形様の顔になる。何かを企んでいるよう。一言で言い表せないほどのなにかがあると悟った。


「では、松が織田へ行くまでに、この桃がその助けができる家に嫁ぎます。その家臣のところでもいいのです」

 それはいい考えだと思った。しかし、父は悲しそうな目をしていた。

「桃、そなたはどこにもやらぬ」

「なぜ? なぜそのようなことを、姉上たちは皆、どこぞの大名家に嫁いでいかれたではございませぬか。なぜ、桃だけが・・・・」


「わしの側で養生せよ。桃は誰にもやらぬと決めたのじゃ」

 そこで悟った。桃香は婚姻に適さない体だと。子が成せぬ、それどころか、嫁ぎ先までの旅も難しいのかもしれない。

 その事実を知り、武田の姫として生まれた誇りと気力がガラガラと音をたてて崩れ落ちるようだった。お家のために嫁ぐこともできない姫。なんの価値もない。それなら生まれてこなくてもよかったのではないか。

 目頭が熱くなる。父にはそんな顔を見られたくなくて、布団をかぶった。


 武田の姫として恥ずかしくないように学問を習い、縫物を得意とし、いざとなったら嫁ぎ先の当主の留守を守るため、城を守るべく武術も習った。嫁にいけないなら、生きていてもしかたがなかった。涙が出ていた。

「悔しゅうございます。桃はお父上のお役にたてないのでございますね」

「桃・・・・」

「なぜ、桃はこのような体で生まれたのでございますか。せめて死ぬのなら、どこぞへか嫁いでからだったらよかったのに・・・・」


 父は桃香を抱きしめた。

「のう、桃。確かにわしはそなたの姉たちを他国の武将たちに嫁がせた。皆、戦国の世の女の運命と受け入れてくれた」

「桃はそのお役にたてませぬ」

 また涙が頬を伝う。

「わしの本心は姫たちをどこにも行かせたくはない。しかし、あちらから嫁に欲しいと言われてすべて断ることは難しいことだ。だからこそ、桃、そなたはこのわしの元にいて欲しい。わしの心の支えになってもらいたい」

 それは有難いお言葉だった。しかし、桃香はすぐに納得できなかった。嫁に出せないからそんなことを言うのだと思う。


「桃は・・・・生まれてこなくてもよかった娘でございますね」

 そんなことを言っていた。

「桃、この世に生まれてこなくてもいい人などおらぬ。武将でも、百姓でも必要だからこの世に生まれたのだ」

 父は桃香を強く抱きしめた。

「それはたとえ、兄上でも?」

 いじわるな言葉。ほんの二か月前、兄上をなくしている。

 父は躊躇することなく答えた。

「太郎(義信)も大事なわしの息子であった。その想いは変わらぬ」

 後悔の念があった。大好きな父を一時でも疑ったこと、申し訳なく思う。


「父上、こんなことを言う桃をお許しくださいませ」

 布団の中でむせび泣いた。

 上に立つ者は時として大きな犠牲を払わなければならない。それがどんなに大切な自分の身内であっても、いや、身内だからこそ、厳しくしなければならない。

 父の心の痛みがわかった気がした。

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