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姫の意識とその過去へ2

 初めて一真を見た時、懐かしい御仁を思いだした。ずっとお慕いしていた人によく似ていた。もちろん、別人だとわかっていた。けれど懐かしさに、おもわず腕の中に飛び込んでいた。



 意識を取り戻し、一真の母御のおかけで、その家に置いてもらえることになった。それはいいが、見るものすべてが姫のいた時代と全く違う世界だと気づき、愕然としていた。

 人々の服装、髪型も違う。それよりも家屋、町すべてが違っていた。


 一真が移動する頑強な鉄の箱に乗り、行先の指揮をとっていた。目まぐるしいほどの速さで走る、これを車と呼ぶそうだ。馬の背に乗り、移動するか、駕籠に乗るほかなかった姫の世界からすると脅威だ。町の中もよく整えられ、行き交う人々も皆、幸せそうに見える。

 希望を失った少女の代りを務めることになったが、その少女の住む世界がこれほど違うとは思いもしなかった。


 そして一真たちの会話を聞いて、話し方も使う言葉も違うことに気づいていた。奇妙な文字も目に入った。まるで読めない表示もある。しかし、その殆どの基本は姫の知る文字と違わない。慣れれば毛筆よりもらくに読めることにも気づいていた。


 一真たちの家屋は二階家で、比較的新しく見えた。すぐ横に濠とうっそうと茂った林のような木々。なぜかそちらには目を向けたくなかった。見てはならない物、探ってはいけない事。心の奥底にある不安に触れる物。


 鍵を開け、戸が手前に開く。母御がまず先に中へ入った。すぐに灯りがついた。すでに使用人が中にいて、帰宅と同時に灯りをつけたのかと思った。しかし、誰もいない。

「さあさ、涼子ちゃん。狭いとこですけど、自分の家だと思ってくつろいでね」

 母御は明るくてやさしい。髪を短くしているが、それはおそらく後家という意味であろう。打掛けどころか、着物じたいを着ていない。涼子の身に着けている着物も足が丸出しでスース―するが、体を締めつけないし、動きやすくできている。靴という代物も草履より歩きやすい。


 母御を見ていると、古府の御寮人様(三条夫人)を思い出す。

 裏方ではよく御寮人様の話をきく機会があった。明るく物怖じしないお方。その話は遠い都の京のことが多い。

「よろしいか、姫というものは殿御の前では、気高く澄ましているのじゃ。殿御たちがどんな無理難題を言っても心乱してはならぬ。そしてその意を読み取り、その先を考えて、うまく意見するのじゃ」

「御寮人様、それはちと難しいように思います」

 不安になった桃香がそう言った。

 そうできないと輿入れし、妻として認められないのではないかという懸念がつきまとった。

「案じるでない。殿御という者はな、子供のまま大きくなっている。しかし、年を重ねているから妙に頑固なところもある。だから、それを逆手に取り、母親のように諭し、うまく言うことをきかせるのじゃ」


 御寮人様はそういって、ホホホと笑った。

 姫の生みの母がいつも言っていた。御寮人様はとても賢いお方なのだと。甲斐を治める父に従っている口ぶりで、その言葉の裏にはそうしてはならない、こういうことがあるから気をつけろという忠告をすることもあると。

 殿御の言うことにはまず、そのおもいつきを褒める。決してあからさまに、そんなことはダメだとか、そうしない方がいいと反対してはいけない。こじれると意固地になったり、機嫌を損なうことが多いから。そして、その考えの盲点、弱点を誰かに置き換えて訊ね、そこに落とし穴があると気づかせる。そして、その解決策を「まさか、こう考えられておられるのではないでしょうか。さすが、御屋形様」と褒めるのだという。


 あのお方の元気な物言いは、人によれば、ずけずけと言う印象を持つ人もいるらしいが、本当の御寮人様を知る姫たちは皆、慕っていた。そして父もそんな御寮人様との会話を楽しんでいると母が言っていた。ポンポンと皮肉交じりの物言いにも父はにこやかに言い返しているらしい。姫も御寮人様のようになりたいと思っていた。

 今の世に出回っている書物には皆、御寮人様のことを誇り高い鼻持ちならない京女のように書かれていることが悲しかった。


 あてがわれた二階の部屋。母御が開けて見せてくれた押入れに、分厚い布団がしまわれていた。その部屋にもすぐに灯りがつく。明りなのに、火の気のないその眩い光はすごい。まるで家の中が陽に照らされているかのよう。夜、暗くなると寝かされる姫の世とは違う。夜も書物を読み、手仕事もできる。それはいいこと・・・・、いや、そうだろうか。これでは人はいつ休めばいいのかわからなくなるではないか。夜が暗いということは、人に休めと言っていると侍女が言った。しかし、逆に夜も働くことで、この優れた世の中になったのかもしれない。

 一体、どちらが幸せなのか。


 姫のいた世の町人たちは、朝早くから起きて、水汲みから始まり、家の家事、炊事、洗濯、掃除など一日かかってやっていた。休む間もないほど働き、夜はぐったりして眠る。この世ではまったく違う。すぐにつく明り、水汲みなど必要ない。水道という所からいくらでも流れ出てくる。御不浄トイレは目を疑った。姫のいた館にも水の流れを利用した御不浄はあったが、これほどまでではなかった。清潔ですぐに気に入っていた。


 このような便利な世だから、母御は下男下女もおかず、外で働いていられるのだと思う。そして子供はなんと十二年、人によれば、さらに四年も勉学のために学習所へ通うということ。それほど習わなければならぬことがあるらしい。なによりもおなごたちは子を産む時期を逃してしまうと心配していた。この世は寿命も伸びているとのことだが、それで本当に良いのか。


 夕餉になるまで美玖と一緒にいた。美玖の部屋には見慣れないものばかりだった。字が書かれた書物(本)もあったが、本棚をしめているそのほどんどが絵の描かれた書物(漫画)だった。極めつけはげえむ(ゲーム)と呼ばれる物。馬の手綱のような物を持たされ、突起ボタンを押したり、動かしたりすると目の前の絵が動く。さらに音が出る。歌も流れる。絵(画像)の向こうで人が叫んだり、戦いまでするのだ。

 この世では、絵の向こう側で戦が繰り広げられているのだと悟った。父は太平な世を望んでいた。この世ではそう見える。刀を所持している侍がいないからだ。


 夕餉の席では皆がそろっていた。今日も無事に過ごせたこと、温かい物が食べられること、なによりも息切れしないこの体にも感謝していた。


 母御の料理はおいしかった。驚いたのはサバという魚だ。姫の時代、館では、このような魚を目にすることはなかった。海のない甲斐の国にはなかなか生では入ってこない魚だった。ほとんどの海の魚は塩漬けか干物になって入ってくる。サバなどの類は腐りやすいから、酢などでしめた物以外口にしたことがなかった。この世では食材を冷やしたり、凍らせたりする箱(冷蔵庫、冷凍庫)もあると知った。なんという便利な世界なのか。それに飯の釜は、あの、どこか頼りない一真でさえ簡単に炊けるという。


 こんなに生活が変わっていても、米の飯を食べていることに安堵していた。

 しかし、一真を間近に見て、呆れていた。髷のない散切り頭は腑抜けに見える。哀れで直視できない。その上、一真はなんともしまりのない顔で食べている。なんという情けないこと。髷を結わないからなのか。着ている物もだらしのない下着のよう。姫の推測では、一真はこの家に仕える下男だとふんだ。最初はあのお方に似ていると思ったが、あの時だけの気の迷いだったと思うことにする。あり得ぬからだ。始終、あくびばかりしているこのうつけ(ぼんやりとしていて間抜け)がこの家の嫡男だということは嘆かわしいこと。

 いや、それならば、なぜこの者は母御たちと一緒に食事をしているのか。下男ならばの食事が終わってからひっそりと台所の隅で食すのが筋。この世はわからぬことばかりじゃ。


 湯あみも快適だった。常にちょうどいい湯加減に保たれているとのこと。いつもなら侍女に湯を汲んでもらい、髪を洗う。しかし、しゃわあ(シャワー)を使えば、一人でできる。


 姫と入れ替わりに美玖が湯殿(お風呂)に入っていた。台所へ行くともう母御が片づけを終わり、誰かと楽しそうに話をしている。それが誰なのか姿が見えぬし、向こうの声も聞こえない。いろいろと不可解なことだらけだが、もういちいち驚かないことにした。


 一真はどうしているのか。そっと部屋を覗いてみた。すると口をあけて寝ていた。眉をひそめてしまうほど間抜けな顔。すこし説教をしようと部屋へ入った。しかし、その寝床の脇になんともふしだらな絵を見つけていた。その娘はほとんど丸裸のよう。そんな肌を見せ、にこやかに笑っていた。そのおなごにも腹がたった。だが、元はこのようなものを好み、貼り付けている一真が一番いけないと思いなおす。

 おなごには悪いが、成敗させてもらった。世の中の秩序を守れぬ輩にはそれなりの態度を示さなければならないのだ。

*****


 姫は戦国の世に生きていた。常にこの日ノひのもとの国で戦が行われている。その火の粉がいつ自分たちの頭の上に降りかかってきてもおかしくない、そんな動乱の世だった。


 姫の意識は過去へ向いていく。


*****


 まだ、姫が八、九歳の頃。

 弟の五郎とその側近とだけで裏山へキノコ狩りに行った。ほんの少しだけのつもりだったから、姫は自分の侍女に、ただ、外にいると言付けに書き残して出かけていた。その頃は胸も苦しくならない日が続き、気分もよかった。それに秋晴れで清々しい日の午後だった。

 すぐにキノコが見つかると思ったが、探しても見つからず、そのうちにどんぐりを拾いはじめる。それがおもしろくて、どんどん山奥へ入り込んでいた。


「ほうら、またあったぞ。わらわの方がずっと多く拾っておるぞ」

 そう言って振り返った。負けて悔しいとふくれっ面をする弟の顔があると思っていた。しかし、弟どころか、側近の姿もない。耳を澄ましてみる。辺りは風に木の葉が揺れる音しかしない。常に走り回る弟の足音がしなかった。

 さっきまで暑く感じるほど良い天気だった。しかし、風に吹かれて、どこからか黒い雲が天の半分を覆っていた。

 まずい、雨が降る。すぐに戻れば雨に降られないかもしれない。しかし、側近がいるからと油断していた姫は今、どちらの方向へ降りていったらよいか全くわからなくなっていた。


「誰かっ、わらわは、桃香はここぞ」


 そう叫んでも風に吹かれる木の葉がこすれる音にかき消されていた。見る見る間に辺りが暗くなっていく。見慣れているはずの山の景色が急に変わっていた。

 父にも家臣たちからも恐れを知らぬ男勝りのお転婆と謳われた、この桃香が心細くなっている。それほど山が急変していた。

 ぽつりと一粒の雨を皮切りに、ザ~と降り始めた。こんなに元気そうにしていても、桃香は雨に降られるとすぐに熱を出す。三日、四日は床から出られなくなるのだ。

 どこか雨宿りができるところを探さなければならないと判断していた。大木の下もこの風では濡れてしまう。草履が脱げてしまったのも気づかず、走っていた。

 すると大木の根元に大きな穴があいているのを見つけた。それは桃香一人なら入れるくらいの木の《うろ》だ。その中へ入り込んだ。ここなら風で雨が吹き付けても濡れなかった。それに暖かい。知らない間に体が冷えていたらしい。ここで助けを待つ。雨が止んだら山を下りようと思った。

 雨はますます激しくなった。これでは桃香のことを探そうにも無理だろう。今更だが、侍女に詳しく告げずに出てきたことを悔やんでいた。


 心細かった。半分濡れた体が寒かった。もしかすると、誰も桃香のことを見つけられず、ここで朽ち果ててしまうのかとまで考えた。

 まだ何もしていない。もっと薙刀の稽古や妹たちとあやとり、貝合わせをして遊びたかった。いや、桃香は父のために、どこかの国へ嫁にいく使命を持っている。それが国盗り合戦の世の習いである。


 その時、誰かの呼び声をきいた。耳を澄ませる。風と雨にかき消されそうになっているが、確かに誰かがこっちへやってくる。

「わらわはここじゃ。誰かっ」

 夢中で叫んでいた。もう終わりかと思っていた。救われた。

「誰かっ、ここにいる」

 何回か叫んでいた。やがて、間近でグシャっという泥を踏むような足音が聞こえた。

「ここにおられましたか」

 木のうろに、びしょ濡れの少年の顔が現れた。それが十兵衛だった。


 最近、頻繁に顔を見る少年だ。兄、太郎義信の家臣だった。子供好きなのか、五郎が外で遊んでいると声をかけてくれる。桃香も一緒にいることが多いから、爽やかな笑みを向けてくれる。後で名前をきいた。雨宮十兵衛家次と言った。元服してすぐに召し抱えられたらしい。


「姫様、お怪我はございませんか?」

「怪我はしてはおらぬ。それほど濡れてもいない」

 それを聞いて十兵衛が破顔した。心からよかったと思っている表情。なんという温かみのある笑顔。

 十兵衛は、懐から火打石を取り出す。カチャという音と共に火を熾す。木のうろの真ん前に焚火をしてくれた。

「少しは暖かいかと思います。雨が止むまで待ちましょう」

 そして、その煙が真っ直ぐ上まで登っていくように手で仰ぐ。

「この合図で、姫様が見つかったとわかります」

 頭にかぶっている笠と蓑がずぶ濡れだ。この雨の中を探しまわってくれたのだ。

「皆が大変心配されておりました。特にお裏方では大騒ぎでございました」

「うん、そうであろう。わらわが悪かった。少しだけ山へ入るつもりでおったのじゃ」


 十兵衛の顔が厳しくなった。

「特に姫様の侍女、貴世どのはこの雨の中、飛び出していこうとされました。裸足のままで」

 貴世は桃香の侍女。幼いころからついてくれている。声を荒げたこともなく、淡々とした物言い。あの貴世がそんなに心乱れていたと聞くと胸が痛んだ。

「それがしは五郎様(のちの仁科盛信)の乳母であった曽野の息子でございます。この辺りの山は毎日のように歩き回り、自分の庭のように知り尽くしております故、それがしが必ず探しますと言って出た次第」

「そうか、曽野の・・・・。よく覚えている。体の方は大事ないか」

 曽野は体調を崩し、家へ帰っていた。

「はい、おかげさまで今は畑仕事までできるようになりました」


 雨が止んだ。空が明るくなり、木々の合間から陽がさしていた。通り雨だったらしい。

「では山を下りると致しましょう。失礼をば」

 濡れた蓑を脱ぎ、十兵衛が、木のうろから出た桃香に背を向けて座り込んだ。それは背負ってくれるということ。

「わらわは歩ける」

 殿御に身を任せるなどと、恥じらっていた。

「姫様は草履を履いてはおられません。さあ」


 まだその当時、十兵衛は十四、五だったはず。しかし、ひょろりとしていて頼りないと思えたその背中はわりと大きく見えた。草履がなかった。もうすでに素足は傷だらけ。そんな足で下山は無理だった。その広い背中に体を預ける。暖かかった。

「しっかり肩につかまっていてください」

「わかった」

 しがみつくようにしっかりと肩につかまった。

 十兵衛が立ち上がった。そして、そのまま山道をおりていく。

 その軽快な足取り。確かに慣れた道らしい。

「重くはないか」

 小さな声でそう言った。

「重くはございません。むしろ、姫様にはもう少しふくよかになられたほうが感触がよろしいかと・・・・」

 むっとしたが、それが冗談だとわかる。十兵衛の背中が笑っていた。まだ桃香の体は少女のまま。しかし、すぐに変化して、女人らしい肉付きになるだろう。


 それからも十兵衛が館まで来たときはいつも五郎の所へ来てくれる。五郎の所にはほとんどと言っていいほど桃香がいた。




 しかし、その翌年のことだ。大変なことが起こった。夏、父、信玄が川中島の戦いから帰ってきた後のこと。館内が荒れていた。

 武田家嫡男、義信が謀反の罪で監禁された。その翌年、父は一月に義信衆と言われる八十騎を処刑、或は処分していた。まだ少年の槍足軽だった十兵衛も追放されてしまった。

 このことは、古府の御寮人様(正室の三条氏)でも、父になにも言えなかった。それは男の世界、女性が踏み込めない戦国の習いだった。

 それから、父は武田の行く末を考えたのだろう。諏訪にいる兄、勝頼が織田関係の嫁をもらった。武田の跡目は勝頼にと考えているのか。


 その後、桃香の想い人、雨宮十兵衛家次は小田原へ渡った。北条氏康に仕え、幾度も合戦で一番槍で手柄を立てたと聞いた。弟の五郎は、桃香が十兵衛のことを好いていることを知っていたから、それとなく、耳に入れ、教えてくれたのだ。父上の側近でもある高坂弾正も十兵衛のことを気にかけてくれていた。


 その頃の十兵衛と一真はよく似ていた。同じ雨宮を名乗るから、一真は十兵衛の子孫なのかもしれない。

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