一真・道徳の時間
担任の田中先生が黒板に「幸せだなって思う瞬間は」と書いてクラスを見回した。昨日の姫と三人組の対立で、生徒たちが受験などのストレスを感じていると思った。そこで田中が考えついたテーマについて話してみることにした。
生徒たちがざわついた。一真は教室の一番後ろに座って見ていた。生徒たちの表情、詰め込み教育の時間とはうって変わって輝いている。それはそれぞれ皆が、自分の言いたいことを考えて、それを言いたいって思っていることだ。答えが自分の中にあるということはこういうことなんだろう。
教師とは、物を教えることだけじゃなくて、子供たちに学ぶ楽しみを教えることも兼ねていると思う。さらにその教えられたことはすべて成績のためじゃなくて、将来の自分のためにその知識を身につけて社会に貢献していくことを実感してくれるといい。
田中先生は手が上がった人から意見を言わせていた。
「沢田屋の大人気のチーズケーキが買えた時」
「よし、先生も好きだぞ。今度おごれ」
先生も好きなんだという声がもれる。くすくす笑いがあちこちで起こった。
「ゲームで勝った時」
「先生は負けが多いからうらやましい」
皆がどっと笑う。田中先生のいいところは、一人一人の言葉に自分もそう思うと後押ししている、共感してくれるってところだ。こんなことを言ったら笑われるんじゃないかっていう心配が生徒から消えていた。
「夕飯がカレーだったとき」
「うちなんか、ほぼ毎日カレーだぞ。簡単だし、うまいし」
田中はそんな感じでどんどん生徒に言わせていく。
「朝、起きて晴れてた時」
「マラソン大会でもか?」
げらげら笑いが起こった。
「テストが終わった瞬間」
「俺もほっとする。さあ、採点ができるってな」
段々と物欲から意識的な事に変わってくる。
「お姉ちゃんと喧嘩して勝った時」
「次は姉ちゃんに勝たせてやれよ。引き分けってことで」
「ええ? 引き分けじゃあ、勝ったことにならないじゃん」
と他の生徒。
田中がニヤリと笑った。
「五分勝ちって知ってるか」
一真は知っている。姫のことを探るため、読んだ本に書いてあった。
「信玄の五分勝ちだ。引き分けでも勝ちとするってこと。なにがなんでも勝つと無理しないで、先行きを見定め、引き分けとなるのなら、それでもいいじゃないかということだ。信玄公は上杉と川中島の戦いで何度も引き分けで終わっているだろう。そのたびに、自分は勝ったって思って退陣してたんだ」
負けるが勝ちでは認めたくない人もいるかもしれない。けど、引き分けなら、双方が自分が勝ちと思えるかもしれない。
大方の生徒がどんどん意見を言っていた。
「好きな人に告白してイエスって言ってもらえた時」と言った女生徒に、皆が冷やかす。
田中が生徒たちの顔を見まわしていた。ほとんどの生徒が答えたと思う。その中、姫がやっと手を挙げた。
「はい、細川」
生徒たちの関心が姫に向いた。
「すぐに明かりがつくこと、そして水汲みをせずともすぐに水が使える。いつ敵が攻めてくるかと心配しなくてもよいこの世の中に幸せを感じる」
クラス中がシーンとなった。田中先生も間があいて答える。
「あ、おう。停電とか断水のときは本当にそう思うぞ。ええと、敵? ゲームの話か?」
「まだございます。男女の差別なく、このように席を同じくし、師匠のお言葉がいただけること、民百姓、すべての人が白い米を口にできること。下男下女を雇わずに、一日の仕事がこなせる便利な世の中になったこと」
「それって、電化製品が充実してるってことか?」
「はい。昔は、早起きして飯を炊き、洗濯も手でやっておりました。水汲みも子供の役目。朝も暗いうちから起きてやる。冬はさぞかし寒かろうと思いまして」
皆がそれを想像しているらしい。今の自分たちは洗濯をするのも洗濯機が、ご飯を炊くのも炊飯器がしてくれる。冷蔵庫があるから、なんでも入れていつでも食べられる。コンビニは年中無休だ。交通機関も充実しているから移動するにも時間がかからない。それらのない生活、一真でさえ想像がつかない。
今の普通の生活がどんなに幸せなのかを実感するときはそれを失った時なんだろう。