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CPR・普通なら心肺蘇生法のこと。 キスとか、胸を触るってことじゃないので、一応。

 少女の強い気持ちが宙に浮かび、そのまま低く重い念となって、暗闇に沈み込む。


【もう疲れた。いいことなんてあるわけない。笑うことなんてできないのかもしれない。私なんて生まれてこなくてもよかったんだ・・・・】


 闇に沈み込んだ念は、時を越えていく。その念と共鳴した姫の想いと交わり、渦巻いていた。


《必要だから生まれてきたとわらわは思うぞ・・・・》


【え? あなた、誰】


 少女が動揺していた。誰もいないと思っていた暗闇の中から人の声が聴こえたから。


《この先、いいことが起こらないと、なぜ、そう言い切れるのじゃ》


 その声は不思議だった。少女をいたわってくれるような優しさが伝わってくる。だから、甘えもあったのかもしれない。本心をぶつけていた。


【だって、だって・・・・、私はもう十五年、生きてきた。でもつらいことばかりで、もう嫌】


《まだ十五年であろう?》


【私のことなんて、誰も関心を持っていないっ。いなくなってもいい人間なの】


 少女はおぼろげな父の顔、母の顔、そしていつも眉間に皺を寄せている叔母の顔を思い出していた。


《いなくなってもいい人間など、この世にはおらぬと思うがなぁ》


【ここにいるのっ。もう邪魔しないで、放っておいて。どうせみんなすぐに、私がいたことなんて忘れてしまうんだから・・・・】


 けれど、少女の心の奥底には誰かに助けてもらいたいという心があった。


《そうか。それならその体、わらわに貸さぬか? わらわがそなたに成り代わって、そちらの世を生きてみよう。そなたの気が落ち着いたら、またその体に戻ってくればよい》


【そんなこと・・・・、できるならどうぞ、お好きなように】


 そんなことができたらどれだけいいか。けれど、その声の言うように、今、少しだけ休めたら、少女の気持ちが変わるかもしれない。もっと生きたいと思うかもしれない・・・・と。


《では、そうさせてもらう》


次の瞬間、少女の目の前にまばゆい光が放たれた。少女の魂が沈み、新たな魂が入り込む。がっくりと力が抜け、足元がぐらつく。バランスをくずした。


 武田神社の裏側の濠で、なにかが暗闇の中に落ちる。バッシャーンという派手な水音をたてた。



*****


 家中に妹の美玖のキンキン声が響いた。

「お兄ちゃんがキスしてる。胸、触ってる、いやらしい~!」

*****


 そんな大騒ぎになるちょっと前まで、雨宮一真あめみやかずまは自分の部屋でぼうっとしていた。

 夕食を終え、部屋で寝転んでいた。風呂に入るか、そのまま寝てしまおうかと考えていた。始まったばかりの中学校の教育実習でへとへとに疲れていた。


 すんげえ。頭がゼリー状になって、箸でぐるぐるとかき混ぜられているような感じ。まだ中学生たちのキンキン声が耳に残っている。あいつら、教育実習生という中途半端な立場だからっていじるだけいじりやがる。手加減しろよ、もう。


 明日もあの中学生たちに囲まれて、もみくちゃになるかと思うとうんざりした。

 ものすごいエネルギーを醸し出すティーンたちに圧倒されている毎日。このまま寝てしまってはダメだろう。明日の準備しておかなきゃ、ダメ教師っていう穴にズルズルと引きずり込まれるぞ。


 頭をシャキッとさせるため外の空気を吸おうと、サッシを開けた。目の前にいつもの風景、武田神社がそびえ立っている。あまり観光客がこない裏側だけど。その暗闇を前に、大きく伸びをした。目を覚ましてから明日の予習、しとくか。


 そんな時、バッシャーンというすごい水音がする。

 なんだ? (ほり)の中の鯉が飛び跳ねたにしては大きすぎる。誰かが漬物石でも投げ込んだのかって感じ。庭に出て、暗闇に目をこらした。


《わらわを助けよ》


 そんな声が頭の中に響く。いや、声が飛び込んできたって感じ。

 後ろに誰かがいるのかって思って、振り返ったけど、誰もいない。 壁に貼ってあるポスター、アイドルのみずほちゃんがこっちをみて微笑んでいた。



 濠の方からバシャバシャと音がする。誰かがおぼれてる? まさか、武田神社の濠に落ちたのか。人魚ってことないよなっ(アホ!)。この辺りの濠にはフェンスがない。ここまで観光客がこないからだろう。


 ぼうっとしている場合じゃないっ。一大事だ。


 一真はそのまま自分の部屋から裸足で飛び出した。水がはねる音、確かに誰かが溺れかけている。

「おおい、母さんっ」


 奥へ声をかけて、庭の物置へ走った。濠に飛び込む前提で、水から上がってくるときのことを考えていた。物置の脇に立てかけてある梯子を手に取り、裏庭から道路へ出る。その向こうに武田神社があった。そして梯子を濠の中へ突き刺すようにおろす。すぐに飛び込んでいた。


 必死だったから冷たいなんて思わなかった。暗闇の中の水で泳ぐって怖い。それでも水音をたよりに泳いだ。



《わらわはこっちじゃ》


 またそんな声が聴こえた。


 そっちか、と、なにも気にせず、そのまま進んだ。

 濠は思ったよりも深かった。いつもは気持ちよさそうに泳いでいる鯉を眺めているだけで、濠の深さなんて気にしたことなかった。これは人が溺れる十分な水の量があった。フェンス、ここまでつけるべきだと思う。自治体のおっちゃんに今度言ってみようと思う。


 手を伸ばすとなにかが触れた。沈みかけていた体をつかみ、ぐったりとしたその手を自分の首にかける。そのまま戻り、濠の中に差し込んでいた梯子につかまった。左手でその人の体を抱きかかえ、梯子を登る。水から上がるとかなりの重力がかかる。落とさないようにしっかり抱きしめて、やっとのことで梯子を上り終えた。


 この辺りは木が生い茂っているから他よりも濠が浅いはず。けれど、こんな人けのないところで溺れたら、他の人に気づいてはもらえない寂しい場所でもある。ぐったりしている体を横抱きにして裏庭へ。そのまま構わず、開けっ放しの自分の部屋へ直行した。真冬ではないが、水に濡れた体は夜気には冷える。そしてに一真の母親は看護師なのだ。助けられるっていう確信があった。


「母さんっ、母さん」



 明かりの下でびしょ濡れの人物をみた。細く小柄な体から、少年だとばかり思った。どこかで見たことのある少女。もしかすると、うちの生徒なのかもしれない。ぐったりしていた。青白い生気のない顔。息をしていない様子。

「美玖みく、美玖、母さんを呼べ」

 なかなか母が来てくれなかった。隣の部屋にいるはずの妹の美玖を呼んだ。

 体を温めるために毛布で覆い、心臓マッサージを始めた。

「美玖っ」

 大声で叫んだ。

 うちの女性群は何をしてるんだっ。こんな緊急事態なんだぞっ。草木が眠る丑三つ時じゃあるまいしっ。


 するといきなりドアが開いた。

「うっるさいな。今、ゲームの最中なのにさぁ」

 十五歳とは思えない気だるそうな声、妹の美玖だった。ゲームなんかやってる場合じゃねえだろうっ。

そんなことを心の中で毒づく。こっちは必死で蘇生しているんだ。


 人工呼吸で息を吹き込む。教師になるために応急処置の知識としてCPR(心肺蘇生法)の講座を取っていた。まさか、実際に使うとは思ってもみなかったけど。


 美玖が目を見開き、口をあんぐりと開けて、こっちを見ているのがわかった。自分の妹ながら、アホ面って思う。

 「早く母さんを呼べっ」

 一真はまた心臓マッサージをするため、その少女の胸に手をあてていた。確か、理想的なペースはビージーズの歌、「ステイン・アライブ」に合わせてやるといいって聞いたぞ。

 頭の中で、裏声の男性が「ア、ア、ア、ア、ステイン・アライブ・ステイン・アライブ」と繰り返して歌っている。それに合わせて心臓マッサージをしていた。


「おかあさ~ん」

 やっと美玖が口をきいた。そうだ。母を呼べっ。


「お兄ちゃんがぁ、女の子、部屋に連れ込んでぇ、キスしてるぅ。ああ、今、胸を触ってる~っ。やらしぃ」

 え? なんだ、誰が女の子を連れ込んで、しかもキス? 胸だとぉ~、こんな緊急の時にどこのどいつが胸を触ってるっていうんだ。


 奥の台所から母の声がした。どうせ母も耳栓(イヤフォンの意味)でもして、動画を見てたんだろう。


「あははっ、あの一真にそんな真似ができるはずないじゃない」

 やっと母が姿を見せた。そして、心臓マッサージをしている一真を見て、「んまあ」と口をあんぐり開けている。

 そこまでは妹の美玖と同じ反応だったが、さすが、医療機関にいる母だけあった。すぐに状況を悟っていた。

「あら、まあ、溺れかけたの? どう、大丈夫?」

 そう母が言ったとたん、その少女は水を吐いた。死人のような顔に少し赤みがさした。


 その少女を横向きに寝かせ、母が背中をさするとさらに大量の水を吐いた。ゴホゴホという咳。少女の胸が上下し、息をし始めていた。母が脈をとる。

「うん、もう大丈夫。でも一応、病院へ連れていこうか」

 ほっとした。

「救急車、呼ぶ」


 美玖がその少女の顔を見て叫んだ。

「あ、うちのクラス委員長、細川さん? ねっ、お兄ちゃん、ほら、細川涼子さん」

 今は顔色が戻ってきている。やっぱ、うちの生徒だった。


 とりあえず、救急車を呼び、母の勤める病院へ搬送してもらった。息はしていたけど、意識が戻らない。母が救急車の中へ付き添い、着替えた一真と美玖は車で後を追う。美玖の同級生なら無関係じゃないし、一真も一応、その時の状況をきかれるだろうから一緒に病院へ行った。


「細川さん、家庭に複雑な事情があるって聞いたことがある。噂だけどね」

 美玖のその言葉は、涼子がだた単に溺れただけではないと暗示ている。その噂とは、それは本当ならかなり悲惨な事情だった。


 彼女は小学校の時、家庭内暴力で父親が逮捕された。母親にかなり暴力をふるっていたらしい。その時、両親が離婚。シングルマザーとなった母親は、涼子を祖母に預けて、どこか他県の旅館へ住み込みで働きに出た。しかし、数か月前にその祖母が亡くなった。すぐに母親へ連絡したが、とっくに辞めていて連絡がつかなかった。それで離婚した父方の叔母に引き取られたが、戸籍上は他人だ。その家でも歓迎されず、悩んでいたそうだ。


「そんな不幸な話ってって、まだ今の世の中にあるんだな」

 そうつぶやく。そうだ。そんな暗い家庭の事情なんて、一昔前のドラマの世界のようだ。そうなると自殺なのか?


「ばっかね、お兄ちゃんっ。今、シングルペアレントが増えてんの。うちだってそうじゃない。お母さんが一人で頑張ってくれてる。この教育社会で、シングルインカム、しかも低賃金、どうやっていけばいいのっ。そういう経済的な理由で大学進学をあきらめる人も多いんだから」

 なんでそんなこと、中学生に言われなきゃならないんだ。そういうことは政治家のお偉いさんに言えっ。

「うちは離婚じゃないだろう。父さんは亡くなったんだから」

「でもシングルマザーでしょ」


 そう言われてみると親の貧困で大学をあきらめる人が多いって、ニュースでやってたな。

「私のクラス、マジでシングルマザーの家庭、多いんだよ」

 なるほど、我が妹はそういう身近から学んでいるってことか。

 うちは持ち家があるし、母もかなり経験をつんだ看護師だ。金持ちじゃないけど、そんなに明日の生活を心配するほどではない。これで一真が無事、教師になれば、一応安泰だ。




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