第90話 帰宅後の憂鬱1
「はぁ……」
ソファに、どっかりと座り込んで、大きな嘆息を零した。
自分の部屋に、リーシャ一人しかいない。
誰とも、談笑する気すら起こらなかった。
ただ、遠くを眺めている。
たった一泊しかできず、家族とのささやかな団欒が、あっけなく終えてしまったのだ。
ケンカ中の相手アレスと共に、自分たちが住まう仮宮殿に戻っていたのである。
憂鬱なことを思い出し、顰めっ面し、さらに気分の悪さを味わっていた。
二人で宿泊していた部屋で、言い合いをした記憶が蘇っている。
「アレスのバカ……」
萎むような呟きを漏らした。
普段と変わらない、ケンカだったのかもしれない。
だが、ずっとリーシャの心を縛り、痛みを与え続けていた。
今回のケンカの原因は、恋しいと思いを馳せる両親のことで、全然リーシャの思いを知ろうとも、触れようともしない、アレスの無神経さに、怒りの矛先があったのである。
でも、時間が経つに連れ、アレスと言う存在が遠くに感じていた。
そのたびに、哀しくなって、侘しくなって、気鬱な気分を膨らませていたのだ。
メイ=アシュランス子爵邸からの帰りの岐路で、互いに無言を通していた。
言い合いをし、部屋を飛び出していったまま、リーシャは庭園をあてどなく歩き、一人で過ごし、帰る時間まで潰していたのだった。
ケンカしたばかりのアレスと、一緒の部屋にいたくなかった。
それに、不安定なままで、ユークたちと顔を合わせる自信がなかったのだ。
泣き言が湯水のごとく、溢れ出てしまいそうで。
帰る気がしないまま、ユークたちと別れ、車に乗り込んだのである。
重苦しい空気が、悶々と、車内に漂っていた。
狭い車内で、どす黒い暗雲が立ち込めていたのだ。
いつもとは違う雰囲気に、運転手やボディーガードが、何度もバックミラーで、発生源である後部席の二人の様子を窺っていたのである。
その顔は、居た堪れなさが滲んでいた。
でも、腹の虫が収まらないリーシャが、気づくはずがない。
いつものように、黙っているアレス。
だが、全身から放たれる負のオーラを、纏っていた。
隣に座るリーシャは、そんな状況に陥った際にも構わず、常に話しかけていたはずだった。
けれど、同じようなオーラを放出させながら、口を固く結んで、一言も発しようとはしない。
普段とは違う意味で、状況が飲み込めない、運転手とボディーガード。
車内に、居場所がなかった。
互いに視線を、チラッと合わせる。
願いは一つだった。
早く仮宮殿についてほしいと。
そうしなければ、窒息死しそうなほど、空気が息苦しかった。
定刻通りに、二人が乗った車列は、仮宮殿の前へ到着した。
陰鬱な状態のまま、自分たちの部屋に戻っていったのである。
クララたちに着替えを手伝って貰い、そして、着替えを済ましてから、ひと時の休憩を、まんじりとしない気分のまま、リーシャが過ごしていた。
お后教育の予習も、復習も、美術科の課題の油絵も、ハーツマニュアルを読むこともしてない。
ただ、やる気がないまま、時間を費やしていたのだった。
大好きな居眠りすら、したいとは思わなかった。
侍女たちを、無理やり退室させたので、誰も残っていない。
とにかく、一人になりたかった。
さらに、大きな嘆息を吐いた。
もうすでに、何度目かわからないほどだ。
政略結婚を決意してから、ずっと我慢してきたある思いを、どうにか止めている。
だが、それが一気に外れたかのように、心の奥底から、家族に会えない寂しさが溢れ出していた。
(自分で、決めたこと。ここにいなくっちゃダメ、絶対にダメ……)
何度も、堰止めようと試みるが、止まる気配がない。
ここから逃げ出したくって、堪らなかった。
次々に、制御を失った噴水のように溢れ出す。
「家に、帰りたい……」
我慢し、飲み込んでいた思いを、結局、呟いてしまった。
つくづくダメな自分に、がっくりと肩を落とす。
結婚前に住んでいた家に、帰りたくって、どうしようもない。
心が激しく、家族の温もりを求めていたのである。
顔を合わせ、触れ合っていたのに、王宮の住人になって以来、両親にも、弟のユークにも、自由に会うことも叶わずにいた。
でも、この状況下に置かれている立場を考えれば、帰れないことも、痛いほど理解していた。
(パパ……、ママ……)
伏せていた視線を、僅かに上げる。
注がれる視線の先は……。
部屋の外、さらには奥へと、意識が飛んでしまう。
瞳に浮かぶのは、ただの壁……。
そこの場所は、秘密の通路の入口だった。
アレス以外、誰も知らない場所だ。
以前に、アレスと二人きりの時に見つけ、何度も、迷路のように入り組んでいる秘密の通路を、二人で開拓し、探検した場所だった。
思い出深い場所だ。
その秘密の通路を使い、深夜に厳重な警備を掻い潜り、王宮を抜け出し、治安の悪い裏街まで、こっそりと足を伸ばしたこともあったのだった。
たくさんの思い出が、詰まった場所。
アレスと、繋がっている場所でもあった。
ふと、探検したこと、二人で王宮を抜け出した思い出が蘇っていた。
とても楽しかった記憶の断片である。
「全然わかんないな。アレスって、どんな人なの?……」
ひじ掛けに腕を置き、頬杖をする。
「あの時は、よかったのに……」
無表情に佇むアレスを、遠くに感じるほど、その表情は物憂げになっていく。
わかりたいと願っているのに、わからない。
手を伸ばそうとすると、その手を払って、どこかへ行ってしまうのだ。
そう感じると、暖かいものを求めてしまう。
二つの幻影……。
「パパとママに、会いたいよ……」
両親の温もりが恋しくって、恋しくって、しょうがない。
二人に、強く抱きしめて貰いたかった。
大丈夫だと……。
温もりを求めていた。
(あの秘密の通路を、使えば……)
一心に、その方向へ、熱い視線を注ぐ。
(誰にも知れずに、ここから……)
突然、勢いよく立ち上がった。
意識しないままに。
自然の流れに身を任せるように、ドアノブに手をかけ、ドアを開けて、一直線に飛び出していった。
目指すゴール目掛け、一心不乱に、その歩みを進める。
そのゴールの手前で、いきなり立ち止まった。
「リーシャ」
両親のことしかなかった頭が、現実へと引き戻った。
背後から、アレスによって、呼び止められたのだ。
廊下を歩いているリーシャの姿を見かけ、よからぬことが起こる予兆を憶え、アレスが呼び止めたのだった。
普段だったら、そんな真似は決してしない。
ただ、興味がないとばかりに、見過ごしていただろう。
厄介ごとに、巻き込まれるのが、いやだったからだ。
けれど、一瞬だけ垣間見えた顔が、どこか遠くへ行きそうな気配を匂わしていた。
だから、自分でも信じられないままに、声をかけたのである。
「どこへ行く?」
冷たい声音のせいで、ビクッと、身体を震わせていた。
立ち止まっている元へ、鷹揚な足取りで辿り着く。
そして、虚を突かれた顔を覗かせている前で、立ち止まった。
「どこへ行くと、尋ねた。なぜ、答えぬ」
「……えーと、あの……」
激しく翡翠の目が泳ぐ。
酷く、考えあぐねいでいたのだ。
この場を、やり過ごせる言い訳がないかと。
辛抱強い器量は、アレスに備わっていない。
待てぬとばかりに、乱暴に噛み付く。
「答えられないのか!」
「別に、そんな訳じゃないけど……、ただ……」
そう答えながら、何かを彷徨う目をしていた。
連想できる思惑に、拳を握り締めたい衝動を抑える。
常に、冷静にして置かなければと、心の声が訴えかけていた。
狼狽が隠せないリーシャ。
気づかれないように、小さな息をアレスが吐く。
「……ただ、どうした? この先には……あれがあるな」
「……」
逃げ場を失っていく状況。
ワナワナと、リーシャの唇が震えている。
知られたくなかったことを、知られてしまったのだ。
ばつが悪い表情に、イラつくアレス。
(何か、言い繕うこともできないのか? こいつは)
「散歩でもあるまい、何をしている」
自分でも気づかぬうちに、語気が強まっていた。
冷静になれと言う心の声が、小さくなっていたのだ。
(勝手に抜け出す真似は、絶対に許せない)
見下ろす眼光に、冷たさがこもる。
逃がすつもりがないと。
意思にそぐわぬまま、結婚した相手だが、自分の所有物なのである。
「ただ……ブラブラと」
「嘘を言うな」
ビクッと、冷たい響きに、身体が動く。
懸命に策を講じようとするが、頭は真っ白だ。
「別に、嘘だなんて……、ただね、ちょっと……」
「この先に、あれがある。あれを、使おうとしていたな」
「ま、まさ……」
「黙れ!」
「……」
気圧され、言葉が出てこない。
誰に、話を聞かれているかわからないので、秘密の通路のことは、決して言葉に出さなかった。
あれと言って、やり取りしていたのである。
現段階では、二人しか姿がなかった。
けれど、仮宮殿にも、多くの侍従や侍女が出入りしている。
いつ何時、姿を見せるのか、わからない状況なのだ。
何度か、口を開きかけるが、すぐに口が閉ざしてしまった。
険が含む眼差しに、居た堪れない。
それほど、眼光鋭い視線を、アレスが巡らせていたのである。
「言ったはずだ。あれを、一人では使うなと」
「……」
「遊ぶためか」
「違う、そんなんじゃない。パパとママに、挨拶できなかったから……」
懇願するように、冷え切ったアレスを見上げる。
両親のことを口にした途端、険の鋭さが身を隠し、冷たさが増していた。
その表情に怯え、口を固く結んでしまう。
「やはりな。一人で行こうとしていたな」
誘導尋問に引っ掛かり、しまったと言う顔を滲ませている。
以前に、一人で使うなと、強く約束させられていた。
二人で秘密の通路を、探索した際に、リーシャが何度も迷子になった経緯があったからだ。
背後からついてくるようにと、言われたにもかかわらず、それを忘れ、赴くままに足を進めていって、アレスとはぐれてしまったことがあった。
咄嗟に、リーシャの腕を、強く掴む。
「な、な、何するの?」
「……」
さらに、掴む手に力がこもった。
見下ろす目は、酷く怖い。
冷淡、そのものだ。
「来い」
引きずるように、強引に引っ張って、歩き出すアレス。
少しでも、秘密の通路から、遠ざかりたかったのだ。
「ど、どこに行くのよ」
「うるさい。黙っていろ」
「ア、アレス……、は、は、離してよ」
抗議するが、聞く耳を持たない。
秘密の通路とは、違う方へ、歩みを進めていた。
無理やりに、引っ張っていく先は、リーシャの部屋だった。
やめてと訴える声に、耳を貸さず、騒ぎを聞きたてたウィリアムや、ユマたちが、何事かと、次第に集まってくる。
これまで見たことがない光景だ。
ただ、ユマたちは戸惑い、すぐに次の対応を取れずにいた。
憤慨している様子のアレスを諌めようと、口を開こうとするが、アレスは他の者たちを封じるために、先手を打つ。
「誰も来るな。二人だけにしろ」
「……」
威圧する眼光も、忘れない。
誰一人として、逆らう者がいなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。




