第89話 メイ=アシュランス子爵邸に訪問5
深い眠りから僅かに醒め、ゆっくりと、完全に覚醒していない重い身体を、ベッドからノソノソと起こした。
ぼーとしまま、身体が前後左右に揺れる。
ユマたちお付の侍女が、これまでリーシャを起こしていた。
だが、一人で目覚めるまで、眠りに落ちていたので、起こされる前に起きたと、徐々に顔が綻んでいく。
そんな表情は、すぐに消えてしまう。
「……ここは……、どこ?」
見開かない薄い目で、見慣れない光景を眺める。
これまでの部屋と、違っていたのだ。
首を傾げ、何度か、瞬きを繰り返す。
「また、移動したんだっけ?」
(どうしたんだろう? ユマたちが来ないな……)
起こしにこないことを、不審に感じる。
毎日のように、寝起きの悪さのために、起こされていたからだ。
(ユマたちが寝坊? あり得ないな、それは。……じゃ、何で?)
段々と、これまでの記憶が、覚醒していった。
そして、アレスと共に、ユークの養子先であるメイ=アシュランス子爵邸に、宿泊した記憶が呼び起こされていったのだ。
「あっ、そうだ……。パパたちに会いに来たんだった……」
ようやく見慣れない光景に、合点がいった。
寝起きの悪さのせいで、すっかり飛んでいた。
両親や弟と会えた記憶に、頬が上がり、ニンマリと微笑んだ。
まだ、呆然としている頭を、隣のベッドに傾ける。
ベッドの中身は、もぬけの殻で、寝ていたはずのアレスの姿が、どこにもない。
眠れないかもしれないと、不安を抱いていたが、いつの間にか、寝息を立てて、深い眠りに陥っていったのだった。
(意外と、眠れるものなのね……)
素朴な感想を、抱いたのである。
慣れないことに緊張し、眠れないと思い込んでいたのである。
それが、両親に会えたことで、ぐっすり眠ってしまったのだった。
「いない……。どこにいっちゃったんだろう?」
静かな雰囲気に、部屋のどこにもいないことを感知した。
いつも一人で行ってしまうアレスに、冷たい風を感じずにはいられない。
置いてかれるから探し、腕を取ろうとしても、すり抜けられてしまうのだ。
掴めそうで、掴ませてくれないのが、アレスだった。
それが、とても寂しく悲しかった。
靄が取れた頭で、時計を確かめる。
「!」
それは、ありえない時間だった。
「嘘!」
(アレスがいなくても、当たり前じゃない)
「何て時間なの! 九時過ぎてるじゃないの……」
普通に暮らしていた際は、少し寝過ごしたかと、思う時間帯だが、王宮で過ごすようになり、朝早くから起こされていた身分にとっては、考えられない時間だった。
結婚前の生活では、十時、十一時過ぎまで、惰眠をしていたが、結婚して以来、生活スタイルが、がらりと変貌してしまった。
恐ろしい時間に、すっかり頭の中が、冴え切っている。
脳裏にある女性の姿が、しっかりと描かれていたからだ。
この場に、ユマの姿があったならば、それは鉄仮面の形相で、立っていたに違いない。
ジリジリと、鬼気迫る恐怖が、目覚めたばかりのリーシャを襲った。
いないとわかっていても、ちゃんとしなければと言う意識が働く。
飛び起き、真っ先に部屋から出ようとするが、夜着のままだったことに気づく。
見るからに、挙動不審の動きだ。
「着替えなくっちゃ」
着替えようと、自分の服を探す。
着替えが、どこにあるのか、わからない。
最近は、侍女たちが用意してくれていた。
そのせいもあって、結婚前までは自分のことは、自分でしていたはずなのに、その場に立ち往生し、あたふたと戸惑うのだった。
これまで、できていた日常生活が、本人も気づかぬうちに、苦手になりつつなっていった。
「どこ? 着替えは」
どうにか、着替えを探し出して、着替える。
簡単に、身支度を確かめてから、勢いよく階段を、駆け下りていった。
両親や弟の姿を捜し、部屋と言う部屋を開け、隈なく探していく。
部屋に、誰もいないと知った途端、軽くショックを受けた表情になった。
諦めきれず、次の部屋にいると、意気込んで入っていったのだった。
残り少なくなったある一つの部屋で、ユークとシエロが楽しげに談笑していたのである。
「パパと、ママは?」
息を切らせながら、問いかけた。
表情の半分は、ホッとした顔だ。
「帰ったよ」
「えっ……もう?」
「……うん……」
一気に沈んだ顔に、ユークの返答が鈍い。
心苦しさが、あったからだ。
「どうして?」
「パパの仕事だよ」
「パパの?」
「よくわかんないけど、たくさんの仕事が入ったらしく、忙しいみたい。朝早くから夜遅くまで、仕事をしているみたいだよ」
「そんなに?」
「会うたびに、忙しいって言ってる」
「珍しいね、パパの仕事が、忙しくなるなんて」
「そうなんだ。それで、ママと一緒に帰っていったよ、朝早くに。……姉ちゃんのこと、起こしてくるよって、言ったんだけど、せっかくだから、寝かせてあげなさいって、ママが言うから……、だから……ごめん」
姉を気遣い、ユークなりに、一生懸命、両親を引き止めたのだった。
「それじゃ、しょうがないよ」
無理に、笑ってみせた。
絵付け職人のポルタに、朝早くからの仕事に付き合う形で、カーニャも一緒に帰ってしまったのだ。
ポルタの仕事は、皿などの食器類に、絵付けをする職人なのである。
これまで仕事は忙しくなかったが、王太子妃の父親が勤めていると言うこともあり、急に仕事が舞い込んで、忙しくなったのだった。
そんな忙しい中、急遽決まった王太子夫妻が、メイ=アシュランス子爵邸に泊まる日程に合わせ、無理やりに仕事の休みを作って、二人は駆けつけたのである。
ユークにも知らせず、出て行く予定だったが、出て行く際に、珍しく早く目覚めたユークと鉢合わせしてしまい、姉のリーシャにも知らせようとするユークを、カーニャが制止させた。
それは、後ろ髪を惹かれるだろうと思う親心だった。
別な話題に切り替えようと逡巡し、落ち込むリーシャに話しかける。
「え……と、姉ちゃん、朝食は、どうする? 姉ちゃんだけ、まだなんだけど?」
「……食べる」
「わかった。うちのシェフの腕も、いいよ。楽しみにしててよ」
「そうなの」
「ああ。美味しいやつを頼んでくるよ」
「お願いね。楽しみにしてくるから」
元気付けようとする弟に、笑顔を傾けた。
弟の優しさを、無駄にしたくなかったのだ。
それに同じように、両親と離れて暮らす弟に、心配をかけたくなかった。
一人での朝食にはならなかった。
すでに済ませたユークとシエロが、付き合ってくれたからだ。
話が弾んだ食事も終え、滞在している部屋に戻っていくと、朝目覚めた際に、姿がなかったアレスが、いつの間にか戻っていた。
一人用のソファに腰掛け、ただ外の風景を眺めていたのである。
一人で朝食を済ませた後に、アレスは暖かなテラスで読書をして過ごし、部屋に戻ってきたのである。
「起きたようだな」
「うん。……パパとママ、帰っちゃったんだって」
何気ない様子を装っていた。
でも、声音で、沈んでいる様子がわかる。
何で浮かないのか、それがアレスはわからない。
それについて、理解しようとも思わなかった。
「知ってる」
「どういうこと?」
意外な返答に、虚ろだった視線を、アレスに移したのだ。
それに合わせるように、アレスも怪訝なリーシャを見据えていた。
雲行きだけ、怪しくなったことだけ感じている。
「昨日の夜に聞いていた。先に帰るからと、挨拶に来た」
端的に、ことの仔細を説明した。
庭先で、リーシャとユークたちが遊んでいる間に、ポルタたちは、ひっそりとアレスに会いにきて、朝早くに帰る旨と、挨拶を行ったのだった。
「……」
それがどうしたと言う顔で、唇を震わせるリーシャを眺めている。
(何も、感じてない顔……。私の気持ちもわからないの?)
相手を理解しようとする、欠片もない、アレスを捉えている。
一緒に暮らして共にいるようになり、少しずつだが、何となくそうじゃないかと思えるぐらいに、難しいアレスの表情を感じることができるように、なっていたのである。
当の本人は、それすら、気づいていなかったのだ。
「……どうして、言ってくれなかったの?」
冷静になろうとしているが、小刻みに声が震えている。
こういうやつなんだと巡らせるが、色めく立つ感情が、上手く言うことが利かない。
「何がだ? お前は、何を言っているんだ?」
何に、顔を曇らせているのか、困惑気味なアレスは、見当もつかない。
ただ、憤慨していることだけは、表情や声で、判断したのである。
(なぜ怒っている? わからない、なぜなんだ……)
首を傾げつつも、無視できず、目を離さないでいた。
これまでだったら、興味が失せたと、立ち去っていただろう。
けれど、知り合って、一緒に暮らすようになってから、目が外せなくなっていたのだ。
「おい。なぜ答えない」
「……」
無神経な態度に、気持ちを抑え込むのは、難しい領域まで達していたのである。
俯いていた顔を上げ、怒号を上げる。
「パパとママのことよ! 何で、帰るって知っていて、教えてくれなかったのよ!」
「知らなかったのか」
爆発した怒りのせいで、僅かに驚きを見せる仕草に気づかない。
そんな余裕なんて、なかったのだ。
「知らないわよ! 教えてくれれば、もっと、パパとママのところにいたのに」
「今日の午後には帰るんだ。たかだが、数時間の違いだろう」
大したことはないと言う態度が、余計に悲しく思えて暗く沈む。
窺うアレスからは、俯いて、前髪で隠れて、全然表情が読めない。
怒声を上げる声音で、さらに怒っていることだけ、認識できたのである。
「……」
「リーシャ……?」
黙り込む姿に、呼びかけた。
「……」
「おい」
待っても、返事が返ってこない。
「理由を……」
「アレスには……、大したことはないかもしれない。でも……、でもね……私にとっては、とても大切なことなの……。……アレスのせいで、パパとママと話せなかったのよ! バカアレス!」
語尾を、思いっきり力強く吐き捨てた。
ようやく顔を上げた表情に、目を丸くして凝視している。
その翡翠の瞳から、うっすらと涙が滲んでいたのだ。
(また、泣かせたな……)
ずっと、その姿に見入っている。
「パパと、ママと、一緒にいたかったのに……」
弟やシエロの前だから、不満や涙を零すのを、我慢していたのである。
けれど、人の気持ちをわかろうとしない無神経さに、その張りつめられていた糸が、ぷつりと切れてしまったのだ。
両親が帰ったと聞き、朝食を取る気分ではなかった。
でも、気遣う弟に気遣って、明るく楽しげに、朝食を無理やりに口に運んで、喋っていたのである。
無理に、無理を重ねていた。
それをアレスの言葉で、破裂してしまったのだった。
「何で、帰しちゃうのよ、バカ」
「……」
「バカ、バカ、バカ」
バカと、罵倒されても、瞬時に答えることができない。
涙を流す姿に、見惚れていた。
そんな思いを抱いているとは知らず、唇を噛み締める。
頭の中では、アレスは悪くないとわかっていた。
誰も悪くないと、わかっていたのである。
でも、わかっていても、心が許せなかったのだ。
「バカアレス!」
戻ってきた部屋を、リーシャが飛び出してしまった。
その後を追うとはしない。
ただ、呆然と、眺めているだけだった。
我に返った途端、罵倒を浴びせられたことに、ようやく腹を立て始める。
鋭く目を細め、飛び出していった扉を睨んだ。
(何が、バカだ。僕を誰だと思っている? 僕は王太子なんだぞ)
結婚以前に、目の前で、罵倒されることは、これまでの人生でなかった。
誰も、王太子であるアレスに、敬意を示していたのだ。
胸のうちに、何か持っていたとしても、面と向かって、話す人間はこれまで出会っていない。
でも、再会して以来、誰もしないことを、平然とするリーシャのことが、印象強く心の中に根付いていたのである。
時に、腹立たしく思いながらも、それは新鮮なものだった。
「何で、バカと言われないと、いけない」
顰めっ面で、口にするものの、心には涙を流す姿が、くっきりと焼きついていた。
自分が悪いことをしたような気分を、味わっていたのだ。
「僕は、悪くないぞ。なのに、なぜこんな気分になる……」
涙を流す光景を、目にするたびに、なぜか、罪悪感を抱く。
悪いとは、思っていないのに。
そして、そんなことを思わせるたびに、腹立たしさを募らせる。
それと同時に、いろいろな顔を見てみたいと思ってしまう。
「悪くない。悪くない……のに、なぜだ……」
両親との関係が、希薄なアレス。
密な親子関係でいるリーシャと、両親の繋がりが、理解できない。
だから、帰る挨拶を受けても、それを告げる真似をしなかった。
先に帰るのかと、単純な感想しか、抱かなかったのだ。
できるだけ一緒に両親といたい気持ちを、全然把握していなかった。
両親と離れて暮らすのは、アレスの価値観の中で、当たり前だった。
出て行った情景が、目の前で何度も、リプレイされていたのである。
(どこへ行った……)
ふと、脳裏に嬉しそうに、ラルムからのプレゼントを受け取る光景が、映し出された。
無邪気に喜ぶ姿に、贓物が、ギュッと握り潰されるような錯覚を憶える。
ラルムと一緒にいて、楽しげに笑うリーシャの姿が、次々と蘇ってきた。
様々な場面で、互いに笑い合っていたのである。
どれも、これも、嬉しそうに、微笑む姿ばかりだった。
「……」
痛みに堪えるような形相が、浮かび上がる。
(心が、乱れてはいけない。僕は王太子だ。誰に、見られているとも限らない……。平静を取り戻さなくては……)
疼く心に、言い聞かせる。
だが、次から次へと流れ込む映像を、止めることができない。
振り払おうと、闘うが、コントロールを失ったように、流れ続ける。
流れ込む映像は、すべてラルムとリーシャの仲睦まじいものばかり。
王太子のいとこと、王太子の妻と言う関係を知らなければ、仲のいい恋人同士が、楽しげに触れ合っているように、見えるような風景だった。
「政略結婚とは言え、ルールは守れ……。でなければ、僕は……」
冷たい顔が、そこにあった。
読んでいただき、ありがとうございます。




