第88話 別な場所では
王宮から少し離れた場所に、海外から戻ってきたラルム親子が、三階建ての屋敷に住んでいた。
この屋敷は、母メリナの実家が所有していたものであった。
そこに、何年も海外で暮らしてきた二人が、戻ってきて、生活していたのである。
母親と二人だけの団らんを終え、ラルムが自分の部屋に戻ってきた。
広く、ゆったりとした部屋。
そこに、絵や写真が、バランスよく飾られている。
部屋の隅に書き終えた絵や、まだ描き途中の数点の絵が、整頓され並んでいた。
そして、中央には、白い布で覆われた、描き途中の絵が置かれていた。
貴族たちとの会食を取らず、メリナは屋敷にいたのである。
可愛い息子と、久しぶりに一緒に食事を取るためだった。
息子ラルムの地盤を固めようと、親しい貴族たちと、毎日会って、意欲的に優秀なラルムの姿をアピールしていた。
少しばかり疲れた顔を覗かせながら、ラルムは写真立てに自然と視線を注ぐ。
卓に、複数の写真立てが飾られていた。
けれど、最近、注ぐ写真立ては決まっていた。
リーシャとナタリーたちと、一緒に撮ったものだ。
屈託のないリーシャの笑顔が、写っている。
その写真立てを、手に取る。
無意識に、頬が緩む。
無邪気な笑顔が、頭や胸がいっぱいに溢れていた。
「リーシャ」
穢れを知らない無垢な笑顔。
ラルムは愛していた。
見ているだけで、癒され、心が温かく感じるのである。
それを、ずっと隣で見ていたいと、願っていた。
ただ、それだけだった。
だけど、その願望は、一瞬で崩れ去った。
突然に、リーシャが、王宮に連れ去られてから。
ふと、幼き日に、アレスと一緒に撮った、写真立てが視界に入った。
「アレス……」
痛みを抱えながら、呟きが漏れた。
写真立てを持つ手が、震えている。
大切な陽だまりを奪ったアレスが、許せない。
これが、初めて奪われたことではなかった。
次期国王の座、そして、大切な存在を。
「なぜ? お前なんだ……、どうしてなんだ……」
止め処ない嘆きが流れた。
アメスタリア国の後継者は、シュトラー王の長男へと、受け継がれ、やがてその息子であるラルムへと続くはずだった。
だが、後継者は、次男の息子アレスと、決まってしまった。
順当に考えれば、長男ターゲスが受け継ぎ、そしてその息子であるラルムが継ぐと、誰しも思っていたはずだ。
自分の子供に後を継がせず、それを跨いで、孫に継がせようとしたのである。
それは誰しもが、逆らえることができない、シュトラー王の鶴の一声で決まったものだった。
そのせいで、幼いラルムの人生は、大いに狂ってしまった。
祖父シュトラー王と、父ターゲスは仲違いをし、自分たち一家は、海外で暮らす羽目になったのだ。
その海外生活で、ターゲスは病魔に侵され、若くして亡くなってしまった。
その意思を受け継ぐために、母メリナによって、ラルムは育てられたのだった。
辛く、悲しい海外生活でも、幼き日に一度だけ出会ったリーシャの存在を、忘れたことがなかった。
ことあるごとに、リーシャの笑顔が励みとなり、幼いラルムを、勇気付けたのである。
そして、いつか大人に成長した後に、会いに行こうと決めていた。
海外から戻って、クラージュアカデミーに、入学する日に、自分のことを忘れているリーシャと、偶然に再会を果たし、どんなに歓喜に溢れていたのか、言葉に言い尽くせないほどだ。
そして、以前に、自分たちに会っていることを、話そうとしていた矢先に、シュトラー王の手の者《コンドルの翼》に寄って、忽然とリーシャは拉致され、アレスと結婚することになってしまったのだった。
机の引き出しに、視線を注ぐ。
そこには、期限が切れた美術展のチケット二枚が、保管されていたのである。
拉致された日に誘って、行こうとしていた、悔しさが残るチケットだ。
何もなければ、そこで、すべて打ち明けていた。
それが、すべて狂ってしまい、こんな事態に、陥ってしまったのだった。
写真立てを元に戻し、描いている最中のキャンバスに、足を伸ばした。
そして、覆っている、白い布を取った。
キャンパスには、微笑む女神を、モチーフにした油絵が描かれている。
その女神に、熱い視線を注ぐ。
女神の瞳の色は、吸い込まれそうな鮮やかな緑色をしていた。
口角が、ゆっくりと上がっていく。
愛しげなものを見つめる眼差し。
「もう少しで、完成かな」
すると、スマホのバイブが鳴る。
相手を確かめると、友人のルカだった。
「ルカ。どうかした?」
『こんな時間に、ごめん。寝てた?』
「いや。これから、課題に取り掛かろうとしたところ」
『邪魔?』
「いいよ」
『あのね……リーシャ、大丈夫かな? 両親や弟に会うんだし、大丈夫だろうけど……、何か気になっちゃって。だって、殿下も、一緒なんでしょ?』
心配している声音で、どれだけ案じているのかわかる。
これまでの生活と、天と地のほどある環境に、置かれている立場のリーシャのことを、案じていたのだ。
普通の少女だった子が、いきなりに王太子妃殿下になり、周りの友達は、誰もが心配していたのである。
「さっきイルから、メール着ていた。同じ内容で」
『……そっか。イルも、心配していたのか』
声音が、和らいでいった。
「温厚な人柄の人だって、耳にしたし、きっと大丈夫だよ」
『うん……。なんかさ、慣れないところで、大丈夫かなって。でも、家族がいるんだし、きっとのんびりした時間を、過ごしているんだろうね』
「そうだね」
密かに、メイ=アシュランス子爵邸の様子を、窺いに行こうかと巡らしていたが、母メリナが在宅していたために、屋敷を抜け出すことが叶わず、部屋で、悶々とする気持ちを味わっていたのだった。
メリナは、ラルムが抜け出してリーシャの様子を見に行く可能性も考え、出かけずに屋敷に止まって、見張っていたのだ。
『ごめんね。こういうこと、聞けるのがラルムしか、思い当たらなくって』
「いいよ。わかることで、話せることは、答えるよ」
『ありがとう。やっぱ、ラルムは優しい貴公子だね』
心配している二人は、久しぶりに家族と一緒に過ごしている時に、メールや電話をして邪魔しては悪いと、直接かけられず、けど心配して、ラルムのところへかけてしまったのだった。
明るさと、優しさが取り柄のリーシャが、厳格や品格を重んじている王室で、やっていけるのかと、ナタリーたちは不安を抱いているのである。
だから、ことあるごとに、王室の関係者であるラルムに、大丈夫かと、確認していたのだ。
『ところで、ハーツパイロットは、大丈夫なの? これまでやったことのないことだから、何かやらかさないか、心配なんだけど?』
「いろいろと、憶えることがあって、大変みたいだけど、大丈夫。検査も、上手くいったし、問題はないよ。初めて経験することを、面白がっているよ」
『そう……。それならいい。……ごめん、こんな時間に』
「いや」
『じゃ、切るね』
「うん」
切ったスマホを、テーブルに置いた。
大丈夫と言ったものの、ずっと不安がられていた。
大丈夫と言いながら、それは自分に言い聞かせていた言葉に過ぎない。
誰もが、予想だにしていなかったリーシャの数値を知り、嫉妬や妬みが生じてリーシャに、危害を加えないかと、不安な想像が拭えなかったのだ。
以前に、リーシャの数値は、ラルム自身、調べさせて把握していた。
その際に、考えられない数値の高さに、驚いたものだった。
そして、アレスと結婚させ、突然にパートナーにさせたのかと、納得したのである。
普通では考えられない数字に、手を引かせたかったが、無力な自分では、何もできないと落ち込み、できるだけ、傍で守ろうと心に決め、常にリーシャの傍で、寄り添っていたのだった。
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