第87話 メイ=アシュランス子爵邸に訪問4
就寝の時間となり、シャワーを浴びたリーシャが寝室に入っていく。
すでに、シャワーを浴び終えていたアレス。
一人用のソファに腰掛け、本を読んでいたのである。
この時間になるまで、両親や弟にベッタリとくっつき、離れようとはしなかった。
優雅な姿に見惚れてしまうのは、一瞬だ。
頭を軽く振り、すぐに気を取り直した。
生乾きの髪を、タオルで拭く。
「楽しかった。久しぶりに、パパやママ、ユークと話せて。それにシエロも、可愛かったね。それと、ゲイリーさんって、いい人よね」
チラッと、無関心なアレスの反応を窺う。
視線の先は、下に降ろしたままだ。
一切、リーシャを見ようとはしない。
そんな態度に慣れつつ、相槌を打ってほしいなと願望する。
話しかけても、無視することが多く、会話が成り立たない。
心が折れそうになりながらも、それでも諦めず、根気よく話しかけていた。
少しでも、アレスと言う人物を、知りたいと抱いたからだった。
「宮殿の料理も、おいしいけど、やっぱり、ママの料理がおいしい。また食べたいな……」
本音を、ポロリと吐露した。
ずっと、宮殿の生活で、また食べたいなと、密かに抱いていた。
いくら高級素材や、質の高い素材を使った、一流のシェフの料理でも、食べ慣れた、懐かしい味であるカーニャが作った料理が、恋しかったのである。
突如、読んでいた本を閉じた。
珍しい仕草に、きょとんと目を丸くする。
「どうしたの?」
「お前は寝るまで、喋っているつもりか?」
「何それ」
「いつになったら、その口を閉じるつもりだ。寝ても、まさか喋るんじゃないか?」
これ見よがしに、ジロジロと顔を縦や横、あらゆる方面から眺めている。
(よく喋る女だな。さっきまであれだけ喋っても、足りないと言うのか)
見られていることに、奇妙な感覚を憶えながら、嫌味に気づかず素直に答える。
「寝てまでは、さすがに喋らないわよ。それより、どうしたの? いきなり参加するなんて? いつもだったら、無視しているのに?」
「別に。ただ寝ようと、思っただけだ」
「ふーん」
気のない返事に、アレスの瞳が光ったような気がした。
「僕が寝たら、いけないのか」
「別に、そんなことないよ。ただせっかくだから、話に付き合ってほしいなって」
「何?」
この状況を、きちんと把握しているのかと、訝しげに視線を注ぐ。
間抜けな顔を窺いつつ、気づいていないだろうと結論付けた。
この顔を、アレスは嫌ってない。
どちらかと言うと、好ましく感じてきている。
「だって、久しぶりに会って、眠れそうも、ないんだもん」
「くだらない」
呆れつつ、冷たく吐き捨てた。
(やはり、気づいていない)
胸の内側で、リーシャに気づかれずに笑う。
最近では、この鈍さも、楽しみの一つだった。
「ホント、アレスって、冷たい人間よね」
剥れている姿に、目を細めた。
「そ、そんなに……睨むことないでしょ?」
怜悧な視線に、怯え慌てる。
「寝る」
立っていたリーシャを通り越し、ベッドへ入り込む。
一連の動作を、翡翠の瞳で追っていた。
思考回路は、一瞬だけ、停止してしまった。
「……な、な、何で……、ここで眠るの?」
動揺し、たじろぐ。
同じ部屋に、ベッドが二つあったのだ。
寝ようとしてアレスが、入り込もうとしたベッドの隣に、視線を移した。
(何で、アレスと一緒の部屋なの!)
驚愕する表情が、隠せない。
ここに来て、ようやく一緒の寝室にいることに、気づいたのだ。
冷ややかな眼差しを、あんぐりと口を開いている姿に送る。
「ここが、寝室だからだ」
人を硬直させるような視線は、変わらずにだ。
しどろもどろに、首を傾げながら問いかける。
「も、も、もしかして……、一緒なの?」
「今頃、気づいたのか? お前は、バカだな。一緒に出入りしていただろうが」
一緒に、この部屋を出入りしていたのである。
家族に会えた嬉しさから、気づかなかったのだ。
「そ、そうだけど……」
激しい動揺を窺わせる姿に、不機嫌となっていく。
「家族に会えた嬉しさから、抜けていたんだな、お前の思考の回路は」
(そんなところだろうと、思っていた。まったくこの状況に、気づかないとは……、単純な思考過ぎる。寝る時間になって、気づくとは、どうなっているんだろうな。きっと、僕と言う存在も、忘れていたんだろうな)
「うっ……それは……」
凍らせるほどの冷たい視線に、否定できない。
その通りだったからだ。
恨めしげに眺め、小さな反抗を示した。
けれど、アレスには、全然効果がない。
「僕たちは夫婦だ。同じ部屋で、寝るのはおかしくない」
「それは……、そうだけど……」
「今から部屋を、別々にしろと言うのか?」
「それは……」
「無理だな」
はっきり言われ、がっくりと首を落とした。
「そうだけど……」
空のベッドに視線を注ぐも、まだ納得できない。
そんな態度に、さらにアレスがイラつく。
(そんなに、僕といたくないのか!)
心の中で、噛み付いていたが、表に出ている表情は、平静そのものだ。
なぜか、メイ=アシュランス子爵邸に到着してから、イライラが募っていった。
アレスと言う存在を、忘れたような態度が、許せなかった。
両親や弟に、ベッタリとくっつき、離れようとはしない。
それを垣間見るたびに、心の中が嵐のように、吹き荒れていたのである。
「僕にだって、好みと言うものがある。お前を襲う趣味を、持っていない」
「……そ、そんなの、わかっているもん」
怒気が孕む声に、身体が萎縮し、すぐに答えることができなかった。
怖いと思うと同時に、心にブスッと矢が刺さってきた。
ふと、頭の中にある女性の姿が浮かぶ。
あまり思い描きたくない、クールビューティーな姿。
恐る恐る上目遣いで、不機嫌なアレスを窺った。
(結婚したと言ったって、政略結婚した訳だし、アレスがステラのこと、好きだってことぐらい、十分にわかってる。けど、そんなこと、言わなくっても、いいじゃない? ……何でだろう? 胸が苦しくって凄く痛い……)
唇を固く結んで、涙が出そうになるのを堪えた。
惨めになる気がしてだ。
鮮明な記憶の映像として、アレスと元パートナーだったステラが、抱き合っている光景が頭の中に蘇っていたのである。
偶然にも、その現場を目撃してしまい、以前に、そのことで、アレスと口論したこともあった。
ステラは、自分たちと同じ高校一年生で、リーシャがパートナーとして選ばれるまで、デステニーバトルのアレスのパートナーを務めていた、クラージュアカデミー一の美人だ。
思い返すたびに、心が寂しく、痛くなっていた。
だから、懸命に忘れそうと心掛けていたのである。
だが、好みじゃないと言う発言に、唐突に思い出してしまったのだった。
(また思い出しちゃったじゃない? せっかく忘れかけていたのに……)
人知れず、心の中で嘆息を吐いた。
「寝る」
バカらしくなったアレス。
「何それ」
恨めしげな表情に気づかず、背を向け、ベッドへ入り込む。
目を閉じたアレスを見届けてから、空のベッドに、ゆっくりと入り込んだ。
今から騒いでも遅いし、他の人に迷惑をかけると、ようやく諦めがついた。
隣にいるアレスに、背を向け、翡翠の瞳を閉じた。
珍しいことに、目を閉じても眠れない。
頭の中が、澄み渡る空のように、すっきりしていた。
普段だったら、すぐに眠れるのに、今日に限って、眠ることができない。
寝返りを打とうと、身体をよじろうとする。
けど、その動きは、瞬時に止まった。
すぐ傍に、アレスがいることを、思い出したからだ。
(アレスがいたんだっけ……)
ままならぬことに、溜息を零してしまう。
「……ねぇ、アレス」
背を向けたまま、小さな声で呼びかけた。
静寂な雰囲気が、居た堪れない。
この流れを、少しでも払拭させようと思ったのだ。
「何だ」
どこか、呼びかけても、答えてくれないかもと思ったが、予想に反し、答えてくれたことに、僅かに驚愕するのだった。
普段だったら、何度、話しかけても、無視されていたからである。
(何か、いつもとは違うな、今日は)
「聞いてもいい?」
「何を?」
「ハーツパイロットの訓練って、いつから、受けているの?」
翡翠の瞳は、閉じられていない。
まっすぐに、見える壁紙を眺めていた。
意識としては、背後の様子が気になっている。
けれど、振り向く勇気がない。
ずっと、アレスは天井を見つめていた。
「三つの時だ。あまり憶えていないがな」
そっけない返事を返した。
寝ると言ったものの、眠気が全然襲ってこなかったのだ。
隣に誰かいると言うことに、アレス自身も、慣れていなかった。
「三つ……凄いね。アレスって、そんな時から、訓練しているんだ」
「五つの時の記憶もない、お前と一緒にするな」
「記憶ぐらいあるもん」
尊敬の念が芽生えたものの、棘がある言い方に、一瞬でそれは消え去ってしまう。
身体を僅かに動かし、アレスは隣のベッドに視線を移した。
横になっているリーシャは、背を向けたままだ。
その背中に向け、アレスが話しかける。
「思い出したのか? 写真のこと?」
「それは……」
はっきりと返事ができず、濁した。
未だに、幼い頃に三人であった、記憶を思い出してしなかったからだ。
何度か、当事者の一人であるラルムから、話を聞いたが、あやふやな記憶しかない。
五歳の時に、一度だけ会っているのに、その記憶を思い出せずにいた。
「アレスだって、憶えてないって、言っていたじゃない」
「リーシャとは違う。もう思い出した」
髪と背中をずっと凝視したまま、視線を外そうとはしない。
目の前にある背中は、近いようで、遠い気がしていた。
そんなアレスに気づかず、背を向けたままでいる。
「……本当に?」
「当たり前だ」
「思い出したんだ……」
ポツンと、一人だけ取り残されてしまった気がした。
自分に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調。
記憶の断片を、探ろうとする。
けれど、ぼんやりとした記憶しか、残っていない。
誰かと、海に行って、遊んだ記憶が、朧気にあるぐらいだ。
拙い記憶の断片しかなかった。
他の五歳の記憶なら、たくさん憶えているのに。
どういう訳か、アレスやラルムの記憶がない。
「まだ、思い出せないのか?」
「うん……。ぼんやりとしか」
嘘をついてもしょうがないと、白状した。
いつもよりも、饒舌に話してくれるアレスに、嬉しさがこみ上げていたのである。
思い出せなくても、いいやと過ぎっていた。
「あの時と、変わっていない」
「そんなことないもん。ちゃんと成長したもん」
成長していないと、言われたような気がして反論した。
「どこがだ。元気が出るキャンデーと称したキャンデーも、忘れて」
「えっ。……懐かしい、元気が出るキャンデー」
最近、聞いていなかった響きに、歓喜の声を上げた。
元気がない時に、祖父がいつも、くれていたものだった。
「アレスも、おじいちゃんから貰ったの?」
(お前からだ)
「ホントに、憶えていないんだな」
ボソリと、呟いた。
「えっ? 何が?」
「もういい」
吐き捨てた声音で、怒っている気がした。
「あ、そう。でも……久しぶりに、嘗めたいな」
哀愁がこもる表情を滲ませている。
元気が出るキャンデーを嘗めれば、頑張れる気がしたからだ。
クロスが旅行へ行く前に、大量の元気が出るキャンデーを貰ったが、それはもう嘗めてしまって、手元に一つも、残っていなかったのである。
懐かしい響きに、帰りたい思いが、強く引き込まれていく。
「そんなもの嘗めて、どうする? 子供じゃあるまいし」
「別に、いいでしょ」
「そんなに、キャンデーを嘗めたいのか?」
怪訝そうな声に、少し腹を立ててしまう。
「キャンデーじゃなく、おじいちゃんがくれる、元気が出るキャンデー」
「ただのキャンデーだろうが」
正当なことを口にした。
「違うの」
「どこがだ」
「とにかく、違うの」
その二つの違いが、アレスには理解できない。
祖父祖母から、いただいたものに、これといって、物欲が芽生えなかったからだ。
大切にはしたが、これほどまでの、拘りがなかったのである。
「……」
背を向けたままでいるリーシャ。
遠くに行きそうな気がし、アレスが手を伸ばしそうとする。
そんな無意識の自分の行動に、戸惑いが隠せない。
(僕は一体、何をしようとしていたんだ……)
二人の間に、沈黙の空気が流れた。
元気が出るキャンデーを回想していたら、無性に家族が愛しくなって、部屋を飛び出し、両親の元へ駆け出しそうになるのを、必死に堪えていた。
今、駆け出し、両親の元へいったら、両親が心配するだろうと、我慢したのだ。
握っていた掛け布団を、ギュッと掴む。
そして、唇を噛み締めた。
「そんなに嘗めたかったら、おじいさんに、頼めばいいだろう? 手紙とかで知らせて」
「どこにいるのか、わからないもん」
機嫌が直っておらず、言葉に棘が掛かっていた。
でも、しっかりと握られていた手は、緩められていたのである。
「結婚したと聞きつければ、そのうちに、連絡してくるだろう」
「どうやって?」
「忘れたのか? その頭は? 僕は、アメスタリア国の王太子だ。そして、リーシャ、お前は、その妻となって、大々的にニュースや、ネットで、世界各地に放送されたんだそ。結婚したと知れば、そのうちに、連絡してくるだろう? その時にでも、頼めばいいだろう」
提案を耳にしながら、見る見るうちに、その顔が綻んでいった。
「そっか。きっとおじいちゃん、私たちの結婚式を、テレビで見たよね」
「どこかの奥地に、行ってなければな」
「意地悪」
「どこにいるか、わからないだろうが」
「けど、こういう時は、すぐだって言うものよ」
「嘘を言って、どうなる」
「嘘でも、元気が出るよ、励みとなって」
「くだらない。もう寝ろ」
「うん……そうする」
読んでいただき、ありがとうございます。




