第72話 待ちぼうけ
お后教育を受ける専用の部屋で、予習を兼ね、リーシャはテキストを読んでいる。
勉強している位置から、少し離れたところで、侍女のクララが控えていた。
いつも、傍らに控えているユマの姿が見えない。
講義の時間は、すでに始まっている時間帯だった。
だが、始まる三十分前に、急に講義を行うユマが呼び出され、時間が過ぎても、姿を現わさなかったのだ。
椅子に腰掛けたまま、大きく背伸びをする。
普段、厳しい面持ちのユマが、近くにいたら、できない行為。
いない分、悠々と羽を伸ばせた。
控えているのがクララたちなら、そうした行為を、日頃から目を瞑り、知らぬ振りして、見過ごしてくれていたのである。
年頃が近いクララたちは、リーシャのお願いの顔に弱ったのだった。
腰を捻り、身体の向きを回転させる。
「遅いね、ユマ」
「窺ってきましょうか?」
「いいよ。もう少し、待ってみよう」
砕けた口調で、真面目に仕事を遂行しているクララに話しかけた。
「かしこまいりました」
軽く咳払いをし、注意を促される行為を、堂々としている。
エヘへと、無邪気に笑う。
厳しいユマを、決して嫌っている訳ではない。
いつも、傍らに控えていて、サポートしてくれるユマに、感謝している。
常に、控えているユマがいなかったら、すでに逃げ出していたかもしれない。
ただ、少々厳しく、怖いだけだ。
「ヘレナは?」
「アイロン掛けをしております」
「そう」
不慣れな王太子妃の専属の侍女が四人いる。
筆頭のユマ、ユマと大体同年齢のバネッサ、年若いクララとヘレナだ。
王宮の生活に慣れないリーシャの背後に控え、身の回りの世話をしていたのだった。
他の侍女がついていない訳ではない。
専属でついていないだけで、多くの侍女やボディーガードが、周囲を取り囲っていたのである。
「ママも、毎日していたな。私も、手伝ったことあるのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。結構アイロン掛けって、難しいのよね。しわにならないようにって」
「はい」
「今度、私にもさせて、アイロン掛け」
お喋りしていたら、無性に以前は面倒だとしか、感じなかったアイロン掛けをしたくなったのだった。
「そ、それは……」
素直な問いかけに、クララの目が泳ぐ。
期待する顔つきに、否定も、肯定もできない。
「私、ママに仕込まれたから、上手よ」
「……」
「大丈夫よ、本当に自信があるんだから」
厳しいユマがいない間に出る、何気ない砕けた話し方に、クララやヘレナは慣れ始めていたが、当初はあたふたと戸惑っていた。
優秀なユマのような、毅然とした対処ができず、何度か困りますと、訴えたことがあったのだ。
だが、悲しいような、寂しいような顔を覗かされ、見て見ぬ振りをするようになっていったのである。
それが、二人の精いっぱいの妥協点だった。
さすがに次期王妃になる人に、アイロン掛けをさせることができない。
侍女としての理性が動く。
瞬時に、そんな決意が揺り動かさせた。
けれど、哀愁漂う顔をされると……。
「お願い。少しだけ? ダメ?」
上目遣いで、見つめられる。
お願いモードで言われると、さらに分が悪い。
目上の人に逆らえないし、ましてさせることができなかった。
それに、今日は一人だ。
「……無理です」
か細い声で、辛うじて紡いだ。
ユマがするように、咳払いをする勇気さえない。
「バレないようにするから……」
「ユマさんに、怒られます」
「……」
いっこうに視線を合わせてくれない姿に、ダメかと、嘆息を零した。
「……わかった。諦める」
自分のワガママで、二人が怒られるのは忍びなかった。
自分のせいで、他の人が傷ついたり、悲しんだりすることが、いやだった。
「ありがとうございます」
「ごめんね」
「謝らないでください。私たちに」
「だって……。それも、ダメなの?」
「うっ……」
言葉が、詰まってしまった。
突然、ノックが鳴る。
瞬時に、ユマだと連想し、それぞれに姿勢を正した。
決して、口頭でユマが、リーシャを怒る訳ではない。
無言の鉄仮面が、降り注ぐのである。
それが何より、口で怒られるより、怖かった。
「遅くなって、申し訳ありません」
「大丈夫よ、ユマ。それより、何かあったの?」
愛想笑いをし、遅くなった理由を尋ねたのである。
遅くなるのなら、誰か別な侍女たちに、その旨を頼んで知らせてきたからだ。
瞬間的に、ユマは何かを感じ取る。
チラッと、クララに視線を巡らせる。
動揺をしているのが、ありありと身体から放出していた。
水面のように瞳が揺らぎ、身体がソワソワと動いていたのだ。
(また、リーシャ様がしたようね)
自分がいないところで、砕けた話し方をしていることを把握していたが、窮屈な思いばかりさせてはと抱き、気づかぬ振りをしていたのである。
如何にリーシャが努力しているのか、知っていたし、まだまだ足りない部分が多いが、少しずつ成果が出てきたからでもあった。
「はい。メイ=アシュランス子爵邸に、一日ですが、滞在することが決まりました」
「メイ=アシュランス子爵? 滞在って、お泊りよね?」
すぐに誰のことだが、判断がつかない。
聞き慣れない貴族名を耳にするたびに、静寂の間が流れていた。
首を傾げた状態で、考え込む。
辛抱強く答えを導くのを、ユマたちが待っていた。
「メイ……アシュ……、あっ、もしかして、ユークのところ」
「はい。滞在する日は、リーシャ様のご両親も、滞在することになっております」
ユマの話に、キラキラと、瞳を輝かせる。
思ってもみない話に、ニンマリも止まらない。
「じゃ、一緒にいられるの?」
「はい」
素直に喜ぶ姿に、僅かに口角が上がる。
「ホントに? 夢じゃないよね?」
「夢ではございません」
喜び勇む問いに、冷静に答えた。
嬉しさのあまりに、ユマの返答を聞いてない。
時々覗かせるリーシャの癖に、嘆息を一つ零した。
これまでに、何度か、促してきたのだが、一つのことを深く考えると、周囲に目を配ることが、疎かになってしまう傾向があったのだ。
(今日のところは……)
椅子から立ち上がり、背後に控えていたクララの手を取って、喜び合う。
時々、沈む顔をする姿を、気にかけていたので、歓喜にはしゃぐ姿に、よかったとクララが安堵したのである。
突然、両手を取られ、飛び跳ねて嬉しさを表現する無邪気な行動に、戸惑ってしまう。
冷静な行動を求められている侍女に、ない動作だった。
「リ、リー、リーシャ様……」
「聞いた? 会えるんだよ、ママやパパ、それにユークにも」
掴む両手をブンブンと振り、ぴょんぴょんと、軽快に飛び跳ねる。
そのたびに、クララの身体も、大きく揺れ動いた。
「は、はい……」
跳ねる振動で、上手く発せられない。
予想外な動きに、舌を噛みそうだ。
咎めるような視線を感じるクララは、その矛先に傾けた。
目を細め、口を固く結んだユマが、立ち尽くしていたのである。
帰れることで、いっぱいなリーシャは、まだ気づいてない。
どうしたものかと、身体で喜びを表している姿と、黙って立ち尽くし、こちらを窺っているユマを、交互に見比べている。
この状況が、あまりよくないことを察していた。
怒りの矛先が、自分の方へ向く前に、どうにかしないと……。
「あの……」
「ヘレナにも、教えないと。それにバネッサにも」
そんな苦慮しているクララの仕草に気づかず、ふと思い浮かんだことを、そのまま口にした。
自分たちだけで、喜び合うのではなく、この場にいない二人とも、喜びを分かち合おうと言う精神が、好ましいと感じる。
だが、上に立つ人間が、自分の感情を出してはいけないと、ユマが密かに抱いていた。
感情表現が豊かな部分を、直そうと心掛けているが、未だに感情が、そのまま顔や身体に表れていたのだった。
純真無垢なリーシャの、それが利点でもあったが、最大の欠点でもあった。
社交場では、決して好まれない仕草だ。
「二人とも、存じております。用意をするように、命じておきましたので」
「そうなの? ユマ」
顔が満面のまま、身体の動きだけ止まる。
ホッとしたように、クララが息を吐いた。
「はい」
「クララ、ふた……」
軽く、咳払いをするユマ。
紡ごうとした言葉を途中で止め、きょとんとした顔で、立ち尽くしているユマに、視線を移したのである。
注意を受けた原因が、把握できずにいたのだった。
「リーシャ様。遅れてしまいましたが、本来でしたら、講義の時間でございます」
「……」
はしゃぐ動きは止まったものの、しっかりとクララの両手を、掴んだままだったのだ。
「そうでした……」
しゅんと肩を落とし、そそくさと席に向かう。
席に向かう前に、目線だけで、ごめんねとクララに謝っておいた。
着席し、脇に腰掛けるユマに、視線を注ぐ。
「ねぇ、ユマ。メイ=アシュランス子爵家って、昔からある家柄なの?」
興味があるがままに尋ねた。
弟ユークが養子になった家のことが、以前から気になっていたのだ。
それに、元々は祖父クロスが継いでいたと知り、以前から興味を憶えていた。
けれど、ずっと聞きそびれていたのだった。
だから、いいチャンスだと思い、口をついたのだった。
「はい。家柄として、古くからあります。メイ=アシュランス子爵家は、もともと軍人を多く輩出している家柄でもあります」
「確か、おじいちゃんも、軍人で、ハーツパイロットだったわよね」
うろ覚えの情報で、以前にシュトラー王から聞いた話を、そのまま口にした。
「はい。優秀な軍人だったと、聞き及んでおります」
「若い時から、軍人だったのかな?」
「クロス様のお父上や、そのお父上も、軍人と聞いております。代々軍人家系として、生まれた時分より、軍人としての訓練を、されていたのではないでしょうか」
「凄い。でも、あのおじいちゃんが?」
純粋に、意外だった。
優しい祖父の記憶しか、残っていなかったからだ。
「貴族と言う立場を、お捨てにならなければ、今頃は、陛下の右腕として、お傍に仕えていたかと存じます。それに、リーシャ様のお父上も、クロス様の後を、お継ぎになって、軍人になっておられたと存じます」
「パパが、軍人……」
父親ポルタが、軍人になったところを想像してみる。
笑顔で、優しいポルタが、軍人になったところが、想像できない。
逆に、国の威信にもかかわると抱いてしまう。
「想像できない。絶対に、軍人になってないよ。だって、パパったら、ママには絶対に勝てないもん。いつも怒られてばっかりだし、怒られても、楽しいそうだもん。だから、絶対に、軍人にならないよ」
「「……」」
どう返答していいものかと、ユマたちが逡巡していた。
「じゃ、当主の……、確かゲイリーさんだっけ? その人も、軍人なの?」
そんな困惑している二人に気づかず、抱く疑問を、素直にぶつけた。
「いいえ。現在のメイ=アシュランス子爵様は、軍人ではありません。会社を経営されております。親戚の方で、現在も、軍人をしておられる方は、まだおられます」
そうした情報は、リーシャの担当となると、決まってから話を聞かされていたのだった。
「へぇー」
驚きの声を、漏らした。
ユマの口から、メイ=アシュランス子爵家や、クロスの話をいくつか、その後も聞いたのである。
時間がだいぶ過ぎてから、本題の講義へ入っていったのだった。
当初の予定の時間よりも、講義が終わるのに、時間が掛かってしまう。
アレスのスケジュールも把握しているユマに、時間を確認してから、両親や弟に会えることで、頭がいっぱいなリーシャが、アレスに会いに行った。
読んでいただき、ありがとうございます。




