第70話 それぞれに沈んでいるリーシャとアレス
ケンカしたまま、自分の部屋に戻ってきたリーシャは、クッションを胸に抱え込んでいる。
それも、三人はゆうに座れる、ソファでだ。
溜まっている美術の課題や、王太子妃としての講義の予習も復習、密かにハーツマニュアルを読んで、勉強していることもせず、ただまっすぐに前を見据えていた。
抱え込んでいるクッションを、さらにきつく抱きしめる。
クリスタルの置物を触ったぐらいで、怒ったアレスに対し、燃え始めた怒りが、醒めるどころか、増していった。
「ちょっとぐらい、触ったぐらいで、何も、こーなに目くじり上げちゃって……」
自分の目尻を、思いっきり上げる。
疼き出したムカムカする虫が、治まる気配がない。
一人しかいない部屋で、アレスが怒っていた表情を演じていた。
「いつでも、どこでも、カリカリしちゃって、カルシウム足りてないのかしら」
結婚前の自分の部屋と比べ、広過ぎる、この部屋を、一人で使っていたのである。
新婚の二人の仮の住まいである仮宮殿とあって、アレスとリーシャ以外に、侍従や侍女しかいない。
シュトラー王や、王妃エレナ、アレスの両親は、それぞれ別な宮殿に住んでいるのだ。
仮宮殿に用意された部屋は、急遽用意されたような部屋ではなく、リーシャの嗜好などにきちんと合わせ、一級品の調度品が美しく飾っていたのである。
きらびやかな部屋を、どこか馴染めずにいたのだった。
自分とは違うと……。
広い部屋に、住みたいと言う憧れ的なものがあった。
だが、まさか実際に、住めるとは思っていなかったのだ。
嬉しさ半分、不安半分の境地だった。
だから、結婚しても、自分の部屋で過ごしている感覚を掴めず、戸惑うことが拭えきれない。
「狭量が、ないんだから」
抱え込んでいたクッションに、視線を落とす。
その上に、ぼんやりと不機嫌なアレスの顔が、浮かび上がった。
「そんなに大切なものなら、ちゃんと、締まって置きなさいよね」
自然と、愚痴が漏れてしまった。
浮かび上がっていた顔が、うるさいと声をかけてきた。
ムッ。
(残像まで、私のことバカにするの)
「バカアレス。バカ、バカ、バカ……」
腹立たしい気持ちが、消えぬままだ。
それと同時に、寂しい気持ちが混じり込んできたのである。
(わからないな、アレスのことが……)
怒っているばかりのアレスの真意が、掴めない。
厚いベールで隠して、教えてくれないのだ。
もっと知りたいと抱き、会いに行ったにもかかわらず、結局、ケンカだけしただけで、気持ちはどん底のように沈んでいった。
仲がいい両親を見てきて、いつか自分も、こんなふうに慣れたらと、想像していた。
だが、突如、連れ去られたと思ったら、瞬く間に政略結婚をしてしまい、慣れない新婚生活を、想像が越える王宮で送っていたのだった。
それが、現状だ。
政略結婚を決めたのは、自分だと言い聞かせ、少しでも夫となったアレスと打ち解けて、仲良くなりたいと願っていた。
けれど、そんな淡い気持ちが、冷たい眼差しを浴びるたびに、揺らぐのだった。
「……不機嫌だったな……」
部屋に戻ってきた、当初からアレスは不機嫌だった。
気づいていたが、気づかぬ振りし、やり過ごしていた。
これまでの経験によって。
「何か……、あったのかな……」
遠い目をし、その時の姿を蘇らせた。
(話してくれないと、何もわからないよ、アレス。何で、話してくれないの? 私のこと、見るのも、いやなほど嫌いなのかな。この前は、あんなに一緒にいたのに。……確かに、王族のことや、デステニーバトルのことは、わからないことばかりだけど。でも、話してほしいな。私は、ここにいるのに……。もっと、もっとアレスのこと、知りたいんだよ)
不意に、目を伏せた。
溢れ出す涙を、踏み止めるためだ。
「大丈夫……。大丈夫、頑張ろう……」
自分に、強く言い聞かせた。
しばらくしてから、ゆっくりと目を開く。
自分の行動を、少し後悔していた。
どんな言葉をかけても、アレスの機嫌が直ることが、これまで一緒にいて、わかっていたので、見て見ぬ振りをしてみたのだった。
大丈夫? 何かあったの?と、声をかけても、無視を決め込むか、黙れなどと、人を萎縮させることを言い、輪をかけてケンカになってしまったケースが、ほとんどだったからだ。
「すぐに、帰ればよかったのかな」
自身の行動に、自信がもてなくなっていた。
でも、少しでも取りとめない話をし、和ませたかったのが本音だった。
それで僅かでも、気持ちがラクになったら……と巡らせていた。
いつも疲れているアレスが、癒せるならと、楽しませようとしていたのである。
それに、明るく振舞っていないと、自分が崩れ落ちそうになるのを、堪えるためだった。
堂々巡りに、嘆息を吐いた。
いろいろと逡巡していると、リーシャ専属の筆頭侍女ユマが、顔を覗かせる。
部屋に戻ってきた際に、部屋に控えていたユマたち侍女を、下がらしていた。
侍女が控えているところで、王太子であるアレスの管がまけなかったからだ。
「リーシャ様」
「どうかしたの? ユマ」
「シュトラー王陛下が瑠璃の間で、ご一緒に、お茶をしたいとのことです。いかがされますか?」
控えていたユマが、シュトラー王のお茶の誘いを伝えるために、一人で閉じこもっていた部屋に訪れたのだった。
シュトラー王のプライベート空間の一つである、瑠璃の間でのお茶の誘いは、すでに何回もあって、そのたびに誘いを、断ることなく、受けていたのである。
許可なしでは、入れない瑠璃の間のお茶会に、アレスやラルムは、一度も出たことがない。
シュトラー王の身近な人しか出席できず、瑠璃の間自体にも、アレスとラルムは入ったことがなかったのである。
それほど、特別なお茶会だった。
それを初めて聞いた時は、驚愕したが、気負いもなく、その後も、瑠璃の間のお茶会に、出席していたのである。
緊張が消えることがないが、瑠璃の間のお茶会を、リーシャ自身気に入っていた。
そこには、若い頃の祖父クロスの写真が、たくさんあり、いろいろな話が聞けたからだ。
「すぐに伺いますって、伝えて」
「はい」
さらに、後ろに控えていた専属侍女バネッサに、アイコンタクトを送ると、静々とバネッサが下がって行き、その旨を伝えに向かったのだった。
「では、支度を」
「この格好では、ダメ?」
着替えると聞き、うんざり気味だ。
王室では、何度も着替える習慣があった。
「せっかくですから、陛下から、いただいたものを、身につけた方がよろしいかと」
「わかった」
押し寄せてくる疲れた顔を隠し、返事した。
他の専属の侍女クララとヘレナが、すでにユマの指示の下で、着替えなど用意していた。
「ねぇ、ユマ」
呼ばれたユマが、顔をリーシャの方へ傾けた。
「今日出ていた会議って、大変だったの?」
瞬時に、アレスの事を聞いていると察した。
「はい。そのように聞き及んでいます。ですが、会議の内容までは……」
会議が大変なものだったと聞いていたが、仕えている人間のところまで、その内容までは伝わっていなかったのである。
「そうなんだ」
「いかがなさいましたか?」
「アレスがね……」
ゴホンと、軽く咳払いをする。
言葉にしない、無言の注意を受けた。
「……殿下がね、いつもにまして、疲れているようだったから」
「今頃、ウィリアムが、おやつを出している頃だと存じます」
「そうか」
(よかった。これで少しでも機嫌がよくなればいいな)
余計なことは口にしないウィリアムが、アレスの疲れを癒すために、おやつを携え、一人で悶々と耽っているアレスの部屋に訪れたのである。
まさか、自分が訪れる前に、リーシャと、ひと悶着起こしているとは知らない。
佇む姿に、疲れが溜まり、苦労なされていると、勘違いして案じていたのだ。
おやつの他に、書類も手にしていた。
その書類は、以前にアレスが命じたものだった。
書類の束が、次の次に、必要な会議のための資料だった。
何事においても、完璧主義者のアレスは、前以って、その会議の議題の資料などを、集めて読み込み、年下の自分が、二癖も三癖もある猛獣たちに、侮れないように、努力を怠らなかったのである。
無駄のない動きで、おやつを置いていく。
黙っているアレス。
ウィリアムの存在に、気づいていたが、目に入っていない。
意識の渦にあったのは、先程の光景だった。
姿を消しても、頭の中からリーシャが消えず、止まっていたのだ。
追い払っても、すぐに前戻って、悩ましている状況が続いていた。
心の中で、一つの嘆息を吐いた。
(なぜ、部屋にいた? わからない、リーシャの考えていることが)
顔を合わせれば、ケンカになると抱き、顔を合わせないようにしていた。
けれど、リーシャが部屋にいたのである。
予想外の出来事だった。
もう一度、心の中で嘆息を零した。
(どうして、笑わない? ラルムといる時は、あんなに……)
不快感を憶えつつ、疑問符が、頭や胸に舞い込む。
(焦る必要などないはずだ。冷静に見定めなければ……)
激しく、揺れ惑う気持ちを落ち着かせる。
自分のものに、触れられるのが、いやだった。
だが、あそこまで激怒するほどでもなかったと、一人になって、冷静に考えることができた。
でも、リーシャがいる前では、冷静さが欠けていたし、リーシャのことを考えているだけで、気持ちがぶれるのだった。
(あの顔がいけない。あのしまりのない顔が。……で、この後は……)
ことが起こった後に、分析ができても、その後、どうすればいいのか、人のことを気遣えないアレスに、検討もできないことだった。
「殿下、頼まれていました、書類です。お確かめを」
降り注ぐウィリアムの声で、現実に引き戻された。
受け取った書類の束を、確かめる。
きちんと、ほしい資料が揃っていた。
「夕食まで、時間が空いております。ゆっくりと、お過ごしください」
夕食の時間まで、自由な時間が空いていたのである。
日々のハードスケジュールで、身体が疲れているだろうと案じ、ウィリアムが作った数少ない休憩時間だった。
結婚してから、始まったリーシャのお后教育とは違い、王太子と決まった日より、アレスは次期国王としての教育を受けていた。
「そうか。……」
珍しいことに、歯切れが悪い。
物言いたげな表情を、滲ませていた。
じっと、傍でウィリアムが口を結んで、待機している。
(夕食時に顔を合わせるな。 どうしたものか……、外すか、それとも……)
夕食の際に、リーシャと顔を合わせることに、躊躇していたのである。
また、同じことを繰り返し、泣かしてしまうのではないかと。
(確かめたい。顔を見て……)
躊躇う気持ちと、会いたい気持ちが交差している。
「下がれ」
「はい」
ふと、脳裏に二人でこっそりと、出かけたカジノでの記憶が蘇る。
誰にも気づかれず、夜中にこっそりと、二人で王宮を抜け出した。
見つけたばかりの秘密の通路を使ってだ。
そして、二人だけで、治安が悪いと称される裏街のカジノへ出かけた。
リーシャの異常な勘のよさに、内心で舌を巻いていたのだった。
それが引き金となって、カジノでひと騒動起こし、二人で裏街の中を逃げ惑う事態に、陥ったのである。
逃げ回っている最中に、裏街で一目置かれている存在であるカーラに、助けて貰い、カーラの家で夜が明けるまで過ごし、無事に裏街から脱出でき、王宮に戻ってくることができた。
そのカジノへ行く、発端になった二人だけで、行った賭けのチェスゲームを、思い出していたのだ。
勝った者の言うことを聞くと言う賭けを行い、へたくそなリーシャに、圧勝で勝って、行ったことがない、裏街のカジノへ、連れて行くように命じたのである。
(呆れたりしたが、面白かった)
目の前で、楽しげに笑う姿が、くっきりと蘇っている。
笑ったり、微笑みを自分に見せていたのだ。
これまでにない、面白さに、このままずっと眺めていたいと、抱いたものだった。
(ご褒美をやるか)
口角が、微かに上がっていた。
「驚くだろうな」
自分が笑っていることに、気づいてない。
眼中にリーシャが驚愕している姿しか、映っていなかったのである。
(あの顔と、早く対面したいものだ)
スマホを取り出し、つい先程部屋から、出て行ったウィリアムにかける。
「数日、時間を作れ」
表情とは違い、冷静な口調で言い放った。
読んでいただき、ありがとうございます。




