第52話 チェス
数日が過ぎたある夜。
すべての予定をこなした後に、軽い足取りで、リーシャがアレスの部屋を訪れていた。
空いている時間や、夜に何度も、密かに訪ねていたのである。それは秘密の通路を見つけて以来、二人で打ち合わせし、秘密の通路を探索して、内部がどうなっているのか、確かめていたのだった。
そうとは知らない、ウィリアムやユマたち。
二人に仕えている者たちは、二人の仲がよくなっていると勘違いし、安堵していたのだ。
結婚当初から、大丈夫だろうかと、口に出せないが、端々で心配をしていたのだった。
ただ、共通の事柄である秘密の通路を解明するために、互いの部屋に、通っているとは知る由もなかったのである。
「アレス、いる?」
ひょっこりと、首を出すと、部屋の中で新聞を読んでいた。
スーツを着たままだったが、一人で寛いでいた状況だ。
誰もいないことを知って、さらに顔が綻ぶ。
「行こう」
余計な言葉をつけない。
つけずとも、把握できると思ったからだ。
声をかけても、読んでいた新聞を片づける様子がない。
広げている新聞から、可とも、不可とも言えぬ顔を滲ませるだけだ。
歓喜で、今にも一緒に、部屋を出たいと言うオーラを、放出しているリーシャに、視線を傾ける。
近頃の喜び勇んでいる姿に、誰しも首を傾げる中で、同じ秘密を分け合っているアレス一人だけが、その理由を知っていたのである。
二人の表情に、温度差があった。
(呆れた者だ。普段通りの行動が、どうしてできない? これでは知られてしまうではないか)
何度か、冷や冷やした場面に、出くわしたことを巡らせる。
はやる気持ちを抑えきれずに、友達感覚でいる侍女のクララやヘレナに、話しかけているところを見かけ、三人の前に出て行ったことがあったのだ。
アレスとしては、今後使えそうな秘密の通路の存在を、誰にも知られたくなかったのである。
「早く。ねぇ、ねぇったら」
「ダメだ」
短い返事に、今日が人類最後の日のような顔をし、大きな落胆を受けた。
「戻れ」
「どうしてよ!」
冷静でいられるアレスに、詰め寄った。
「時間がない。会議が入った」
「だって……」
「あの辺を調べようとすれば、どうしても、二時間以上は掛かるはずだ」
話をしながら、頭の中では、秘密の通路の地図を描いている。
秘密の通路を、すべて解読できてない。
思っていた以上に、迷路になっていたのだ。
奥が深く、入り組んでいる状態で、一歩間違えれば、迷子になる恐れもあった。
それに、別な宮殿とも繋がっており、まだ半分も、解読できていない状況だった。
でも、誰にも知られずに、王宮の外に出られる安全な通路は、すでに一本だけ見つけていたのだ。
他にも、外に出られる通路が、複数みられると踏んでいたのである。
「ちょっとだけ」
おねだりする子供のように甘える。
それに対し、アレスの表情が変わらない。
「敷地の地図と見比べて、考慮した結果だ」
「じゃ、別なところを……」
諦められない。
縋る眼差しを、無表情のアレスに注いだ。
「未知数だ。時間の予測ができない」
「それを調べるために、ちょっとだけ、行くって言うのは?」
「無理だ」
きっぱりと、吐き捨てられた。
「急に、詰めないといけないことができた。それに時間も、掛かるだろう。だから、今日はダメだ。言っておくが、一人で行こうとするなよ。……この前のこと、忘れたとは言わせないからな」
強い双眸を浴びせた。
何も、言えない。
身体が硬直するだけだ。
(アレスの意地悪)
二人で探索をしていた際、先頭を歩くアレスの、左に行くぞと言う言葉を聞き逃し、探索の楽しさに夢中になって、一人で勝手に右に曲がってしまい、途中ではぐれてしまった経緯があったのだ。
だが、途中でアレスが、背後にリーシャがいないことに気づき、戻ってきて、事なきに終えたことがあったのだった。それ以来、注意力がないと、未だに怒っていたのである。
「……ごめんなさい」
「一度ではない。何度、繰り返した?」
しゅんとしたまま、指を二本立てた。
違うと、威圧する視線が痛い。
その後に恐る恐る、もう一本の指が立つ。
落ち込んだ表情で、許さないぞと、鋭い眼光を浴びせるアレスの顔を窺う。
揺るがない眼光に、さらにもう一本の指を立てた。
全部で、四本の指を立てたのである。
「四回です……」
か細い声で、窺うように答えた。
「そうだ。四回、僕の言いつけを守らなかった」
「だって、そっちの方が……」
「それにだ。他の言いつけも入れれば、それ以上の数だ」
語気も、いつの間にか強まっていた。
「細かい」
囁くような声の呟きも、聞き逃さない。
咎める視線を投げかける。
悪いのは、お前だと。
「よく言えたものだ。宮殿の中でも、迷う者が、自己判断するな」
「……」
実際に、宮殿で迷子になって、みんなに迷惑をかけたことがある。
それ以上は、何も言い返せない。
さらに小さなくなる姿を見て、少しだけ棘のある口調を解いた。
「とにかく、今日は部屋に戻って、おとなしくしていろ」
「……」
「返事は?」
「……つまらない」
不貞腐れる仕草をみせた。
「お前な」
「……なら、ゲームしよう? 今すぐ行かなくっても、いいんでしょ?」
持っている新聞に、リーシャが視線を注いでいた。
執務の仕事が始まるまで、新聞を読もうとしていたなら、まだ遊ぶ時間は残っているでしょと思ったからだ。
「……」
ダメだと言わないことに、了承の意と汲み取る。
「じゃ、何する? ……そうだな」
テレビゲームやボードゲームなどを連想する。
けれど、最終的に浮かんだのは、嗜みの一つとして、チェスを教えて貰ったことを思い出したのである。そして、それは最近リーシャが、ハマっている物のうちの一つだった。
時間がある時に、侍女のクララやヘレンを相手に、チェスに興じていたのだ。
「チェスしよう」
「チェス? できるのか?」
怪訝そうな色を滲ませた。
「憶えた。それに強いよ、私。クララやヘレンに勝っているんだから」
自信満々に答える姿に、胡乱げな視線を傾ける。
マニュアルも、なかなか読めない人間に、頭を使う高等なチェスができるのか、妖しいものだと膨らませた。
クララやヘレンが、あえて負けていたことに気づいていないが、アレスは話を聞き、二人が勝ちを譲ったことを察したのだった。
昨日今日始めた人間が、簡単に勝つ訳がないからだ。
それに、上の者を相手にし、下の者が勝つ訳もなかったからでもある。
それは、身に知った現実だった。
誰も自分と勝負をして、勝とうする人間がいなかったのだ。
「駒、ちゃんと動かせるのか」
「任せてよ」
さらに、自信をみせる姿に、逆に不安が募っていく。
「……」
ニコニコしているリーシャ。
目を細め、窺う。
(引かないか……)
「……いいだろう」
「やった」
アレスの部屋に置いてあるチェスボードで、対戦した。
結果は、アレスの圧勝で、何度対戦しても、圧勝の事実が変わらない。
容赦のないアレスが手加減をして勝負することはなく、物の数分で初心者のリーシャに勝っていたのだ。
対戦するたびに、勝気満々でいた自信が喪失して行き、逆に意地になって、勝つまでは逃さないぞと意気込み、チェスボードに噛り付いていたのである。
(賭けていたら、いい鴨だな)
冷ややかな眼差しを傾けていた。
チラッと、時計を見る。
そろそろウィリアムが、知らせに来る時間に迫っていた。
「時間だ」
「ダメ」
「おい」
「絶対に、勝つまでは逃がさない」
「お前な……」
呆れて、それ以上の言葉が出てこない。
「勝ち逃げは、絶対にダメ。私が勝つまでは」
チェスボートにしがみつく有様だ。
(では、一生来ないではないか。こんな弱い相手としたことがない。なんて弱さなんだ。よくこれで、負けてやっていたな。リーシャ相手に負ける方が難しい。……けれど、どうしたものか……)
どうすれば納得するか、思案を巡らした。
その顔に、負けてやる文字が描かれていない。
「勝つまでは、部屋を出ちゃダメだからね」
駒に釘付けになって、どう駒を動かそうかと考え込んでいる。
勝ちを導くための伏線を張る動きは、いくつもあるが、リーシャはそれを打てていなかった。
それどころか、動かす駒が、すべて簡単に負ける方へ繋がっていたのである。
初心者でも、打ちそうもない駒の動きをみせていた。
次の次で、負けるところに駒を置く。
(本当に、駒の動きを憶えているのか?)
不審な双眸を覗かせる。
満足した笑顔に、ほとほと呆れていた。
「……この勝負で、賭けをしないか?」
「賭け? ……お金を賭けるの?」
怪訝そうに、アレスを窺っている。
「違う。このまま勝負をしても、つまらない。僕が勝つばかりだからな」
「次こそは、私が勝つもん」
(どこから、その自信がくる)
「だから、この勝負が最後だ。で、勝った者の言うことを、一つだけ聞く」
「言うことを?」
いやな表情を浮かべた。
けれど、気にする様子もなく、話をさらに進める。
「そうだな……、僕を裏街のカジノへ連れて行け。パーティーでの経験があるが、一般庶民のカジノへ入ったことがない」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。庶民だって、裏街のカジノへ、入ったことはないわよ。パパたちに、あそこは危険なところだから、近づいちゃダメって、言われていたところなのよ」
妖しげな方向へ向かっていく話に、身を乗り出し、行く気満々なアレスを止めに入った。
普通の人間が、足を踏み入れる場所でない。
素行が悪い人物たちが、出入りしている場所で、マフィアやその類の人種が蔓延っているのである。
一般庶民は決して、自ら踏み込む場所ではなかったのだ。
「だからだろう? 案内しろ」
平然と言ってのけた。
そんな態度に、今度はリーシャが呆れる番だった。
「いやよ。ちゃんとしたカジノじゃ、ダメ?」
「じゃ、勝負するのを、やめるか?」
優雅な微笑みを作り出す。
どちらでもいいと、言ったものだ。
迷っているリーシャを眺めている。
「……それも、いや」
「じゃ、どうする?」
ゆったりと構え、あえて答えを決めさせる。
悠然と、誘導させていたのだった。
「……る」
囁く声で、聞き取れない。
「どっちを?」
勝ち誇った顔で、アレスが尋ねた。
もう、後に引けない。
まっすぐに、余裕を窺わせるアレスを見つめる。
「勿論、勝負よ。私が勝てばいいのよ」
「そうだ。お前が勝てば、この話はなくなる」
「見てなさい」
「再開だ」
問答無用で、結果が決まっていた勝負で、アレスが勝利を収めた。
チェスボードを凝視し、これからの悪夢に、悩まれているリーシャ。
「楽しみにしているぞ。奥方殿」
「……いつ」
力ない声を漏らした。
「夜に決まっているだろう。気付かれないように、ここを出る」
「そんなこと、できるの?」
「安心しろ。私は、ここで生まれ育った人間だぞ。それに秘密の通路もある」
気が抜けたような声で頷く。
「使えるものは、活用すべきだろう?」
「でも、無理しなくっても……」
先のことを考え、逃げ腰になっている。
「大丈夫だ」
不敵に笑う表情に、諦める文字がない。
「……わかった。明日にするの?」
「いや、二日後だ。準備とかあるからな」
「じゃ、二日後の夜ね」
暗い表情のまま、アレスの部屋を出て行った。
十分後に、ウィリアムが迎えにやってきたのだ。
部屋に入った時、アレスの顔が、これまで見たことがないぐらいに、喜びが微かに滲んでいたのである。
その表情に、驚嘆するウィリアムだった。
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