第51話 アレスからの接触
王太子妃教育の講義が終わっても、休むことができなかった。
まだまだやることが、残っていたのである。
精神的に疲れている身体で、リーシャはトレーニングルームに足を運ぶ。
最新鋭の器具が取り揃っているトレーニングルームで、身体を鍛えるためだ。
新しいウェアが用意されているが、結婚する前に、家で使用していた着慣れたウェアに、袖を通していたのである。
真新しいウェアに、気後れしていたのだ。
今までスポーツジムや、身体を動かしたことがないので、身体が硬くなっていた。
少しでも、鍛えるためのカリキュラムを、時間を見つけては、組み込んでいたのである。
これまで、何度か、ここに訪れ、ハーツパイロットとしての基礎体力作りを行っていた。
自動で、扉が開く。
思わず、その場に立ち尽くしてしまう。
流れ込む光景に、驚きが隠せない。
一番先に目に飛び込んできたのは、天井から吊るされたボクシングの練習に使う、真っ赤なサンドバッグだった。
今まで、トレーニングルームになかったものだ。
それが、急にあることに、違和感を憶える。
「何で? こんなものがあるの?」
皆目見当も、つかない。
距離を詰め、触ってみる。
どう見ても、テレビでしか見たことがない、ボクシングで使うサンドバックだ。
リーシャの口角が、ニタリと緩む。
好奇心の虫が疼いた。
「何、何」
興味を抱き、叩いて、感触を確かめた。
予想以上に硬く、逆に手が痛くなってしまう。
なぜ? ここにあるかと言う疑問符が、すでに消えている。
目の前にあるサンドバック一色だ。
「こんなに、硬いの?」
意外な硬さを知って、面白さに首を傾げる。
「楽しい」
キラキラと目を輝かせ、ペチペチと、何度も叩いて遊んだ。
叩かれても、サンドバッグは、ピクリとも揺れない。
突然に、隣のトレーニングルームと、繋がっている扉が開く。
いったん外に出なくても、隣り合わせのトレーニングルームは、扉で繋がっていた。
隣でトレーニングしていたアレスが、汗でしっとりしている髪のままで立っている。
「アレス……、何で?」
パートナーのスケジュールを知らず、隣でトレーニングしていたことに、瞠目していたのである。
まさか、同じ時間帯に、来ていたとは思ってもみなかった。
相手の様子を窺うために、表情が乏しいアレスの顔を眺める。
相変わらず、何を考えているのかわからない。
嘆息を吐く前に、珍しくアレスの口から先に動く。
「基礎体力作り、ちゃんとやっているのか」
「やっているわよ。言われなくたって」
即答で返した。
完璧主義者のアレスは、デステニーバトルのパートナーの調整具合を、確かめにきたのだ。
ハーツの適合率の他に、二人のシンクロを同調させる、シンクロ率も大切なことだった。
ハーツの相性と、パートナーと息が合っていなければ、ハーツは起動しても、能力が発揮できないのである。
全然できていないのに、横柄な態度に、カチンとし、さもできているかのように、余裕な振舞いを窺わせた。
ただ、意地を張ったのだった。
表情や仕草で、相手が何を考えるのか、読む力が長けているアレスの方も、浅はかな行動を見透かすが、表情一つ変えない。
わかりやすい行動を、単に見込んでいたのである。
「そうか」
「それより、これは何?」
不可思議の原因である、真新しいサンドバッグを指した。
その答えを、示してくれると知っていたからだ。
トレーニングルームを変えられるのは、もう一人の使用者であるアレスしかいなかった。
すべてを意のままに動かせるぞと、言っているとしか思えない態度に、対抗するため、強気な態度を崩さない。
トレーニングもせずに、好奇心の塊となっているサンドバックで、遊んでいたことを、まだ気づかれていないと思っていたのだ。
当のアレスは微塵も、そんなことを思っていなかった。
ただ、別なことを巡らせ、内心楽しんでいたのである。
「お前のために、用意させた」
「はぁ?」
「そこら中で、練習してただろう」
意味深なセリフを口にした。
「へぇ?」
きょとんとしている面白い顔に、内心で面白がっていたのである。
この表情を見るために、わざわざ用意したのだ。
表の表情と、口調は、冷静そのものだった。
「お前の脳みそは、人間以下だったとは、知らなかった」
大げさな仕草をしてみせた。
その口角が上がり、いたずらな微笑みを覗かせている。
気づかずに、挑発の罠に沈んでいく。
素直に剥れるリーシャ。
「人間以下とは、何よ」
「だって、そうだろう? クッション使って、練習していたのも、忘れたか、それにエアでも、練習していただろう」
いつの間にか、吊り上っていた眉が、元に戻っていた。
徐々に、眉が困ったように寄っている。
表情が乏しいアレスは、自由自在に変わる対象者の表情を楽しむ。
自由自在に変わる表情を、楽しむのが、最近の日課となっていたのだ。
そのために、サンドバックをトレーニングルームに、セッティングさせたのだった。
「クッション? エア? ん?……」
ようやく、クッションをアレスの顔の代わりとして、殴っていたことを思い出した。そして、憎たらしいアレスの背中に向かって、エアでパンチを繰り出したことも、鮮明に蘇えったのである。
「あっ! ……あれのこと……」
チラッと、優雅に微笑む姿を確かめた。
見られたくない相手であるアレスに見られ、その言い訳として、ボクシングの練習をしていたと言ったのを、はっきりと思い出したのである。
まさか、用意されるとは思わず、咄嗟の苦し紛れの言い訳に過ぎなかった。
渋い表情を垣間見、アレスの瞳が笑っている。
面白いと感じるほど、表情がコロコロと変化していった。
「あ……あれのこと、忘れていないわよ。それより、どうして、ここにあるのよ」
「大好きって、言っていただろう?」
「はぁ?」
「大好きって、言っていただろう」
サンドバックを指差した。
無表情な顔に、なぜか意地悪さが感じざるおえない。
(絶対、困っている私で遊んでいる!)
悔しげに、唇を噛み締めた。
「……しっかり憶えているんだ」
「当たり前だ。人間以下の頭とは違う」
横柄な態度だ。
「いちいち人間以下って、言わないでよね」
こともなく歯向かう姿勢を、密かに気に入っていたのだ。
颯爽と、アレスが部屋の奥へ入り、サンドバッグを軽く叩く。
「クッションや、エアよりは、いいと思って、僕の優しさで用意させた」
憎たらしいとしか思えないアレスの顔が、傍で立っているリーシャの不機嫌な顔に近づいた。
爆発そうな、その表情を言葉巧みに突っつく。
「優しい夫だろう」
「……」
「好きなだけ、練習したまえ」
綺麗な顔に、一瞬だけ見惚れてしまう。
「……本当に、ボクシングの練習だと思っている訳?」
楽しげにほくそ笑む。
さらに、綺麗な顔が際立つ。
(何だって、無駄に顔が綺麗な訳? 腹立つな、マジで)
「ああ。だから、用意させた」
(違うわね。私に意地悪するために、用意させたのよ、絶対に!)
ほくそ笑む姿に、確信を得る。
不機嫌色に染まっていくリーシャ。
対照的に、口角が上がっているアレス。
「グローブも、あるぞ」
さらに追い打ちを掛けた。
バカにするような視線で、新しいグローブを指す。
促されるがまま、指し示した方へ傾けた。
新品のグローブが置かれている。
「見せて、貰おうか」
不敵に笑う姿が、苦々しく思えた。
「……」
「どうした? 見せてみろよ」
(付け方、知らないわよ。悔しい……。絶対にやってやりたいのに、できないなんて。本でも買って、勉強しておけばよかった、ボクシング。見てなさい、絶対にやってやるんだから! それで絶対に、ノックアウトしてやるんだからね!)
苦虫を浮かべた。
ボクシングと言うスポーツで、グローブをつけ、殴り合いをしている程度の知識しか、なかったのである。
全然グローブの付け方なんて、知らなかったのだ。
アレスの方も、ボクシングの知識も、乏しいと把握していた上で、サンドバッグやグローブを用意させ、困らせて遊んだだけだった。
平静を取り繕って、その場をどうにか、終わらせようと試みる。
「……そのうちにね」
「そのうち? 今だ」
早く見せろと言う態度を崩さない。
どうにか切り抜けようと、頭をフル回転させた。
「私、油絵を描かないと。すっかり忘れてた」
ぎこちなく笑う姿を、じっと観察する。
「嘘だな」
視線が宙を彷徨う。
引くに、引けない状態だ。
確かに、提出する油絵は存在していた。
だけど、提出期限は、まだ長い。
「ホント。提出期限もないし、このところいろいろと、急がし……」
「歩き回ることがか」
突っ込んで、最後まで言葉を言わせない。
無駄と判断し、ガックリと首を落としていたのである。
結局、開き直って、訳のわからないことを言い始めるしかない。
「……別にいいでしょ。アレスはここで生まれ育って、知っているかも、しれないけど、私は全然知らないのよ。大体宮殿が、いっぱいあり過ぎるのが悪いの。これじゃ、どうぞ見て廻ってくださいと、言っているようなものじゃない。……訳がわからないわよ、いくつも、部屋があって。だから、私は憶えようと、歩き回っているんじゃない」
途中で、息をするのも忘れ、言い終わると同時に、肩で息をしている。
言葉の端々で、チラチラと視線を傾けているアレスの顔を窺った。
全然、変わらない表情に、打ちひしがれるしかない。
(もう、好きにして。どうして、アレスって、こんなに意地悪なのよ)
「僕だって、全部知っている訳ではない」
「全部、知らないの?」
意外な話に、食い入るようにアレスの顔を覗き込む。
「当たり前だ」
冷ややかな眼差しで、部屋数の多さに、困惑しているリーシャを眺めた。
「住んでいるアレスでも、知らないことはあるんだ」
(バカか。マニュアルも、全部読んでないのに、王宮の中を憶えられる訳がないだろうが。それによく憶える気になるな、こんなくだらないこと。憶えようとする能力を、どうしてマニュアルに注がない? まったく理解できない思考だ)
範疇を超える言動に、腹を立てながらも、さらに興味が湧いてくる。
「じゃ、戻るね」
「トレーニングは?」
「また、別の機会にする」
「……」
呆れられた視線を、注がれているとも知らずに、いつも頭ごなしに言うアレスでも、知らないことがあるんだと、足取り軽やかなで、トレーニングルームを出て行こうと、扉に向かった。
その後を追うように、アレスもついてきていることに気がつく。
リーシャの表情に、恨めしそうな表情がない。
すっかりケンカしていたことを、忘れていたのである。
「トレーニングしないの?」
「もう、した」
「そうなの?」
考えない頭に、どうしたら、こんな思考になるのかと、思わずにはいられない。
歩きながら、二人の会話が、また始まる。
絶好のタイミングとばかりに、後ろ歩きしながら、次々と話しかけていった。
そんな歩き方では、転ぶぞと思うが、口に出さない。
珍しくアレスの方も、短い答えであったが、リーシャの問いかけに、答えていったのである。
「じゃさ。仮宮殿には……えっ……」
突如、話が途中で途切れてしまう。
目の前を歩いていたリーシャが、アレスの視界から消えていたのである。
もう少し話そうと、立ち止まろうとし、壁に寄りかかろうとした瞬間、回転した壁の裏側にリーシャが入り込んでしまったのだ。
視線を下げると、思いっきり尻餅をついていた。
「痛い!」
状況が読み込めず、回転した壁の裏側に、入り込んだことに気づいてない。
辺り一面、長年溜まっていた埃や塵が舞い上がる。
舞い上がっている埃や塵を、アレスが手で払う。
「何なのよ。もうー」
涙目で、腰の痛いところに、手を当てる。
痛みが少し和らいだところで、埃が舞っている状況を、ようやく知ったのだ。
「何? 掃除やってないの? 珍しい、いつも綺麗なのに」
的外れな言葉に、呆れた。
「掃除の問題じゃないだろう」
「どういうこと?」
抑揚のない声で、突っ込んだ。
瞬きしながら、呆れているアレスを見上げている。
「状況を、理解しているのか?」
「んっ?」
嘆息を零すアレス。
「お前、今どこにいる?」
「どこって……」
尻餅ついたまま、周囲に視線を走らせた。
壁の中に、すっぽりと自分が入っていて、今まさに自分がいる場所は、漆黒の闇へ続いている、ど真ん中だった。
視線を、正面のアレスに戻す。
綺麗に掃除されている廊下に、立っていた。
呆れた表情を匂わすアレス。
立っている場所は、先ほどまで二人で歩いていた廊下だった。
自分がいる場所は、冷たく湿った感じがする、通路の壁の奥に、座っていたのである。
その先は、真っ暗な通路が、繋がっていたのだった。
「アレス、ここは?」
素直に、目の前に立っている王宮に慣れているアレスに尋ねた。
「知るか」
ばっさりと、吐き捨てた。
突き放す態度に、口を尖らせる。
「意地悪」
ひんやりとした風が襲う。
リーシャの背後は、真っ暗で、何も見えない。
だが、奥深くまで、続いているように思えた。
吸い込まれるように、視線が剥がせなくなる。
「風……」
「隠し通路で、深く続いているようだな」
喜怒哀楽の表情をみせずに、淡々と分析していく。
「隠し通路?」
聞き慣れない言葉に、首を傾げる。
「戦争や内乱、そんな揉め事が王宮にあった時に、王族が使う通路だ。ようは、この通路を使って、密かに外へ脱出して、逃げるためだな」
「へぇー」
好奇心を擽る言葉に、きらびやかに、瞳が光る。
「この手の話は、昔から、どこの国でもある話だろう」
冷静沈着なアレスが、入口の周辺や、中の様子を慎重に観察していた。
奥を照らす、明かりがない。
先に進められないほど、奥へ行けば、行くほど、闇に閉ざされていたのである。
「そう言えば、歴史ドラマで……」
「お前の頭は、ドラマでしか、物事を考えられないのか」
考える基準が、ドラマなことに、冷ややかな眼差しをしてしまう。
「そんなこと、ないもん」
「そうは、思えんが?」
剥れているリーシャに、さらに話しかける。
「聞いたことのない通路だ。それに、どうみても、何十年も、下手したら、それ以上、使われた形跡がないな。もしかすると……」
「そうなんだ」
輝きが増す好奇な翡翠の瞳。
最後までアレスの呟きを、耳にしていない。
「ところで、いつまでそう話している」
訝しげにアレスが、真下にいるリーシャを見下ろす。
「……だったら、手を貸してよ」
「手を貸す?」
言葉の意味がわからずに、首を捻る。
「手を出して」
まだ座ったままのリーシャに、促されるように、手を出した。
何の迷いもなく、その手を掴んだ。
掴まれたことに、驚くアレス。
「引っ張ってよ」
「……」
言葉の意味を、ようやく、ここに来て知った。
ここまでして、手を払うこともできずに、引っ張って、座り込んでいたリーシャを、立たせる。
「ありがとう」
純粋無垢に、微笑む。
じっと、見てしまう。
「……」
「じゃ、早速探検♪」
無謀にも、闇に入り込もうとする肩を掴む。
好奇心を、無理やりに止められ、剥れた。
「早速じゃ、ないだろうが!」
怒気が、混在している。
「どうしてよ」
「当たり前だろう? 準備も、下調べもなしに、行く気なのか」
「大丈夫よ」
楽観過ぎる思考に、よく生きて、これたなと感心するしかない。
準備もなしに、無謀過ぎたのである。
「ダメだ。明かりもなしに、どうやって、進む?」
「壁を、触りながら?」
単純な思考に、今度は頭を抱える。
(何で、こうも、自分が思うがままに動く?)
思考を、目の前の通路に移した。
この通路が、まっすぐとは限らない。
途中で十字やY字になった場所もあると、予測が立てられるからだ。
王族が使う通路で、簡単なまっすぐの通路が、ありえない話だったのである。
知られないように、知られても、見つからないように逃げるために、いくつもの細工が施されていると、考える方が自然だった。
その思考に至らない、ただ好奇心そのままに、入り込もうとする神経が、アレスにとって信じられなかったのだ。
「中を確かめるにも、準備が必要だ」
俯いたまま、諭すように呟いた。
積もっている塵や埃に、足跡らしい形跡が見られない。
慎重な準備が必要と、巡らせる。
「みんなに知らせたら、楽しくない」
ダメと拒否され、拗ねる。
(楽しいか、楽しくないの、問題じゃない!)
「知らせる訳、ないだろう。ここは王族が使う場所だからな」
「ホント」
単純に、瞳を輝かせ喜ぶ。
「いいか。今日は、ダメだ」
「えー」
「ダメだと言ったら、ダメだ」
「いつなら、いいの?」
「準備が揃ってからだ」
「……」
揺るがない雰囲気に、萎む。
「勝手に、一人で行くのも、なしだ」
好奇心旺盛で、猪突猛進の傾向がみられるリーシャが、勝手に行くのを、阻止するために釘を刺した。
これまでの行動を考慮し、性格を読み、一人で行く可能性が、大きいと判断したからだ。
実際に、ダメだと言われも、こっそりと一人で来て、探索しようと、巡らしていたのである。
自分の思惑を見透かされ、どうにか逃げようと、リーシャなりに逡巡した。
「別に、私は……」
なかなか言い逃げる妙案が、浮かばない。
「今、一人で行こうと、思っていただろう」
鋭い双眸を、傾けられている。
「別に、そんなこと……」
「思っていた」
断言されてしまう。
「はっきり、言わないでよ」
決めつけられ、話の流れで、うっかり認めてしまう。
「認めたな」
完璧を匂わすアレスにいじける。
「いいな。一人では行くな。これは僕と、リーシャの二人だけの秘密だ」
「秘密……」
寂しいと言う色が、少しだけ華やいだ色に色づく。
「誰にも、話すな。そして、一人では、行動するな」
うんざりするぐらい繰り返し、釘を刺した。
「……うん」
二人だけの秘密ができたことが、嬉しかった。
秘密を分け合え、繋がっていなかった絆が、繋がっていく気がしていたのである。
「約束だ」
「わかった」
素直に受け入れるリーシャの行動に、気づいてない。
早く、準備を整わなければ、一人でいってしまう可能性があると抱き、その準備の計画をどう手を打つかと、考えを広げていたのだ。
回転した壁を直し、何事もなかったように、二人は自分たちの部屋に戻っていった。
読んでいただき、ありがとうございます。




