第30話 飽きてしまったハーツのマニュアル
一時間以上も貴重な時間を費やし、言われたハーツのマニュアルを頑張って読んでいた。けれど、まったくと言っていいほど、頭の中へ入っていかない。
集中力が散漫となって、入り込まなかったのだ。
読んだ言葉を頭の中に止めようと努力するが、右から左に器用なほど読んでいく言葉が通り過ぎていった。
上から目線のアレスに、これ以上バカにされるのも嫌で、学校の課題の絵が山のようにあったが、それには一切触れずに、ハーツのマニュアルに没頭していたのである。
「ダメだぁー」
ソファで胡坐して読んでいた。
出てくる単語や記号の意味がわからず、そのたびに別なマニュアルで、言葉や記号の意味を探したりして、全然ページ数が進んでいないのが現状だった。
首をコキコキと鳴らす。
「理解できない。って言うか、これ一体何語なの?」
しかめっ面で、分厚いハーツのマニュアルと格闘する。
数分と持たない。
ほとほとうんざりしてしまい、嘆息と吐く。
「一時間読んで、これだけか……」
三ページも進んでない。
情けない状態に、目の前に浮かぶ不敵に笑う腹立たしい姿に、文句を言う元気がなかった。
ゴロリと、ソファに寝込んだ。
視線の先に、分厚い本のタワーがいくつもある。
「まだ、こんなにある」
抑揚のない声で呟いた。
しばらくの間、その分厚い本のタワーを眺めていた。
(眺めていても、いっこうに減らないのね)
「読んだのかな……」
当たり前だと言う顔が浮かぶ。
何となく聞かなくっても、優秀と噂されるアレスは、これ以上の量のハーツのマニュアルを隅々まで読んでいる気がしていたのだ。
そんな確信みたいものが存在していた。
ムクッと起き上がって、自分自身に気合いを入れる。
「もう、悩んでもしょうがない! 読まないといけないんだから」
読んでいた本を手元に引き寄せた。
思わず、閉じたい衝動を抑える。
(我慢、我慢)
「頑張らないと」
分厚い本を労わるように撫でる。
「……でも、その前に……。気分転換!」
立ち上がり、テーブルに分厚い本を置いた。
気分を変えて、また頑張れるようにと、宮殿内を探検しに部屋を出て行ってしまった。このまま続けて読んでも、集中力が切れてしまった状態では進まないと思い、リフレッシュして気持ちを切り替えようとしていたのである。
真っ白なキャンパス、それにナタリーたちから借りたノートは、そのままカバンの中で埋もれている。
頭の中に、学校で出された課題や、遅れ気味の授業のことが抜け落ちていたのだ。
未知の世界である宮殿のことしか頭になかった。
鼻歌交じりで、廊下を歩く。
見るものが新鮮で、立ち止まっては何だろうと考え、宮殿内の探索を楽しんでいた。
気の向くままに、宮殿を探索していると、目の前から見知った顔の人が現れた。
距離を縮めて、互いに立ち止まる。
「ソーマさん」
嬉しそうに声をかけると、一礼してからソーマが穏やかな顔をみせた。
気安く声をかけてくれて、親しみやすいソーマに、ふと心が和む。
祖父の後輩ソーマは軍の総司令官で、シュトラー王の側近の一人だった。そして、シュトラー王やリーシャの祖父クロスの親友でもある。
その事実を最近、知ったのだった。
「こんな夜分に、どうかしましたか」
「散歩です。ハーツのマニュアル、読むのに飽きちゃって」
一瞬、考え込んだが、リーシャの言葉を、すぐさまに理解した。
小さい頃から早く寝るのを知っていたソーマは、こんな時間帯に出歩ているのが不思議だった。
普通の若い子だったら、まだまだ起きている時間帯だが、眠り好きなリーシャにとって、この時間帯は何もなければ寝ている時間だと、シュトラー王同様にソーマもきっちりと把握していたのである。シュトラー王の側近で、クロスの親友でもあったソーマやフェルサたちが、クロスの家族をシュトラー王の命により、何十年も影から見守っていたのだ。
「確か、明日ですね」
部下たちの前では、決してみせない柔和な微笑みを浮かべる。
「らしいです。突然、何ですよ。アレスったら……」
しまった、やってしまったと言う表情のリーシャ。
その脳裏に、注意している鉄仮面をつけたユマの顔が、くっきりと浮かんでいたのだ。
殿下と訂正しようとしたら、クスッと笑っていたソーマが訂正を遮った。
何を悔いているのか、宮殿にいるソーマはすぐに気づく。
「私は気にしません。お二人は夫婦となられたのですし、いいと思いますよ。他の者の前では気をつけた方がよろしいかと思いますが」
今後のためにも、アドバイスも忘れない。
「……ありがとうございます。ソーマさん」
強張っていた顔が消え、陽だまりのような微笑みをみせる。
「いいえ。リーシャ様はそうやって笑っていらっしゃる方がよろしいですよ」
ソーマはあえて、王太子妃殿下とは言わずに、親しみを込めてリーシャ様と呼んでいた。
心遣いに感謝し、さらに陽だまりのような微笑みを返す。
「そう言って貰えると、嬉しいです」
下の者にまだ敬語を使う癖が抜けない姿に、これから大変そうだなと苦笑してしまう。
王室の言葉遣いと、普段の言葉遣い、そして、敬語の使い分けができてなかった。
結婚して、王族の一員になったものの、身分が下になったソーマに対して、王室の言葉遣いで話すことを忘れて、普段話す言葉遣いで話を続ける。リーシャが王室の言葉遣いを忘れていることもあるが、親しみやすさを感じるソーマであるからこそ、普段話す言葉遣いになったと言う理由もあったのである。
「そのアレスが、……」
朝、夕の食事の際の無表情ぶりや、アレスが突然に部屋に現れたと思ったら、分厚い本のマニュアルを携えてきたことの顛末を話して聞かせた。
完全にリラックスモードで、久しぶりの会話を楽しんでいたのである。
「へぇー、あの殿下が、楽しげに笑う……」
含みのある言葉に、きょとんと首を傾げた。
「あの殿下……?」
「いいえ。何でもありません」
何となく、納得できない。
棘が刺さったようで、むず痒さを憶える。
(あの殿下って、どんな殿下なの?)
「きっと、慣れないだけですよ。こういう生活に」
「そういうものですか?」
不思議そうな瞳に、意味ありげな笑みをしているだけだ。
「じゃ、何で笑うんですか? 私、変なこと言いましたか?」
「初々しく、楽しそうな新婚生活だと思いまして」
「どこが? 楽しいですか。しゃべってくれないわ、しゃべったと思ったら、地獄のようなことを言うわ。結構、これでも大変なんですけど」
笑うソーマに拗ねてみせる。
拗ねる仕草が、可愛くってしょうがないと思うソーマ。
可愛く拗ねたぞと、シュトラー王に言ったら、どんな顔するだろうかと想像を膨らませる。
悔しがるシュトラー王が、ありありと浮かび上がるのだ。
思わず、心の中でほくそ笑む。
「そうですか。それは失礼しました」
心の内を隠して答えた。
まだ、意味ありげな笑みに、頬を膨らませ、不快感を示した。
「きっと、楽しくなります」
どこか不服そうな表情に、昔のシュトラー王とクロスのことを思い出していたのである。出逢ったばかりの二人も、最初は今のリーシャとアレスのような関係だった。
それが今では、互いに大切な親友と言う間柄になった。
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「ところで、ソーマさんは何しにここに」
不意に疑問が生じたのである。
二人が住む仮宮殿内で、めったに貴族たちの姿を見ない場所だったからだ。
「書類を殿下に渡しに来たんです」
「そうなんですか。アレスは部屋に?」
優雅にお茶でも飲んでいるのかと、ムカつこうとすると、それに反して返ってきた答えは違っていた。
「トレーニングルームに、いかれました」
少し考え込んでいるリーシャに、さらに話を続ける。
(真面目に訓練しているんだ。偉いな)
「大丈夫ですか。リーシャ様は?」
「私?」
何のことを言っているのかわからない。
微笑むソーマを見上げる。
「部屋に案内いたしましょうか」
結婚前に宮殿内で迷子になって、侍従や侍女たちに迷惑かけたことを思い起こさせた。あれ以来、宮殿内を探索する回数が減っていたのだ。それにこれ以上、侍従や侍女たちに、迷惑かけたくなかったので、あまり遠くに足を運ばないように心掛けていたのである。
「あっ、……大丈夫です。一人で戻れます」
頬を朱に染める。
「そうですか。あまりお一人で歩かれないように、宮殿内も安全とは限りませんから」
「安全ではない……、どうしてですか?」
たくさんの警備している人がいるのに?と、きょとんとするリーシャ。
「危険な者が多いと言うことです。ですから、お気をつけてください」
「へぇ?」
いまいちソーマの言葉を飲み込めない。
国中でも安全な場所じゃないの?と首を傾げる。
よくわからないものの、とりあえず、ここは素直に応じた方がいいと思う。
「わかりました」
「よい、返事です。それでは、失礼します」
ソーマと別れても、仮宮殿内の探索を続けていた。
部屋に戻って、分厚いマニュアルと戦う自信がなかったからだ。
その頃、トレーニングルームではソーマからの報告を聞き終わっていたアレスが、身体を動かして汗を流していたのである。
鬱陶しいボディーガードを部屋の外で、待機させ、室内でゆっくりとトレーニングしていた。
タオルで流れる汗を拭き、水分補給をする。
汗が流れ落ちた。
長い息を吐く。
身体は心地よい程度に疲れていた。
「このところ、できなかったからな」
挙式やパーティーなどで、トレーニングルームに足を運ぶ回数が減っていた。そのせいか、久しぶりに身体を動かしただけで、汗がいつもよりも流れ、少し疲れも感じるほどだ。
「ホント、あいつは面白い」
先程のリーシャとの会話のやり取りを思い出していた。
困った顔を思い出し、アレスの顔は悦に入る。
夕食の時に、微かな苛立ちを憶えていたが、それが嘘のように、今は気分が晴れ晴れとしていたのである。
最近よくリーシャが言葉にする言葉を思い出す。
私の家族がねと、何度も話す姿に、微かな苛立ちを憶えていたのだ。
(お前にとって、僕は家族じゃないのか)
「……」
何度も浮かぶ言葉を飲み込み、その場をやり過ごしていた。
無造作にペットボトルを投げ置く。
「別に……どうってことない」
小さく呟いた。
「ただ、結婚したまでだ」
いやな気分を払拭しようと吐き捨てた。
「僕に従うべきだろう。僕の言うことを聞けば……いい」
自分は何を考えているんだと思う。
気持ちを切り替え、次のトレーニングしようと足を踏み出そうとすると、スマホがバイブした。
アレスがスマホを取る。
「何だ……」
スマホの相手はウィリアムだった。
別な秘書官だったら、取るつもりがなかった。けれど、幼い頃から仕えている筆頭秘書官だったこともあり、何か火急の知らせかと思い至って、スマホを取ったのだ。
声の主ウィリアムは、リーシャが突然部屋から姿を消した旨を話した。
侍女クララとヘレナが部屋にお茶を運んでくると、部屋にリーシャの姿がなく、分厚い本のタワーと、充電器にあるスマホがあるのみだった。二人は近くを捜すが見つからず、ユマに報告して、そして、ユマからウィリアムに話がいった。
「……そのうち、戻ってくるだろう」
子供かと、呆れるしかない。
『ですが……』
ウィリアムが言葉を濁す。
何が言いたいのか、すぐにわかった。
数日前に起こった迷子になった件だ。
「三十分経って、戻ってこなければ、捜すように」
『わかりました。殿下』
スマホを切る。
その場で考え込んだ。
「どこにいる」
スマホを持って、トレーニングルームを出る。
そこには数人のボディーガードが待機していた。
出てきたアレスの後に、ついていこうとするボディーガードたちを制止させる。
「お前たちは、ここにいろ」
「ですが……殿下」
「いいから、いろ。ただの散歩だ」
無表情の顔で、ボディーガードを威圧する。
ボディーガードたちが萎縮してしまった。
冷ややかなオーラを放つ時は、逆らえないと共通認識になっていた。
「わかりました」
ボディーガードたちが頭を下げた。
トレーニングルームを出て、一人で廊下を歩き始める。
しばらくすると、最近見慣れた後ろ姿を見つけた。
軽やかに歩いて、頭が左右に動いている。
(こんなところにいたのか)
その様子をこっそりと窺う。部屋から離れている位置で、ちょうど二人の部屋と、トレーニングルームの中間地点ぐらいだった。
「……何をやっているんだ」
目当てのリーシャは、白い彫刻を熱心に眺めていたのである。
近づいていって、リーシャの背後で立ち止まった。
「読み終わったのか」
「!」
突然の背後からの声に、驚いて後退りしながら振り向いた。
「ア、ア、アレス……」
驚いている姿を、憮然そうに見下ろしているだけだ。
「何で、ここに」
依然として、憮然としたままだ。
「それは僕が聞きたい。読み終わったのか。ここにいると言うことは」
「……」
答えに詰まり、さらに後退りしてしまった。
三ページも終わってないとは、決して口が裂けても言えない言葉だ。
「ちょ、ちょっと、休憩よ。まだ、終わっていない」
狼狽しながら、どれくらい読んだか話さずに答えた。
その姿を訝しげながら眺めていた。
「休憩? どれく……」
量を聞かれる前に、あたふたと遮るように話題を変えた。
「そ、そ、そう言えば、トレーニングしてたんでしょ?」
「何で、知ってる」
自分のスケジュールを知っているリーシャを食い入るように見つめる。
「ソーマさんに聞いたの」
瞬時に、それが総司令官と言うことがわからない。
「ソー……マ?」
いつも名前では呼ばずに、総司令官としか呼んでいなかったからだった。
「総司令官にか?」
逆に、リーシャが総司令官と言う言葉にピンとこない。
考え込んでから、それがソーマの役職だと思い出した。
「……うん」
「総司令官と会ったのか」
もう一度、確かめた。
「さっき。ソーマさんと偶然に会って。書類を持ってきてくれたんでしょ」
迷子になっていた訳ではなく、仮宮殿内を散歩していただけだと飲み込む。
普通に話すリーシャを見下ろしていた。
楽しそうに話す姿に、ふと微かな笑みを零したい衝動が起こる。
けれど、寸前のところで押し止まった。
感情を出さずに、冷静な行動を取るようにと教育されていたからだった。
「ソーマさんって、優しいんだよ」
「優しい?」
「うん。それがね……」
「余裕だな」
「へぇ?」
アレスが不敵な笑みを零した。
「明日が楽しみだ」
「……」
「自信があるんだろうな。さぞ」
「どういう意味?」
「休憩して、遊ぶ暇がこうしてあるんだからな」
「遊んでないわよ」
「そうか。僕には遊んでいるようにしか見えないが?」
リーシャの頬が見る見るうちに大きく膨らむ。
コロコロ表情が変化するのを、これまで面白みがなかったアレスの楽しみの一つとなっていたのである。
王室に連なる人物や貴族の中にもいないタイプだった。
それを観察するのを楽しんでいたのだ。
「休憩って言っているでしょ。それに何考えているのよ、あんな量。一度に読める訳ないでしょ。信じられない」
「だったら、帰って、読んだらどうだ。お前の頭にできるだけ入れないと、後が大変だぞ」
意地悪く、楽しげに微笑む。
「言われなくっても、帰って読むわよ」
「さっさと帰れ」
「えぇ。帰る」
怒りに任せた足取りで、リーシャが自分の部屋に戻っていった。
その後ろ姿を、ただ眺めていた。
後ろ姿が視界からなくなり、何もなかったかのような顔して、アレスはトレーニングルームに戻っていったのである。
読んでいただき、ありがとうございます。




