第1話 突然、拉致される
「学校に遅れちゃう……」
急いで着込んだ制服の乱れを気にし、高校生になったばかりのリーシャは左手にカバンを持ち、手櫛で髪を梳きながら勢いよく階段を駆け降りていった。
「どうしよう!」
大音量の目覚ましを三個鳴らし、いったんは起きたはずだった。だが、いつの間にか二度寝をしていた。
高校に入学して以来、すでに何度も繰り返されている朝の行事の一つ。
「いつまでも寝てるからでしょ!」
キッチンから母カーニャが顔を出して、高校生にもなっても落ち着きがない娘を叱咤する。毎朝の恒例行事とは言え、なぜ毎朝同じことを繰り返すのか嘆息するばかりだ。
「もう少し、どうにかならないかしら……」
洗面所から切羽詰まった声を張り上げる。
「ママ! タオルとハンカチ、出しておいてくれた?」
母の小言を聞く余裕もなく、肩甲骨が隠れてしまうほど伸びた亜麻色のストレートな髪をアレンジしようと四苦八苦している。
サイドの髪をまとめてヘアピンで留める簡単なもので手を打った。
「ユークは?」
まだ起きてから三つ下の弟の顔を見ていなかった。
「まだ、寝ているの?」
「そんなはずないでしょ!」
朝食の用意をし始めたカーニャが声を張り上げた。
気にする訳はいつも髪をいじっている時に、弟がちょっかいを出して忙しい朝を邪魔していたからだった。
それが今日に限ってない。
弟とじゃれ合うのも朝の恒例行事である。
(妙に気持ち悪いな……)
「もう、先に行きましたよ」
「えっ! そんな時間!」
二人はいつも同じ時間帯に家を出ていた。
うろたえる娘を見兼ねて、のんびりと朝食を食べていた父ポルタが穏やかに声をかける。
「コーヒーでも飲んだら、どうだ?」
「パパ。そんな悠長なこと言わないでよ」
「落ち着くぞ」
「パパ!」
「大丈夫だよ、リーシャ。出かけえる時間には、まだ早いから」
「信じられない、遅れるよ……」
半べそ状態で用意してあったタオルをカバンの中へ乱暴に突っ込む。
「心配しなくてもいいよ。もっとゆっくりと」
慌てている娘を深い愛情のこもった目でポルタは眺めていた。
父親にとって娘リーシャは目の中に入れても痛くないほど可愛がっている存在である。それに弟ユークも同じように愛していた。
子煩悩な父親としっかり者の母親、生意気な弟に囲まれたごく普通の家族である。
「どういうこと? パパ?」
「時間を見なさい」
まだ家を出る十五分前を指し示していた。
「ねぇ。大丈夫だろう」
「よかった……」
「よくありません! いつも、いつも。どうして朝が起きられないのかしら? あんなに寝ているのに」
安堵する娘にキッチンからカーニャが愚痴を零した。
いつでもどこでも寝てしまう子供で、それは高校生になった今でも続いていた。
「昨日はあんまり寝ていないの。課題の絵を描いていたから」
小さな抵抗を試みるも失敗する。
「何でも、ギリギリにやるからでしょ? 余裕を持ってやれば、こんなことにならないのよ」
「まあまあ。ママ、そのくらいにして。リーシャも座って、食べたらどうだ? まだ、時間はあるから。朝、ちゃんと食べないと、一日の力が出ないよ」
穏やかにポルタが話しかけた。
賑やかな食卓を愛しても、娘がいつも怒られるのは耐えられなかった。
のほほんと子供たちに甘い夫にイラッとするカーニャ。
「あなたはいつもそうやって、二人を甘やかすのだから、こんな娘に育っちゃうのよ」
怒られても、どこか嬉しそうなポルタ。
「もっと厳しく叱ってください」
「でも、カーニャ。リーシャもユークも、私たちの良い子供たちじゃないか。世界中を探しても、きっといないよ。こんな可愛い子供たちは」
「バカなこと言ってない、パパ」
「そうかな……」
一括され、しゅんとしおれる。
(わぁー。パパ、可哀想)
黙って、一方的な言い合いを眺めていた。
「どこがいい子なの。姉が姉なら、弟も弟です! アイドルの写真集がほしいからって、学校遅刻しても並んで買いに行くなんて、とてもいい息子には思えないわ」
容赦なく息子の行動を、バッサリと切り捨てる。
ユークはアイドルオタクだった。
「本当に誰に似たのかしら。こんなにのん気で、二人の将来が不安だわ」
悪の根源と言う目で夫を睨んでいる。
(写真集を買いに、早く行ったのね)
二人のやり取りで、弟の居場所に見当がつく。
ユークの趣味がアイドルの写真集集めで、学校を遅刻してでも並んで買うほどのめり込んでいた。
「いいと思うけどな、それぐらい……。年頃の男の子なんだし、ママだって、マーベル格好いいとか言っていたじゃないか。パパ、悲しかったな……あの時は」
「いつの話、マーベルは」
テレビで超有名人のサッカー選手マーベルが話題になっていた際に、カーニャが盛り上がっていたのである。その熱はすでに冷めて、別な人に向けられていた。
反省の色が足りない夫に怒りが収まらず、キッチンからキッーと睨む。
「パパ。来月のお小遣い、減らしますから。ユークに、お金貸したでしょ」
即謝る。お小遣いを減らされるのは大変困る自体だからだ。
「パパ。また減らされちゃうのね」
ボソッと呟いた。
パパ、ごめんねと心の中で謝ってから、かっかしている母に気づかれないように玄関の方へ足を進める。
妻にばれないように逃げ出そうとする可愛い娘を笑顔で見送った。
玄関にある鏡の前で、最終チェックをして靴を履く。
「パパ、ママ。いってきます!」
大きな声で叫び、あっという間に出て行った。
「気をつけなさい」
「転ばないようにな、リーシャ」
カーニャは嘆息を零しながら、キッチンから出てきた。
その手には娘のために用意したスープがあった。
白い湯気が立ち上がっている。
結局、リーシャはコーヒー一杯飲んだだけで、学校へ出て行ってしまった。
まだ食べている夫に少々呆れ、食べる人を失った哀れなスープに視線を傾ける。
「大丈夫。私が食べるから」
「結構です。それより、遅刻ですよ。首にならないのが不思議なぐらい」
ポルタの出勤時間は子供たちよりも前に出ることになっていた。
さっきまでの怒りは消え失せ、冷静に言葉をかける。
「早く仕事、いってください」
「二人の顔を見て、そして、愛するカーニャの顔を見てからじゃないと仕事ができないよ」
甘いことをすらっと言う夫に呆れ気味の表情を浮かべるが、その内心では私も愛していると返していた。けれど、そんなことを口にして惚気ていると、さらに出勤時間が遅くなると言葉を飲み込んでいた。
「仕事してください。あの子をクラージュに入学させて、お金も掛かるのですから。ここであなたが首になったら、どうするんですか」
「わかったよ。でも、せっかく用意したスープを飲んでから」
「親方に怒られます」
ぴしゃりと吐き捨てるが、夫はどこ吹く風である。
「大丈夫。親方ならわかってくれるから」
「わかっているのでなく、諦めているだけです」
「カーニャ。スープ」
「……」
まっすぐに向けられる視線には、いつも強気でいるカーニャは勝てなかった。
渋々手に持っているスープに視線を移す。
「温めてきます。冷めてしまったから」
「ありがとう」
「食べたら、仕事行ってくださいね」
「わかっているって」
キッチンに戻っていく姿を、ポルタは嬉しそうに眺めていた。
リーシャ・ソフィーズ、十五歳。クラージュアカデミーに通う高校一年生。クラージュアカデミーとは専門高校で、専門分野に分かれて勉学する学校である。そこで美術科でデザイン専攻している。他にはスポーツ科、演劇科、建築科、それにデステニーバトルのハーツパイロットを養成している特進科がある。
カバンを背中に背負い、走るスピードを上げる。
「猛チャージ!」
気合いをつけるために腕を突き上げる。
家からクラージュアカデミーまで普通に歩いて四、五十分掛かる距離で、九月に入学して一ヶ月過ぎようとしていたが、その距離を毎朝、走って登校していた。
プリーツスカートのポケットから、ピンクのスマホを出して時間を確かめる。
「どうしよう……ナタリーたち怒っているかな」
いつもより早く登校して、友達であるナタリーたちと宿題を見せ合う約束をしていた。
寝る際に忘れていた訳ではない。
どうしてもなかなかベッドから這い上がることができなかったのである。
「絶対にヤバすぎるって! もぉ、何で起きられないのよ」
小さい頃からいったん眠ってしまうと、眠りが深いのか目覚めることができなった。
そのせいで何度も遅刻したことか。
夜更かしをしないで、誰よりも早く眠りにつくが、その効果もまったく現れなかった。
「絶望的。絶対に何かねだられる」
不敵に笑う友達たちの顔が目に浮かぶ。
(財布が寒くなる……)
学校に向かって走っていると、突然にリーシャの前後に黒塗りの車が現れる。
「!」
いかにも高級感溢れる車に目を見張った。
「高そう」
素直な感想が漏れた。
ぴったりと自分と並走して走る。
「……」
走るスピードを落とし、前後にある黒塗りの車を交互に見ながら立ち止まった。すると、同じように黒塗りの車も止まる。
「何?」
同じ行動する黒塗りの車に戸惑う。
突如として車から人が出てきて、あっという間に呆然としているリーシャの周囲を手慣れた様子で取り囲む。
「何? 何?」
黒のサングラスに黒のスーツで、いかにも怪しい雰囲気に一歩後退する。
サングラスのせいで相手の表情が読めない。
「嘘……これってヤバい状況ってこと?」
黒ずくめの男たちは強張っているリーシャに近づく。
「リーシャ・ソフィーズ様、申し訳ありません。少しの間、静かにしていただきます」
「様?」
変なところが気になってしまう。生まれて始めて、様をつけられ、誰かと間違われた?と一瞬脳裏を駆け巡る。
「リーシャ……って言った……よね」
私のことだよね?と不安げに自分に用があることだけ、辛うじて認識する。でも、こんな高級車に乗るような黒ずくめの男たちに心当たりがないと首を傾げるばかりだった。
恐る恐る周囲を見定めるが彼らしかいない。
いつもなら人通りがある道に誰もいないのである。
この状況を打破するために彼らに話しかける決心をした。
「人違いじゃないですか?」
「間違いございません。リーシャ様です」
「リーシャ様?」
「私たちと一緒に来ていただきます」
(行く? どこに?)
ある一つの思考がまとまる。
そして、口をわなわなと振るわせる。
眼光が見開いたリーシャに黒ずくめの男たちは首を傾げた。
「……わ、私を、連れても、……う、う、うちには、お金はありません」
黒ずくめの男たちが固まった。
「……。申し訳ありません。想像されていることとは少し違います」
「何が違うんですか! そうじゃないんですか!」
「……申し訳ありません。私たちの口からは申せませんので」
不安で、さらに一歩退く。
瞬時に辺りを窺うが、すでに囲まれて逃げる隙間がない。
「あの……違います! とにかく、私どもに……」
「とにかく、うちにお金ありません! 私がクラージュに行ったせいで、余計なお金がないです」
「……お金は必要ありませんから。勘違いしませんように」
「お金じゃない! ……じゃ、目的は何ですか。……ま、まさ、か……私の身体! 私、売られちゃうの!」
突拍子もない発言に、黒ずくめの男たちは頭を抱え込む。そんな様子を見ていたら悪い人じゃないかもと思う反面、どうしても恐怖が先に立つ。
それとは対照的に黒ずくめの男たちは、とんでもない誤解を解かなければと気持ちが迫られる。けれど、口止めされている以上、誤解を解く説明ができない。
ひたすら短い否定を繰り返すのみだ。
「それも違います!」
「嘘でしょ! どうしよう……」
「違いますから」
「嘘」
双方パニックで収拾がつかない。
「変な想像しませんように。とにかく……」
「私、どこの国に連れていかれるの?」
「大丈夫です。ここの国です」
「やっぱり売られるんだ!」
「違います!」
エスカレートしていく勘違いを必死に否定していく。
「売られる、どうしよう……」
怯えきっている様子に説明しても無駄だと諦めて、予定していたことを実行しようと目配せし合う。できるだけ穏便に済ませたかったのが、彼らの心情だった。生まれたての小鹿のように震えているリーシャに同行することを納得させることは無理だと悟ったのだ。
黒ずくめの男たちはそれぞれに嘆息する。
「まだ、十五なのに……」
うっすらと涙も出てきている。
「まだちゃんとした恋もしていないのに……」
ボロボロの船に乗せられる妄想を膨らませていると、突然に後ろからぬっと手が出てきた。
「えっ!」
持っていたハンカチでいきなりリーシャの口を塞ぐ。
(何、この人たち。私……誘拐されちゃう! 助けてパパ、ママ、ユーク)
暴れもがくが、段々と力が失われていく。
「いや……」
力が完全に抜けて身体を黒ずくめの男に預ける。
口を塞いだハンカチには眠らせるためにクロロホルムが染み込まれていた。
「……私の白馬の……王子様、……助け……」
「申し訳ありません。とにかく、連れてくるように申しつかってきたものですから」
常に彼らはリーシャに対して紳士的に接していたが、恐怖に駆られていたのでそのことにまったく気づかなかったのである。
読んでいただき、ありがとうございます