第175話
クラスの打ち上げは、突如、リーシャが連れ去られても続けられ、ラルムは、最後の方まで、残っていたのだった。
帰宅したラルム。
屈託のない笑顔を、仕えている者たちにも、注いでいた。
いつものように過ごし、深夜、部屋で、一人佇んでいたのだった。
窓から、夜空を眺める。
星の明かりが、煌々と、輝いていたのだ。
ただ、何もすることなく、眺めていた。
何もする気に、なれなかったのだった。
その思考は、自分の近くで、楽しげに笑っていたリーシャを、無理やりに、連れ出された、苦々しい記憶で、占めていたのである。
そして、次に、思い出されるのが、最後のクラス対抗戦でのリレーで、アレスに抜かされた場面だ。
寸分の狂いもなく、鮮明な映像だった。
(何で……)
苦々しい気持ちを、堪えている。
アレスの出場が、決まるまでは、ある程度、手を抜こうと考えていた。
それまでに出場した、どの競技も、全力を、出し切った訳ではない。
ある程度、手を抜いていたのである。
アレスが見ている前で、本当の自分の実力を、見せることが、できなかった。
けれど、リーシャの無茶振りで、アレスの出場が決まり、互いに、アンカーとなった時点では、どうするかと、悩んでもいたのだ。
本気を、出し切りたいと言う気持ちと、まだ、隠し通さなくてはと言う気持ちが、鬩ぎあっていた。
だが、バトンを受け取った際、負けたくないと言う思いが、大きく膨らむ。
何も考えることもしないで、身体が自然と、本気で、動いていたのだった。
すぐ背後に、アレスの存在を、感じ取った途端、絶対に、負けたくないと強く抱き、更なる力を振り絞り、無我夢中で、走っていたのである。
走っている時間なんて、ほんの僅かな時間しかなかった。
それでも、久しぶりに、全速力で、走っていたのだった。
不意に、無表情で、涼しいアレスの顔を、掠めている。
アレスも、ラルム同様に、本気で、走っていたのが、理解できていた。
(アレス……)
珍しく、本気で、力を出している姿に、言い知れぬ、黒い渦が、胸の中で、漂っていたのである。
昔から、飄々とした顔で、先に、何でも上手くこなす姿が、思い起こされていた。
ラルムよりも、何でも早く、アレスは、こなすことができたのだった。
けれど、すぐに飽きてしまい、固執することなく、手を抜いていたのだ。
(なぜ……)
普段のアレスの性格を、踏まえると、本気になることなんてない。
まして、出場することなんて、考えられなかったのだ。
それが、容易に出場を決め、アレスは、本気で走っていたのである。
ふと、憮然としているアレスに向ける、リーシャの微笑みを、思い返していた。
その比重が、増していく。
「……」
目が、細められていった。
突然、部屋のドアがノックされ、メリナが、部屋に入ってきたのである。
今日も、ラルムを支援してくれる人たちと、会っていたのだ。
勿論、自分たちの動きをある程度、把握されていると抱きつつも、隠し通したい行動は慎重に、動き回っていたのだった。
だからと言って、ラルム自身に、どういった人物と、会っているとは話さない。
そして、ラルムも、誰と会っているのかと、聞かなかったのだ。
メリナの存在で、ようやく、思考が、現実に戻ってくる。
ノックされ、声をかけられるまで、メリナの帰宅に、気づかなかったのだ。
先ほどまで、凍っていた顔とは違い、柔和な笑みを携えていた。
「おかえり」
「ただいま」
そつなく、メリナが、部屋の様子を窺っていた。
「アレス殿下と、勝負したようね」
「……もう、耳にしているの」
少し、呆れた顔を、ラルムが、滲ませていた。
今日の、アカデミーの出来事を、耳にしていることに、僅かに、脅威を巡らせていたのだ。
どれだけ、来賓の中に、メリナの間者がいたのかと、抱いていた。
クラージュアカデミーに来ていた来賓の中に、シュトラー王や、反シュトラー王派の派閥に加え、いろいろな派閥が、混在していることは、容易に理解できていた。
アレス自身も、そのことは、把握していたのだ。
自分の母親あるセリシアの関係者が、混じっていることもだった。
「当たり前でしょう」
微笑むメリナ。
(……気をつけないと)
さらに、気持ちを引き締めないと抱く、ラルムである。
「負けちゃった」
おどけるラルムだ。
「いいのよ。それで。今は、おとなしくしている、時なんだから」
なんでもない顔を、メリナが、滲ませていた。
話を聞いても、そつなく、返していたのだった。
最後に、必ず勝と言う強い意志を、メリナが、持っていたのである。
だから、あえて、今、負けても、些細なことだと、巡らせていたのだ。
「……そうだね」
「ところで、何があったの?」
「何が?」
「様子が、少し変だって、聞いたわよ」
帰宅した早々に、メリナたちに仕えている者から、ラルムの様子が、おかしいと報告を、受けていたのである。
仕えている者たち全員が、ラルムの様子に、気づいていた訳ではない。
ごく一部の者が、気づいていた。
クラス対抗戦で、アレスに負けたことよりも、ラルムの様子が、おかしいことが気になっていたのだった。
ごく当たり前な、母親の行動である。
「……」
「ラルム?」
まっすぐに、ラルムの顔に、注がれる眼差し。
「……やっぱり、負けるのは、楽しくないね」
「そう……。ごめんね」
微かに、肩を落とすメリナだ。
「母さんが、悪い訳じゃないよ」
「……」
優しく、ラルムの頭を、撫でてあげた。
「弱かったばかりに……」
「母さんのせいじゃないよ。勿論、父さんのせいでも、ないよ」
「……なぜ、国王は……」
悔しさを、覗かせている。
そうした顔を、幼い頃から、見てきたラルムだった。
決して、慣れることがない。
見るたび、心が締め付けられる思いを、抱いていた。
沈んだラルムに気づき、ニッコリとした表情に、メリナが戻っていく。
「ところで、どうして、殿下と、勝負したの?」
詳細までは、聞いていなかったのだ。
「……出る人間が、ケガしちゃって、その代わりで、出ることになったんだ」
リーシャの名は、決して、出さない。
ラルムの勘が、話してはいけないと、訴えかけていたのである。
「……そう。でも、殿下にしては、珍しい行動ね」
訝しげな顔をみせ、何かと、考え込んでいるメリナ。
「……そうだね。僕も、驚いたよ。出ていた時は」
「確かにね」
小さく、微笑んでみせる。
(……母さんのことだ、きっと、終わらせないだろうな。今日のことを、調べるかもしれないな)
苦慮している顔を、窺わせない。
さらに、調べる可能性もあるからだ。
自分たちのことを。
(……リーシャを、守らないと)
あっと言う間に、気持ちを切り替え、ラルムが、穏やかな笑みを漏らしている。
「外で、食べてきた?」
「えぇ」
「少しだけ、食べるのを付き合って、くれない? 少し、小腹が、空いたみたい。一人で食べるのは、味気ないし」
やや縋る眼差しを注ぐ。
「いいわよ」
めったに、甘えたことを言わない息子の要望に、これまでに、ないぐらいの笑顔を、覗かせていた。
「ありがとう」
そして、二人一緒に、部屋を出て行く。
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