第174話
無理やり、クラスのパーティーから連れ戻され、仮宮殿に戻ってきたリーシャ。
当初は、横暴なアレスに対し、プリプリしていた。
だが、次第に、一人自室で、後悔していたのだった。
部屋にあるソファに、どっかりと、座り込んでいる。
目の前にあるテーブルには、手をつけられていない焼き菓子と、飲み物が置かれていたのだ。
幾度目かの、溜息を吐いていた。
頭を掠めているのは、先ほどのことだった。
最後のリレーで、勝ったことを祝って、上げられなかったからだ。
言葉をかける前に、唐突に、クラスから連れ出され、ケンカになってしまったからである。
「何やっていたんだろう……」
消沈し、暗い顔を、滲ませていた。
侍女たちは、席を、はずしていたのだ。
疲れているだろう、リーシャを気遣ってだった。
悶々とした気分。
ずっと、味わっていたのだ。
脳裏には、最後のクラス対抗戦の映像が、鮮やかに流れ込んでいる。
いつになく、真剣な面差しで、アレスが、走っているシーンだ。
先にいる生徒を、次々と、抜いていった。
そして、ラルムと共に、前へ、躍り出ていく。
その速度は、物凄く、速い。
驚異的な走るレベル。
度肝を抜かれつつも、走っているアレスの姿から、目が離せなくなっていた。
「凄かったな……」
ありきたりな言葉しか、出てこない。
頭も、心も、すべてに置いて、走っているアレスの姿に、釘づけられていた。
他のものが、目に入らないほどだ。
「あんな姿、見たことないかも……」
そして、また、クラスの打ち上げから、戻された光景に、呼び戻っていく。
盛大な溜息を、何度しても、尽きない。
「どうしよう……」
また、先ほどの後悔に、戻っていたのである。
こうした光景を、一人で、何回も、繰り返していたのだった。
ふと、仲直りの意味を込め、あることを浮かべていた。
以前から、やりたいことだったが、時間がとれず、できなかったことでもある。
「そうだ」
頬を上げ、立ち上げるリーシャ。
もう、思い悩んでいたことが、あっと言う間に、吹き飛んでいた。
「ユマに、お願いして……」
喜びながらも、頭の中で、段取りを巡らせていた。
瞬く間に、部屋を出て行く、リーシャであった。
三十分後、リーシャとアレスは、王宮の中にある、とある壁の前に、立っていたのだ。
閑散として、何もない場所だった。
けれど、二人の周りには、色とりどりな、インクが並べられ、様々な大きさの刷毛や、筆が、用意されていたのである。
ここに、二人が来た時点で、置かれていた。
二人が到着する前に、事前に、リーシャが、お願いしていたものだ。
二人のいでたちも、汚れてもいいように、リーシャは、ピンク色のつなぎを着込み、アレスは、上下黒のスポーツウェアだった。
「何で、そんな上等なもの、着てきちゃうのよ。汚れるでしょ?」
「……」
つなぎは、ところどころ、汚れていたのである。
ピンク色のつなぎは、愛用品で、絵や作品を作る際に、着ているものだ。
それに対し、アレスが着ているものは、真新しいものだった。
「……」
憤慨しているリーシャの姿を、眉間にしわを寄せながら、見据えていた。
「他に、なかったの? そんな新品、着てきて」
アレスの周りを、窺っているリーシャ。
事前に、汚れてもいいものを着てきてと言う、リーシャの伝言を受け取ったウィリアムの仕業だった。
二人の仲を取りもうとする、ウィリアムが意気込み、新しいものを、勝手に用意したのである。
怪訝そうに、立ち尽くしているアレス。
リーシャ妃殿下が、お待ちですと言う、ウィリアムから伝言を受け取り、訳がわからないまま、用意した服に着替えさせられ、ここに、連れてこられたのだった。
顰めた形相のまま、リーシャと、並べられているインクを、窺っている。
「何だ? これは?」
いつの間にか、アレスの目の前に、立っていた。
覗き込んでいる姿に、アレスが、フリーズしている。
楽しそうな雰囲気に、少しばかり、安堵した気持ちを、滲ませていた。
「落書き」
笑顔を、覗かせているリーシャ。
言われても、ぴんとこないアレスだ。
首を傾げている。
「二人で、落書きしようと思って」
「なぜ、僕が、しなくてはならない? そんなこと」
「いいじゃない」
ニコニコ顔の、リーシャである。
アレスの眉間には、深いしわが、いくつもあった。
「それに、怒られるぞ」
「大丈夫。前に、陛下に、許可、貰っていたから」
なんでもないと言う顔を、リーシャが、注いでいる。
(あの人は、こんなことまで、許可しているのか……。どこまで、甘いんだ、リーシャには……)
隠そうとしないで、呆れた顔を、露わにしていたのだ。
「ここなら、落書きをしても、いいって」
右手で、大きな壁を、指し占めていた。
「……」
灰色一色の、錆びれた壁だ。
この場所は、木々に覆われ、目立つこともない。
人の出入りもされない、寂然とした場所だった。
(こんなところが、あったのか……)
王宮に住んでいるアレスでさえも、知らなったのである。
不思議な感覚に、囚われていたのだ。
(どれだけ、あるんだろう……。私が、知らない場所が)
不意に、興味が湧き、辺りを見渡していた。
あまり、手入れもされていないようで、侘しさが、感じられたのだった。
子供の頃は、王宮の中を駆け回っていた。
けれど、いつの間にか、そうしたことも、しなくなっていたのである。
(……誰が、見つけたんだ……、こんな場所?)
口角を上げているリーシャを、捉えている。
「……リーシャが、見つけたのか?」
アレスの、何気ない疑問。
首を、横に振っている。
(って、ことは……)
アレスの頭の中に、シュトラー王の重臣のソーマや、フェルサ、そして、《コンドルの翼》の顔が、次々と、浮かんでいった。
それと同時に、複雑な表情を、アレスが覗かせている。
侍従や侍女たちには、頼まないだろう言うことだ。
身近な人物に、命じたはずだと、巡らせている。
このところ、隠されていた彼らの動きを、少しばかり、アレスは、知ることができたのだった。
(……《コンドルの翼》の辺りだろうな。さすがに、あの二人が、あの人の命で、こんな場所を、探すはずはないし……)
リーシャやアレスが、いるところから、少し離れている場所では……。
自分の仕事部屋で、部下と共に、仕事をしているフェルサ。
小さく、くしゃみを漏らしていた。
「風邪ですか?」
心配げな眼差しを、巡らす部下だ。
このところ、忙しい上司である、フェルサを、気遣っていたのである。
「大丈夫だ。それよりも、先を急ごう。仕事が、待ってくれないぞ」
「はい」
二人が、仕事に、邁進していった。
逡巡しているアレスを、窺っているリーシャだ。
いい大人が、落書きに適した壁を、探している光景に、ついつい、憐れみな双眸を、アレスが巡らせていたのだった。
「どうかしたの?」
きょとんと、小さく、首を傾げている。
先ほどまで、剥れていた様子が、嘘のようだった。
「なんでもない」
「そう。なら、始めましょう」
意気揚々と、筆を持ったリーシャ。
水を得た魚のように、そして、素早く筆を、灰色の壁に走らせていく。
その光景を、アレスは、黙ったまま、見入っていたのである。
躊躇なく、筆を動かしている姿を、何もせず、ただ、眺めていたのだった。
こうして、生き生きと、リーシャが描いている姿を、あまり垣間見たことがない。
新鮮な気持ちで、双眸を、巡らせていたのだ。
しばらくし、一人で描いていることに、気づいたリーシャが、振り向く。
「何しているの?」
「……」
「何で、描かないの?」
「何を、描くんだ?」
ブスッとした顔で、アレスが、口を開いていた。
「好きなものを、描けばいいのよ」
今まで、そんなことを、聞かれたことがないリーシャが、僅かに、目を見開いている。
「……」
固まって、一切、アレスが、動こうとしない。
(好きなものって、何だ?)
業を煮やし、リーシャが、瞬く間に、下書きだけを描いていく。
ある程度、でき上がったところで、立ったままでいるアレスの元にいき、有無を言わせないで、筆を持たせ、下書きした前に、立たせていた。
「色を塗って」
「……何色だ」
断れなかったことに、リーシャの頬が、緩んでいる。
嫌がる可能性も、抱いていたのだ。
付き合ってくれる様子に、楽しさが、倍増していった。
「アレスの、好きなように」
次第に、訝しげな表情になっていく。
何だか、おかしくなり、クスクスと、笑っているリーシャである。
ジト目で、睨んでいるアレス。
「とりあえず、ここは、青で、こっちが、黄色で、あっちが、緑かな。でも、アレスが、違うと思ったら、変えて。好きな色に、塗ってみて」
「……わかった」
慣れない手つきで、指定された場所に、色を塗っていくアレスだ。
その背中を、屈託のない笑顔を、覗かせている。
「よし。私も、描いちゃおう」
リーシャは絵を描き、アレスが、色を塗っていく。
作業の間、互いに、視線を巡らせていた。
二人は喋りながら、ケンカをしながらも、作業をしていった。
殺風景だった壁が、色鮮やかなで、ポップな作品に、いつの間にか、でき上がっていったのである。
作品の前に、立つ二人。
やりきった感のリーシャに対し、アレスは、無愛想な顔を滲ませていた。
二人の顔や、着ている服が、ペンキだらけになっている。
そうしたことにも、気にならない二人だった。
やっている途中から、アレスは、すでに諦めていたのだ。
アレスの眼光は、ある一点に、注がれている。
「……何だ? これは」
指し示したのは、二匹のうさぎのうち、不機嫌そうなうさぎの方だった。
壁の端の方に、笑っているうさぎと、不機嫌そうなうさぎの絵が、描かれていたのである。
「可愛いでしょう」
満面の笑みで、答えていた。
なぜか、気に入らないアレスだった。
「……意味が、理解できない。どこが、可愛いんだ? これの?」
納得がいかない、アレスだ。
そんな姿を、小さく笑って、リーシャが、窺っていたのだった。
(これは、私とアレス。名前を、残す訳には、いかないから、これに、してみたの。それに、こんなことを言ったら、アレス、怒っちゃうでしょ? だから、内緒)
「面白かった、アレス?」
「……疲れた」
「そう?」
首を傾げ、リーシャが、考え込んでいる。
身体を、動かしている、リーシャの姿を、アレスは、窺っていたのだった。
微かに、その口角が、小さく、上がっていたのだ。
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