第170話
最後の種目リレーが、始まった。
トラックの内側では、アレスとラルムが、走る時を、静かに待っている。
二人以外の代表たちも、王太子のアレスと距離を開け、自分たちが、走る順番を待っていたのだった。
どことなく、アレスやラルム以外の生徒たちは、居た堪れない。
そわそわと、二人を見ないように、心掛けていたのである。
それと同時に、異様に、盛り上がっている声援。
待機している生徒たちが、戸惑いの色を、隠せなかった。
これまで、参加しなかったアレスが、走ると知って、大きな騒ぎと、なっていたのだ。
その最中、周囲の騒音には見向きもせず、二人は、平然と、成り行きを、見定めていたのである。
歓声は、始まる前から、鳴り止まない。
レースが進行するたび、盛大なものへと、移っていった。
話題の二人が、走ると言う生徒たちの好奇心を、擽っている。
そんな空気を知らず、一生懸命に、声を張り上げているリーシャ。
自分のクラスである、美術科の代表選手の応援に、励んでいたのだ。
リレーの準備が始まる中、大きなどよめきが、クラージュアカデミーで響き渡っていた。
王太子であるアレスが、リレーに参加すると知った生徒や、貴賓席の人や、教師たちが、どういうことだと、眉を潜めて、騒ぎ出したのだった。
困惑の声や、王太子が走ると、黄色歓声。
複雑な声が、交じり合い、異様な空気感に、変貌していた。
普段から、脚光を浴びている嫉妬心から、アレスに負けるなと、自分たちのクラスを、応援する男子の声も、含まれていたのだった。
そんな異常の中で、競技が始まって、今に至る。
先頭を走っているのは、二年生のスポーツ科、特進科は三位につけ、リーシャたちのクラスは、大健闘である五位を、キープしていた。
三位、四位、五位は、僅差だ。
その状況を眺めながら、リレーに向かう際の出来事を、アレスは思い返している。
心の中で、舌打ちをし、王太子とは、思えない所業に及んでいた。
「アレスも、ラルムも、頑張ってね」
満面の笑みで、リーシャが、二人を応援していた。
放送で、集合が掛かり、移動する時間となっていたのである。
「……」
「うん」
対照的な眼差しを、二人が、見せていたのだ。
一人は、冷ややかなもの、もう一人は、優しさを滲ませていた。
結局、有無を言わず、アレスが、立ち上がった。
ゼインを初めとする外野。
本当に、出るつもりなのかと、目を見張っている。
知らぬ顔し、やり過ごす可能性も、考えに潜ませていたのだ。
アレスは、視線を外して、特別席から、いち早く、離れていった。
その後、二言、三言リーシャと、会話を交わしてから、ラルムも出て行った。
先を行く、アレスの心情は、不機嫌極まりない。
(私は、ラルムと同等なのか? 応援すべき相手は、私一人で、いいはずだ)
夫である自分と、ラルムを、対等にされたことが、許せなかった。
釈然としないまま、レースの状況を確かめる。
三位から、五位までは、大して差がない。
だが、美術科の代表として、走っている生徒が、徐々に抜き始め、三位に、浮上していた。
その力が、衰えるどころか、力を増しているようだ。
僅かではあるが、三位と四位の差が、広がっていく。
(何を、やっている)
文系の生徒に、抜かれている先輩に、胸の内で、悪態が零れていた。
どんな、鍛え方をしているんだ、これでは、特進科の資質が、問われるではないかと、呆れている。
見学席にいる、特進科の生徒たちも、同じようなことを抱いたようで、もっと、スピードを上げろと、声を張り上げていたのだ。
それに対し、美術科は、その調子だと、喜びはしゃいでいる。
先頭と、四位につけている特進科の差は、縮まっていた。
五位につけていた生徒が、落ちていった。
勝負の分け目は、四位までとなったのだ。
アンカーを走ることになったアレス。
冷静に、分析を行っている。
自分の力を、効率的に、どれぐらい出すべきか、思慮していた。
一位になる見込みがないのに、全力を出し切って、走るのも、力の無駄遣いと、巡らせていたからである。
トラックの内側には、もう、アンカーしか残っていない。
当初、ケガして、出られなくなった代表は、アンカーを走ることに、なっていなかったのだ。
特進科で、クラス対抗戦を仕切っている三年生が、代わりに走るのが、アレスと知って、勝手に、アンカーに変更したのだった。
(スポーツ科は、一番、優れている者を、出してくるだろうな……)
何気なさを装いながら、待っているスポーツ科の代表に、目を傾けている。
軽く、ストレッチをし、身体をほぐしていた。
中距離を走り、一位をとった記憶が、蘇っていたのである。
(まだ、余力は、残っているだろうな)
そして、視線の矛先を、変えた。
(一番、侮れないのは、ラルムだな)
ラルムは、自分のクラスを、応援していた。
「抜けない、距離ではない……」
か細い声で、アレスが漏らした。
誰も、その声が、耳に届いていない。
レースも架橋に入り、一段と、歓声のボリュームが、大きくなっていく。
特別席では、腰を下ろし、座り込んでいたゼインたちも立ち上がり、これまでにないぐらいに、盛り上がっているレースの行方を、傍観していた。
椅子に座るのも忘れ、応援に夢中になっているリーシャの姿がある。
必死に、自分のクラスの代表者へと、声を張り上げていた。
「アレスのやつ、大丈夫か?」
心配げに、フランクが声をかけた。
機嫌を悪くしていないか、気にかけていたのだった。
「大丈夫そうだ」
グランドの内側で、待っているアレスに、双眸を注ぎながら、ゼインが口にしていた。
(あそこまで行って、走らないこともないだろう)
「それにしても、随分と、妃殿下は無茶したな」
熱が、籠もっている応援をし続ける背中を見つめながら、ティオが、先ほど、冷や冷やした出来事を思い返していた。
不穏なオーラを、出しているにもかかわらず、強行に、話を進めていった奇行を、思い出し、信じられないものを見るような眼差しを、滲ませていたのだった。
「何か、起こるんじゃないかと、覚悟したさ」
身震いし、フランクが、同じように、十数分前のことを、蘇らせている。
「俺も、それ思った」
そんな二人の話を遠巻きにし、ゼインが、アレスの姿を捉えていた。
(多くの観衆が、いたからな。無茶は、しないと思ったが……)
少しばかり、二人の意見とは、食い違っていたのである。
無茶をしない代わりに、機嫌の悪さは、頂点に達するだろうと、決めていた。
だが、怒りの沸点は、頂上に、上がることがなかった。
「珍しいことも、あるものだ」
待機しているアレスからは、不機嫌のオーラが、一切、消えていた。
冷静に、状況を窺っている姿を、垣間見ていたのである。
「ま、面白いものも、見られそうだし、ゆっくり観戦しようぜ」
話し込んでいる、フランクとティオ。
レースに、視線を向けるように促した。
「「……そうだな」」
二人は、素直に、応じるのだった。
アレスとラルムは、バトンを受け取る位置につく。
すでに、一位と二位は、バトンの受け渡しが、済んでいた。
もう少しで、三位の美術科が、入ってくる段階まで、来ていたのである。
「互いに、頑張ろう、アレス」
「そうだな」
顔を巡らせているラルムとは違い、声のみ返した。
「本気で、走るんだろう?」
レースに、集中し始めようとしたラルムに、問いかけた。
「ああ。そのつもりだよ」
にこやかに、応対していた。
二人の耳に、声援が入ってこない。
レースと、相手に、集中していたのだ。
「そうか」
「アレスは、どうするの?」
「別に。ただ、この勝負は、私とラルムになるなと、思っているだけだ」
「僕たちは、三位と四位だよ」
「だが、抜けなくはない、距離だろう?」
全然、前を走る二人を、垣間見ない。
一位争いをするのは、自分とラルムだけと、決め付けている。
「スポーツ科の代表でも?」
アレスの横顔から、視線が外せない。
「互いに、訓練を積んでいる。スポーツ科の代表よりも、そう、思わないのか?」
「僕は……」
「謙遜するな。私には、わかる、どれだけ、訓練してきたのか」
ズバリと、言い当てていた。
表情を、失いかけた顔。
素早く、屈託のない笑顔に、変貌している。
「……そう。でも、アレスが、考えているよりかは、自由に遊ばせて、貰っていたから、アレスに比べたら、まだまだだよ」
「私も忙しく、ラルムが、思っているほど、していない」
「そうなんだ」
そっけなく、返事をした。
三位のバトンが、すぐ目の前まで、来ていたのである。
「お先に」
「ああ」
先に、バトンを、受け取ったラルム。
勢いよく、駆け出していった。
その僅か後、静かに佇んでいたアレスも、バトンを手にし、足を踏み出していく。
バトンを手にした瞬間から、顔つきが、微かに変わっていた。
だが、特別席からも、見学席からも、離れていたので、その変化に気づく者が、誰一人としていなかった。
二人は、貰った時の距離のまま、一位と二位の代表を追っていく。
けれど、どよめきを背に、二人の順位が、着実に、上がっていった。
信じられないスピードで、追い上げていったのだった。
それと同時に、ラルムとアレスの差も、なくなっていった。
二人は、一位の代表を、捉えようとしている。
風を切って走る二人。
落ちるどころか、勢いが増していく。
両者の目には、互いしか、入っていない。
(ラルム)
(アレス)
驚異的な二人。
半分以上の声援が、失われていた。
圧巻な走りに、声を出すのも、忘れるほどだ。
「凄い……」
真剣な二人から、リーシャは、目が離せなかった。
ラルムを抜こうとするが、なかなか、させてくれない。
完全に、二人に差がなかった。
けれど、僅かに、ラルムが先を、走っていたのである。
「アレス……」
徐々に、視線が、アレス一人だけになっていった。
すっかり、美術科やラルムを応援するのが、消去されている。
(頑張れ、アレス)
拳を握り、身体を、前のべりになっていた。
すでに、一位の代表を抜き去り、ラルムとアレスが、一位の座をかけ、争っていた。
ゴールを目前にして、若干、前にいるラルムに、双眸が集まっていく。
((負けない))
二人の脳裏には、同じ言葉しかなかった。
互いの意地をかけ、隣にいる相手に、負けたくなかったのだ。
それは、幼き日から、変わってはいない出来事。
シュトラー王の孫として、同じ年に生まれ、二人は、互いに、何事においても、競っていたのである。
懸命に走っている二人だった。
目を細め、アレスが前を捉える。
(渡さない)
アレスの身体が、ラルムの前へ出た。
阻止しようと、ラルムも、力を尽くすが、前へ出ることが叶わない。
そして、そのままアレスが、一位で、ゴールを駆けていった。
大きな歓声。
見学席や校舎に、逃げ込んでいた生徒たちからも、立ち昇っている。
はしゃぐリーシャだ。
二人のレースぷりに、感動しているナタリーたち。
ゼインたちは、愕然と、レースを観戦していた。
校舎の中から、レースの行方を見ていたステラは、信じられないものを、見ているかのように目を見張って、走り終えたアレスが、息を整えている姿を、注視していたのである。
「アレスなの……」
これまで、見知っている姿と駆けていた姿が、一致できなかったのだ。
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