第161話
テントに設けられた特別席。
アレスとリーシャが、グランドで、行われている競技を観戦している。
この状況を、面白くないアレスに対し、恥ずかしさにも、慣れ始めてきたリーシャ。
目の前で、行われている競技を楽しみ、時には声援を、時には拍手を送り、対照的な色を放出させていたのだ。
「行け! もう少し」
周りに、人がいることも忘れ、応援している。
その様子を、気づかれないように、アレスが観察していた。
誰にも、知られないようだ。
隣にいるリーシャを、それとなく窺うことが、日課になりつつあったのだった。
王族の中で、育ってきたアレスにとって、民間から、嫁いできたリーシャは、ある意味、奇異であり、次に、どんなことを仕出かすのかと、興味の対象と、なっていたのである。
様子を眺めていくうち、不満の要素が、膨張し始めていく。
(何なんだ)
ほんの僅かに、顔を顰めていた。
誰にも、悟られないほどだ。
(ここまでする理由でも、あると、言うのか?)
競技に、参加しているラルムや、応援せずに、自分たちのクラスや、仲のいい生徒を応援しているようで、それらを寡黙に窺っていた。
応援している行為に、アレスが、理解できなかったのだ。
(何で、喉を痛めてまで、声を張り上げる?)
知っている生徒を、見つけるたび、応援していた。
そのせいもあり、リーシャの声は、徐々に、割れ始めていた。
見知っている一人一人に、声を張り上げていたためだ。
熱心に応援している姿は、グランドの向こう側にいる、生徒の視線を集めている。
テーブルには、飲み物も、用意されていた。
だが、それにも、手もつけず、応援に力を注いでいたのだった。
(競技ばかりに夢中で、周りを見ていない)
すっかり、隣にいるアレスの存在など、消えているようだ。
見向きもしない態度が、気に入らない。
そして、自分の存在が、頭の片隅にもないと言うことが、アレスの矜持を触れていたのだった。
(僕を、見て貰うぞ)
密かに、意識のすべてを、自分へ、向けさせようと、抱く。
正面を向いていた顔と、身体を、隣にいるリーシャに傾けていた。
これまでのアレスの行動からは、なかったものだ。
そうまでしても、こちら側に、向かせたかった。
他の人が、大勢いる前で、王族の対面を崩してまでも、語りかけていったのである。
「王族の人間だってこと、忘れていないか?」
「んっ?」
競技も進めば、生徒たちの興味も、段々と、薄れていくようで、ほとんどの生徒たちの視線が、グランドに注がれていた。
別なテントにいる貴賓席も、競技よりも、自分たちの話に熱心で、すっかり、こちらに関心がなくなっていたのだ。
珍しく、自分に、身体を向けているアレス。
リーシャが、目を見張っている。
「……」
目立つように、席を作られていた自分たちに、注目する生徒が少なくない。
「な、何か、言った?」
衝撃で、たどたどしかった。
声援に、夢中になり過ぎ、アレスが、何を言ってきたのか、よく聞き取れなかったのだ。
「自分の立場を、忘れていないかと、聞いた」
ろくに、自分の話を、聞こえていないのかと呆れていた。
「立場?」
鮮やかな、翡翠の瞳。
ようやく、自分が映っていることに、やや曇っていたものが、晴れていく。
(これでいい。僕は、夫なんだぞ)
「王太子妃なんだ。いくら知り合いか、どうか、知らないが、一方に、肩入れするのは、よくない。口を閉ざし、拍手を送っているだけにしろ」
品格に、欠けると、窘める言葉。
リーシャの心を、グシャリと、一瞬、掠めていった。
周囲から、漏れ聞こえる声や、叱られる声が、幻聴となり、頭や胸に、鳴り響くのだった。
対照的に、不愉快な感じが、解消されつつあるアレス。
僅かに、顔に影を差したことに、気づかない。
「……学校だよ」
漆黒の闇に覆われ、行き場をなくすような錯覚に、囚われている。
アレスでもない、友達でもない、別なところへ、すべての意識が、注ぎ込まれていた。
そこは、何もない、ただ、暗いだけの空間だ。
何度も、夢で見ていた場所だった。
助けを求めようとしても、声が出ない。
ただ、怯えているだけだ。
恐怖で、その場にしゃがむ。
現実なのか、夢なのかも、わからない。
いつもそうだ。
ただ、何かに、ずるずると、引き込まれそうで、怖くて、怯えているだけ。
そこは、ただ、真っ暗なだけの、何もない、空間なはずなのに。
しっかりと、自分の両腕で、身体を抱きしめている。
震えるリーシャ。
救ったのは、頭上から、声が降り注いだからだ。
「学校でもだ」
不機嫌な相手に、現実に引き戻され、なぜか、ホッとしている。
声を、かけられなければ、自分は、どうなっていたのだろうと、思い至っていた。
それほどまで、暗闇が、リアルに、襲い掛かってくる感覚だったのだ。
強張っていた、リーシャの姿。
不信な眼差しを、アレスが傾けている。
けとられないように、震えていた身体を立て直した。
「そんな……、少しぐらい、いいじゃない」
さっきまでの恐怖を、悟られたくないため、口角を上げながら、不満を吐き出した。
何もない、黒い空間にいる夢を、近頃、見るようになっていたのだ。
その夢から、覚めた際、いつも身体が震え、目覚めたことに、安堵していた。
それほどまで、恐ろしい夢だった。
何かに、追い回れるではなく、怖いものが、襲ってくる訳ではない。
ただ、何もない、黒い空間に閉じ込められ、何者かに、引きずり込まれるような感覚を味わうだけだった。
それだけなのに、怖くて、いつも怯え、助けを、求めていたのだった。
「おとなしくしていろ」
つまらないと、口を尖らせる。
いつものように、アレスが、冷たく畳み掛けてきた。
だが、今は、その冷たい態度でも、ほのかに、冷え切った身体が温まっていく。
「ここで、静かにしていろ」
小さな反抗で、返事も返せない。
(何なんだ、王太子に対して、この態度は)
けれど、黙って、座っている光景に、満足の顔を浮かべた。
突然に、立ち上がるリーシャ。
「何だ」
ムクッと、立ち上がったので、アレスが訝しげる。
「座っているだけでは、物足りない。せっかくの、クラス対抗戦、楽しまなくっちゃ」
目映いぐらいに、リーシャが、微笑んでみせる。
咄嗟に、返す言葉が出ない。
ほんの数十秒、見惚れていたのだった。
「……出るのか?」
「勿論」
純粋な笑顔で、答えた。
エントリーしている種目を、耳にしていた。
けれど、王族サイドが、それを了承するとは、思えず、ただ、聞き流していた。
出る気満々の姿に、ノーと言うサインが、出なかったことに、どういうことなんだと、深い思考の渦の中へと、潜り込んでいった。
(なぜ、競技に、出ることを許した? こんな視界の広いところで、何かあったら、どういうことになるのか、わかっているはずなのに……)
警護と、警備上の問題で、王族が、こうした行事に、参加すること自体、なかったのである。
だから、幼い頃より、アレスは、こうした学校の行事に、参加したことがない。
そうした訳で、エントリーしていると聞いていたが、まさか、実際に、出るとは思っていなかった。
侍女や、ウィリアム辺りが、止めさせているのだろうと、高をくくっていたのだ。
「出ることに、何も、言われなかったのか?」
「別に。なんかあるの?」
逆に、質問され、そっけなく、何でもないと返した。
(どういうことなのだ?)
内心では、首を傾げるしかない。
それほどまで、王室の対応が、いつもと違っていたのだ。
「変な、アレス」
「……」
何の問題もなく、パスされたことに、納得できない。
離れた位置から、狙撃される可能性もあるし、王族の人間が、競技に、参加している映像が流れる事態、前代未聞だと、考えを募らせている。
こうも、あっさりと、許される自体に、祖父であるシュトラー王が、絡んでいると、思考が水面へと沈んでいった。
(あの人の、鶴の一声だろうな)
アメスタリア国の国王である、シュトラー王に、逆らえる者など、誰一人としていない。
それほどまで、国王、いや、シュトラー王の力が、勝っていたのである。
(面白くないな……)
シュトラー王の意図することで、周囲、特に、自分たちが、面倒をかけさせられる可能性が、捨てきれなかった。
なんといっても、リーシャと、結婚することになったのも、急に、リーシャを拉致してきて、自分たちを、合わせたと同時に、結婚させることを告げたのだった。
「じゃ、行ってくるね」
面倒なことが、起きなければいいがと、案じている間に、エントリーしている競技が、行われる集合場所へと、リーシャが歩いていった。
その後に、数人のボディーガードの人間が、ついていく。
ボディーガードを、引き連れて歩いているリーシャ。
夢に見た感覚と、似た感覚を受けたことに、人知れず、動揺していたのだった。
いやな感じから、引き戻されたが、どうして夢も、見ていないのに、感じたのだろうかと、密かに焦っていたのだ。
(寝ていないのに、あの闇に、吸い込まれるような、いやな感じが、したんだろう?)
首を捻っても、答えが出てこない。
夢で、見る闇に、閉じ込められ、挙句、何者かに、引き込まれそうになり、その暗闇に溶け込みそうとなる、一歩手前で、目覚めるのだった。
(身体が、気だるいな……)
ふと、競技に、参加するのが、億劫になっていく。
だが、面倒なことを忘れ、スカッとしたい気分の方が、上回っていた。
「とにかく、頑張ろう」
ボディーガードが、背後に控えているのも、抜け落ちているようで、一人で、気合いを込め、右腕を突き上げている。
ボディーガードたちは、意味不明なリーシャの行動に、見て見ぬ振りを通していたのだった。
周りの生徒たちと、溶け込んで、陽気にはしゃいでいるリーシャの姿を、アレスは、ひたすらに、眺め続けていたのだ。
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