第16話 真夜中の探検
一日予定していたすべての講義も終わり、月明かりが輝く夜中の時間を過ぎていた。普通に家にいた頃のリーシャだったら、すでにベッドの中でスヤスヤと眠っている時間帯だ。
ベッドにすぐにもぐらない癖がつき始めていた。
長い息を吐く。
宮殿に連れて来られた日から、日に日に眠る時間帯が遅くなっていった。
講義が押したりして眠りたいのになかなか眠らせてくれないこともあったが、日にちが増すごとに眠るのが怖くて、眠る時間帯が段々と短くなっていったのが現状である。
「今頃、ベッドの中だったのに……」
窓のヘリに頭と身体を凭れ、くっきりと輝く上弦の月を何となく見つめる。
たった数日前の自分の姿を思い浮かべていた。
その姿は気持ちよくぐっすりと眠っている。
「月って、こんなに綺麗なんだ。知らなかったな、こうして起きているのも悪くないかもしれない」
リーシャは苦笑した。
講義も終わり暗記するものも憶え、ベッドの中へ入れば、すぐにでも眠気が襲ってくることはわかっていたが、どうしても眠る気分になれない。
単純に怖いのだ。
なぜ怖いか、わからない。
深いため息だけが漏れる。
不安の渦が心の中を吹き荒らしていた。
特に一人になった時や挙式が近づくように感じる夜に心細くなっている。
これが全部幻だったらいいのに何て思う日が何度もあったのだ。
「一人はいやだな……」
綺麗で整頓されている広い部屋を眺める。
(ダメだ! 決めたはずじゃない。結婚するって)
拳を作って、気合いを入れ直す。
「こんなところで落ち込んで、どうする? 探検に行こう! まだ一人じゃ歩けないし。ホント、何で宮殿って、こんなに広いのよ、これじゃ迷子になっちゃうじゃない。……でも、面白いかも、当分は飽きないかもしれない。さぁ、出発!」
そっと扉を開き、顔だけ出す。
人の気配が感じないと確かめ、ゆっくりと部屋から廊下に出た。廊下には誰も控えていなかった。結婚を了承したリーシャが部屋から逃げ出したり、まさか探検と称して夜中に歩き回ろうとしているとは、誰も予測していなかったのである。
思わず、満面の笑みで指を鳴らす。
「チャンス」
昼間以上に閑散としている廊下を左右に首を動かして、どっちに行くか決めようと見比べる。
「右に行くべきか、それとも左か……、左ね」
左と決めた理由に、まだ行ったことのない方向だった。
未知の発見をしようと、心が急上昇に高鳴る。
「どこへ行くのかな」
ずんずんと足を進めていく。
廊下が左右に分かれていると、その場のノリで安易に決めていった。
好奇心な足を進めながら、部屋や調度品を見つけては中へ入ってみたり、触ったりして小さな冒険を楽しんでいた。
「そろそろ戻ろうかな」
帰ろうと振り向いた瞬間、脳裏にどっちから来たのか、疑問が生じる。
安易に左右を決めていただけで、帰り道のことをすっかり忘れて歩いていた。
帰り道がわからなくなり、その場に立ち尽くし途方に暮れてしまう。
「部屋はどこ?」
誰かに聞こうと思っても、誰一人、人の気配を感じない。
静寂の闇が広がる。
「誰もいないの?」
探検を始めて前半までは数人とすれ違っていたが、後半からは誰とも会っていないことに気づく。
(えっ、まさか……、遭難? どうしよう……帰れない。絶対に王太子のやつ、バカにする。新聞の見出しに、王太子妃、宮殿で遭難って書いてあったら、どうしよう……。そうだ! スマホ)
スマホを探すが、部屋に置いてきたと思い出す。
万事休すな現状に、がっくりと首を落とすしかなかった。
「嘘でしょう。どうやって帰るのよ」
浮かれすぎて探検を楽しんでいた自分に後悔する。
「……そうよ! とにかく、進もう! 歩かなければ、帰れない」
迷いも恐怖も払いのけ、真っ暗な廊下をしっかりと見据える。
「頑張れ、リーシャ。負けるな、リーシャ。立ち止まらずに進むのよ」
自分に気合いを入れる。
闇雲に歩けば、さらに宮殿内で遭難するとは思わずに、また安易に歩き始める。
今度は部屋の中を覗き見ることもなく、調度品に触ることもなく、ただひたすら部屋に帰るためだけに歩みを進めていた。
いくら疲れを押し殺して歩いても、自分が使っている部屋に辿り着けない。
精神的、肉体的にも疲れてしまい、大きな石膏彫刻の脇に座り込んで、左肩と左側の頭を石膏彫刻に預けてしまう。
大きな石膏彫刻は冷たかった。
少しだけ気持ちよく感じる。
「疲れた。部屋は、どこにあるのよ」
しばらくその場に座り込んでいると、いきなり頭の方から声をかけられ、驚きつつも疲れた顔を上げる。
疲れ果ててしまい、人の足跡が近づいてくることに気づいていなかったのだ。
だから突然声をかけられ、身体がビクッと震わせる。
「ここで何してる?」
訝しげにアレスがリーシャを眺めていた。
アレスは自分の部屋に帰る途中だった。
「助かった……。ねぇ、私が使っている部屋まで連れて行って」
立ち上がれずにそのまま座り込んだ姿勢で、不審そうに見下ろしているアレスに話しかけた。リーシャの表情は少し疲れが見えるが歓喜に満ちている。
「お願い。連れて行って、私を」
翡翠の瞳には不審そうに見下ろしているアレスの姿が、天使のようにキラキラと輝いて映っていたのである。
でも、そんな感情は一瞬で霧散してしまう。
「なぜ?」
「……なぜって、見てわからない? 私、迷子になっちゃったのよ」
「やはり幼子と一緒だな」
何気ないアレスの一言にムカッとする。
「何ですって!」
「一人で戻るんだな。お前を部屋に連れて行く義務はない。なぜ僕が?」
「あなたにはそんな優しさのかけらもないのね。えぇ、結構よ! 私もあなたなんかに助けて貰いたくない。どうぞ、行って」
「そうか。意見が成立したと言うことだな」
「早く、行きなさいよ」
「ああ、行くさ」
不敵な笑みを零し、一度も振り返らないで行ってしまった。
アレスの後ろ姿に向かって、あっかんべーと舌をみせる。
「意地悪王太子。絶対にあなたに何か……」
頼らないと続けられなくなってしまった。
それは頬に悲しく寂しい涙が伝わっているからだ。
「あなた何かに……」
悔しさと、また一人になったと言う寂しさで、自分の感情を抑えることができずに涙がとめどなく流れ出ている。
「泣いてないもん。泣いて何か……、どうして? 止まらないのよ」
思いっきり、唇を噛み締めた。
膝を抱え込んでいたところに自分の顔を埋める。
「バカ、バカ……」
寂しさがより一層深まった。
一人になった寂しさではなく、孤独感を感じていた。
トレーニングを終え部屋に戻ってきたアレスは、すぐに寝ようとはしない。
ベランダに出て、欄干に腰を掛けた。
闇夜に神秘的な輝きを窺わせる上弦の月を見上げている。
「迷子になるか……、バカバカしい」
不意に自分が入ってきた扉を見る。
自分が手にしているスマホに視線を注ぐ。
「する必要がないな」
チラッと寂しそうな顔が浮かんでいた。
「なぜ? あいつの顔が」
侍従たちに知らせようとした自分の行動にムカつき、頭を軽く振って打ち消してしまった。
「そのうちに見つけるだろう」
残っていた仕事を片づけ、さっさとベッドに横になってしまった。
数時間の睡眠をとった後、定刻の時間に目覚める。
着替えを済ませ、トレーニングルームに向かう。
王太子になった時から、早朝にデステニーバトルのためにトレーニングするのが日課になっていた。
いつもの日課をこなすために歩いていると、侍従たちがどことなく騒がしいのに気づくが、そのまま見ない振りしてやり過ごした。面倒なことにかかわりたくなかったと言うのが一番の理由だ。
「最近、騒がしくて困る」
シュトラー王が何か騒動でも起こして、騒がしている程度だろうと思い、自分には関係ないことだと深く追求しなかった。
その騒動にこれ以上巻き込まれるのは勘弁してほしいと思っていたからだ。
侍従たちもアレスの機嫌も考え、何も報告せずに、アレスと会うたびに立ち止まり頭を下げるだけだった。
「……」
歩いていた足をアレスは止める。
目の前に数時間前に会ったままの状態で、スヤスヤと眠っているリーシャを見つけてしまったからだ。
(戻らなかったのか、何をやっている)
「こいつのせいで、騒がしいのか……」
侍従たちが騒いでいる原因がシュトラー王ではなく、部屋で眠らずこんなところで眠り込んでいるリーシャだと把握した。
「どこを捜しているんだ」
侍従たちが捜しているはずのリーシャを関係ない自分が見つけてしまい、なぜか滑稽に思い始め、自嘲気味の笑みが零れた。
さらに足を進め、リーシャの前で立ち止まる。
眠りながら泣いていたようで、涙の跡がくっきりと残っていた。
「……帰れず、泣いていたのか。こんなところで」
しばらくの間、泣き腫らしたリーシャの寝顔を見つめる。
「パパ、ママ……」
リーシャは寝言を呟いた。
「!」
渋面になっていくアレス。
(……やはり、幼子だな。両親を呼ぶ何て)
自分を見ようとしない両親の姿が脳裏に蘇っている。
「バカバカしい」
こんなところで何をしているんだと思い、トレーニングルームに向かって足を進めた。
トレーニングルームへ入った途端、その場に立ち止まる。
振り向くと、閉じられた扉を凝視していた。
持っていたスマホを開こうとする。
「……関係な……」
扉に背を向けた。
けれど、足を踏み出せずに立ち止まっている。
嘆息を吐きながら、スマホを開く。
「……トレーニングルームに水を持ってきてくれ。……今すぐだ」
スマホを切り、テーブルの上に無造作に投げ置いた。
すでに室内にある専用の冷蔵庫にストックされているにもかかわらず、アレスは侍従に水を持って来るように命令したのだった。
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