第14話 転科の話
三時間と言う短い時間での両親と弟との面会は、瞬く間に終わってしまった。面会が終わって、十分ほどの短い休憩を挟んだ後、ユマが挙式とその後の行事についての講義が始まる。
貴族の爵位を間違わないようと、淡々とした口調で注意を促す。
「はぁ……」
気の抜けたような返事をした。
文字の多いテキストに目の前は真っ暗だ。
ユマの注意事項の話を聞き、貴族の名前すら憶えられない現状に爵位云々なんて無理な話だと心の中でぼやく。
けれど、そんな愚痴を口に出さずに憶えようと腹を括り、暗記ものを憶えるのが苦手なりに気合いを入れ直して頑張ってみる。
それは隣に立っている人がとても怖いからだ。
チラッと厳しいユマを観察する。
とても理解できませんとは口が裂けても、言える状況ではない。
「……何で、貴族って人たちは、こんなに名前が長いのよ。それに言いづらいし。もっと簡単な名前にすれば……」
ふと、下げていた視線を少し斜め上に上げる。
そこには鉄仮面を被って有無を言わせない、氷のような形相があった。
リーシャの顔が少し引きつる。
微笑みを浮かべれば綺麗なのに、せっかくの美人が台無し……と脳裏に一瞬だけ浮かぶが、そんな思いはすぐさまに消え去ってしまった。
さらに氷のような形相がきつくなった気がしたからだ。
(ヤバい。機嫌、悪くなった?)
「……えー、どこまでいったかな……」
冷たい空気に素知らぬ振りを突き通そうとする。
ぎこちない愛想笑いしながら、分厚いテキストに視線を戻した。
とってつけたような棒読みのようなセリフを言う。
「そうだ。ここまでいったんだった……」
「とりあえず、王族のお方、公爵、侯爵までは憶えてください。挙式には絶対に必要な方々ですから。挙式後には伯爵、子爵、男爵の名も必要となってきますので……」
「何で、そんなに貴族の人って多いの? こんなにいたなんて……、思ってもみなかった。まさか人口の半分は貴族なのかな……そんな感じね」
後半の言葉は、リーシャの独り言だ。
「貴族の方々だけではありません。上級社会の方々も、それに中級社会の方々も憶えていただきます」
容赦ない一言に、ガクッと首が折れる。
(これ以上、憶えなきゃいけないの? 絶対に無理、無理だよ)
「リーシャ様、背筋を伸ばしてください」
射抜くような鋭い視線に、瞬時に身を引き締めた。
この視線に、今まで何度たじろいたことかと思ってしまう。
「はい……」
抑揚のない返事をした。
山のようにいくつも積み上げられているテキスト。
今後のお妃教育が憂鬱極まりない現実として圧し掛かり、気の重い嘆きを呪文のように零すばかりだ。
結婚の話を受けた時、こんなことになろうとはつゆほども思ってみなかった。
もう少し楽観的に考えていたのだった。
(簡単に引き受けてしまったかも……。でも、後戻りできないよね)
諦めの境地に入り込み、憶えなければ終わらないと、やけくそ混じりにテキストに意識を集中させる。
予定しているところまで憶えなければ、また睡眠時間が削られるだけだ。
頭の中にまったく入る気配がない。
(昔から、こういう暗記もの、苦手なのよね)
必死に憶えようと眉間にしわを寄せる姿を、鉄仮面を被ったままの形相でただ眺めていた。
テキストに没頭しているリーシャのために、香り立つ温かな紅茶を注ぎ淹れる。
しばらくして、アレスが勉強中のリーシャの部屋へ入ってくる。
無表情なアレスを見定めると、講義を途中でやめてしまい、ユマは一礼してから部屋から退室していった。
講義が潰れて嬉しいし、会いに来てくれたことも嬉しかったが、会うたびにケンカしていたので、素直に嬉しいと表現することが難しかった。
血走っている目を見た瞬間、鼻先でアレスは軽く笑う。
嬉しい気分は綺麗さっぱりと吹き飛んだ。
(何でこんなやつのために、講義が中断するのよ!)
小バカにする態度が許せない。
まだ軽く笑っているアレスを睨め返した。
自分がイメージする王子様像と、相反する言動に理解できずに苦しむ。
ケンカの対象でしかないアレスを無視し、視線をテキストに向き直した。
そんなリーシャの態度に気にする様子もない。
無表情に戻ったアレスは物思いに耽っているリーシャに近づき、テキストの進み具合を確認する。
まったく進んでいない状況に、冷たい双眸を降り注いだ。
「まだ、ここまでか?」
「いけない?」
あからさまにバカにする態度に、むかむかせずには入られない。
私だって一生懸命憶えようと頑張っているのに、どうしても頭の中に入らないのよと心の中で呟く。
「憶えが悪いとみえるな。小型の無線機で指示した方が早いんじゃないのか」
「悪かったわね」
ふと、何度も瞬きを繰り返すリーシャ。
「……それいいかも! そうよ、そうすれば、こんなに憶えなくってもいいんじゃない。凄いアイデアよ」
怒っていた顔から一転し、嬉しそうに喜びはしゃぐ姿に呆れながらも面白いやつだと感じる。
「それでは僕が、お前が困るところが見られないじゃないか。面白そうなのに。だから、そのアイデアは却下だな。甘えずに憶えろ。後々必要不可欠になってくる。いつまでもそんな真似しても憶えられないから、諦めろ」
不愉快な言葉に、これ以上は尖らないとばかりに口を尖らせた。
アレスは微かな笑みをみせる。
「面白い」
「何よ!」
「顔だ。お前の顔、実に面白い顔をする。初めて見た。こんなにコロコロと変わる顔なんて。次はどんな顔だ。早く、見せてみろ」
(バカにして)
口を堅く結んで睨む。
どこ吹く風のアレスは部屋を訪ねた理由を話した。
「そうだ。美術科から転科する」
「はぁ?」
「特進科だ」
「どういうこと? 何で私が特進クラスに行くのよ」
「夫婦が別のクラスと言うのもおかしいだろう? それにだ。僕のパートナーになるんだ。その訓練だってある。幼い頃からやっている僕たちとは違い、お前はまったくの素人だ。理解しているのか? その点を、そのにぶい頭で考えてみろ」
唇はワナワナと怒りに震えている。
目は完全に据わっていた。
なぜ怒っているのか、理解できないと言う顔で捉えていたのだ。
「意味は理解した! けど、納得いかない。私の居場所よ。友達だっているのよ」
「……関係ない。学校に行く時は、すでに特進クラスだ」
「いやよ。絶対に特進には行かない! 私はみんなと一緒に美術科よ。誰に何て言われようが、絶対にそこだけは譲れない!」
「無理だ」
「いや」
「無理だ」
冷たくあしらう。
自分に抵抗するリーシャに徐々に苛立ちを感じていった。
周囲にいる人間で、ここまで自分に逆らう人間はいなかった。
「私は美術科!」
ここで怯んで自分から折れる訳にはいかない。
「絶対に美術科! 私は特進科にはいかない。どんなことになろうとも」
萎みそうな心を奮起し、リーシャは大声で叫んだ。
「陛下が決めた決定事項だ。覆ることはない。特進科だ」
アレスは内心ムカつきつつも、嘲りが含んだ笑みを浮かべる。
こんな状況の中で笑うアレスのことが、まったくわからず憤慨していた。
「いやよ。決まっているじゃない」
このままでは埒が明かないと思い、アレスを通り越して部屋を出て行った。
出て行ったと思ったら、あっという間に戻ってくる。
「陛下は、今どこ?」
「直訴するつもりか?」
「そうよ。いけない? で、どこ? どこにいるのよ、陛下は?」
「今の時間帯なら、評議会だろう。出ると聞いたからな」
「だから、どこよ、それは?」
「紅月の間だ」
「ありがとう」
場所を尋ね、そのまま部屋を出て行ってしまう。
憤慨そのままの足取りで長い廊下を歩いていった。
部屋に一人残っているアレスは、バカなやつと飛び出していった扉を凝視している。
「会うつもりか、面会の許可もなしに。それにわかっているのか? 紅月の間が、どこにあるのか、……面白そうなものが見られそうだ」
不敵な笑みを零した。
宮殿の間取りを憶えていないリーシャ。
別の宮殿にある紅月の間を目指して歩いていた。
紅月の間がどこにあるかわからないことに気づき、人伝えに聞きながらまっしぐらに、そして、少しずつ自分と紅月の間までの距離を縮めていく。
宮殿内の者たちはリーシャの形相に慄いて、紅月の間は?と言う質問に素直に答えてしまう。
誰一人として、止める者がいない。
ようやく、紅月の間の扉の前に立つ。
普通に来る時間より三倍の時間が掛かっていた。
リーシャの鼻息が荒い。
扉の前に立つ男二人は突然のリーシャの登場に驚き、目を丸くし、血走っている姿を眺めているだけだ。
「陛下は?」
「こちらに」
今までなかったシチュエーションに驚くあまりに、止めなければいけない立場の二人が素直に問いかけに答えてしまったのである。
それも自らの手で紅月の間を指していた。
「ありがとう」
鼻息の荒いまま、重厚な扉を開ける。
そこでようやく男二人は気づき、止めようとするが、時はすでに遅かった。
扉を開き、一歩足を踏み込んでいたのだ。
「陛下。話があります!」
リーシャの視界に何人もの姿が飛び込んでくる。
(何? この人たち)
紅月の間で、張りつめている空気を身体全体に受ける。
紅月の間で評議会が開かれていた。陛下を始めとして、貴族たちがいっせいに唐突に部屋に入ってきた怒りを露わにしているリーシャに視線を注ぐ。
一気に燃え上がっていた頭が冷えていって、状況が限りなく悪いことを把握した。
「……」
後先を考えずに無鉄砲な自分の性格を後悔する。
「あの……」
どう話せばいいのか、言葉が詰まってしまった。
「どうした、リーシャ?」
初めは突然の来訪に驚いたものの、シュトラー王は顔を和ませ労わるように、ソワソワと落ち着きを失い始めたリーシャに声をかけた。
「話が……、後でいいです。ごめんなさい」
ピリピリする、それぞれの双眸に、居た堪れなくなり、退散しようとする。
紅月の間にいるほとんどの人たちが、好意的な眼差しで自分を見ていないことを瞬時に感じ取ったからだ。
「構わん。話を聞こう」
「陛下。今は大事な話をしている最中です」
これが妃殿下になる方か、まったく礼儀もできない娘だと、リーシャの耳にも中傷する声がはっきりと届いていた。自分が勝手に来てしまったのだからしょうがないと、自分が悪かったと諦めることもできたが、両親のことまでバカにするような中傷する言葉に激しく心を痛める。
「礼儀をわきまえてください」
「……ごめんなさい……」
「黙れ! 私はそなたたちのくだらない話を聞くより、可愛いリーシャの話を聞きたい。そなたたちの話はあまりに稚拙でつまらなきものばかりだ。私がリーシャと話している間に用件をまとめておけ」
迫力ある声で、貴族たちを瞬く間に一蹴させる。
「……」
リーシャは目を丸くして、シュトラー王を凝視していた。
「あの……、後でいいです。本当に大丈夫ですから」
「大丈夫だ、リーシャ。私に話しなさい。話したいことがあるのだろう? 私はリーシャと話すことが何よりなのだからな」
貴族たちに向ける視線と、自分に向ける視線が違うことに驚かされる。
初めて見るシュトラー王の形相に、退きたい気持ちをかろうじて押し止めていた。
「リーシャに、椅子を」
背後に控えていた秘書官に命じた。
秘書官は椅子を用意し、どうぞとまだ戸惑いが消えないリーシャに頭を下げた。
後に引けなくなり、秘書官にありがとうございますと言って腰掛ける。
「話とは?」
人を威圧するような双眸から、まったく逆の優しく包み込むような双眸に貴族たちは誰しもが舌を巻き、激高型のシュトラー王をここまで変える少女とはどんなものかと貴族たちはリーシャ一点に視線を集中させていた。
「私、美術科がいいです。だから……変わりたくないです」
「?……、話が見えんな。どういうことだ?」
「私が美術科のクラスから、特進科のクラスに移るって話です」
移りたくなかったので必死に話した。
「その話か。パイロットとして勉強しないと、だから、クラスを変える必要がある。これは決定事項だ」
「それはわかります。でも私、友達と離れたくないです。絶対に、私にとって大切な、大事な大事なかけがえのない友達なんです。それにデザインの勉強だってしたいし……。私、パイロットの勉強頑張ります。だから、クラスを変えるのは絶対にいやです。陛下、お願いします」
まっすぐに透き通るような翡翠の瞳をシュトラー王は注視していた。
リーシャの瞳はクロスのまっすぐで強さを思い出させる瞳を思い起こさせる。
「デザインの勉強が好きなのか?」
「はい」
「友達が大事か?」
「はい。私にとって友達は宝物です」
「わかった。そのまま美術科のクラスのままでよい」
「本当ですか」
両手を合わせ、満面の笑みでリーシャが答えた。
「勿論だ。ただし、週何回かは、特進科の授業を受けて貰う。よいか」
「はい。私、頑張ります」
「ところで、リーシャ。好きなものはないか?」
質問の意図がわからずに首を傾げる。
答えを期待している双眸に、戸惑いが隠せない。
「何でもいい。好きなものはないか?」
「好きなものですか……。うーん」
「最近、ほしかったものは?」
「洋服……かな? 今度、友達と見に行こうかと」
「洋服か。わかった。で、他には?」
唐突に好きなものはないかと聞かれ、困惑を隠せないまま考える。けれど、いろいろなことが起こり過ぎて思い浮かばない。
困り果てて、首を捻った。
シュトラー王に尋ねられたのだから、ちゃんと答えなければと思えば思うほど、頭の中が複雑に入り組んで好きなものがなかなか出てこない。
「色は? 好きな色だ」
「色ですか。全部好きです」
「嫌いな色はないのか?」
「はい。みんな好きです。淡い感じのパステル系も好きだし、はっきりとした色合いも好きです。色って、それぞれに個性があって嫌いな色何て、ないです」
何でこんな質問をするのか、把握できないままに素直に答えていった。
「好きな食べ物は?」
「何でもよく食べます」
「嫌いなものは?」
「これと言ってないです」
「そうか。何でもよく食べるのだな。好きなアクセサリーは、どうだ?」
シュトラー王の質問攻めは三十分も続いた。
多彩な質問に対して、たどたどしいながらも一生懸命に答えていった。
その様子を扉の入口で寄りかかりながら、ひっそりとアレスは窺っていたのである。
リーシャが玉砕するところを見ようとしていたが、予想は外れ、リーシャの意見が通り、とても不愉快な気分を味わっていた。
「……」
読んでいただき、ありがとうございます。