第12話 評議会
シュトラー王から緊急議題で招集を受けた貴族院たちは、宮殿にある貴族院が集い、評議会を開く大広間の紅月の間に集まっている。そして、今か今かと国王が到着するのを貴族院の面々は首を長くして待っていた。
出席している貴族たちの表情は硬い。
室内はひんやりと冷たかった。
普段の定例の評議会にシュトラー王が出席することが少ない。実際問題出席することにはなっていたが、最近では年一回顔を出せばいい程のレベルだった。それが急に招集が掛かり、貴族院の代表の貴族たちは、何事かとそれぞれに噂話に花を咲かせていたのである。
上院議員で構成されている上院議会に出席していたシュトラー王は、紅月の間へと向かい足を進めていた。
その背後にはソーマとシュトラー王の秘書官数名とボディーガードの男たちがぞろぞろと連なっていた。
評議会の前にシュトラー王は上院議会へ出席し、すでに緊急議題の了承を取り付けていた。最後に残すは一癖も二癖もある評議会だけとなっていたのである。
アメスタリア国の議会は二つあった。一つは国民から選出される上院議員たちが集う上院議会と、貴族たちの代表である貴族院が集う評議会がある。基本的には、上院議員で構成されている上院議会で政治などの一般のことが行われる。上院議会で上がったものを貴族院が承認して初めてそれらの議題が最終決定される。めったなことでは上院議会で決まった議題などには否と唱えないが、評議会が否と唱えれば、評議会の方が格が上なので議題は戻されて再度検討し直すか、却下されて白紙となる仕組みとなっていた。
それほど評議会の方が力を持っているのである。
王太子の結婚問題が緊急議題として上院議会に提出された。
予測の範疇内の反対の声が上がったものの、珍しく国王の出席であっという間に了承される。昔だったら、シュトラー王の鶴の一声で何でも決まっていた。それがここ最近はあまり議会などに出席することも少なく、口を挟むことはしなかった。
ここ数年は静観する立場を取っていたのだ。
「まずまずと言うところか」
颯爽と軽い足取りで、シュトラー王が呟いた。
真後ろで聞いていたソーマは賛同する。
足取りも軽いとあって、いつもよりも歩調が速かった。
その歩調に合わせるように、ソーマたちがついていった。
「範疇内の声だけで、よろしかったです。ただ、問題は紅月の間です」
この先に待ち構えている海千山千の貴族院のメンバーの顔を思い浮かべた。
小さな嵐があるかも知れぬとソーマは苦笑する。
「わかっている。全員出席か?」
「はい。珍しく全員出席でございます。ご覚悟を」
シュトラー王が上院議会で発言していた際に、ソーマの元に報告が届いていたのである。
「老いぼれどもは、来なくてもよかったものを」
忌々しいと毒を吐いた。
「古狸は何を考えているのかわかりません。ですが、新参者も多くおりますゆえ、お気をつけてください」
ソーマに進言で、馴染み深い顔の貴族院のメンバー二人を思い浮かべる。
「わかっている。まずは新参者たちだな」
二人が話している間に、評議会を開くのを待ち構えている紅月の間の前に到着していた。ドアの前で立ち止まると、ドアの前で立っていた男たちは声を揃えて到着した旨を中に知らせた。
ゆっくりと、金色の輝く豪華なドアが開かれる。
紅月の間へ、ソーマたちを伴って中へ入っていった。
大理石で作られた長テーブルに、貴族の代表である貴族院がずらりと勢揃いしていた。
貴族院のメンバーは立ち上がって、重厚なドアに視線を巡らせる。
シュトラー王が部屋へ入ってくるのを待ち構えていた。
貴族院のメンバーは総勢二十四人で、年齢層はバラバラで、上は八十を超えたご老体や下はまだ二十代の若造である。
紅月の間には副司令官フェルサこと、ラズミエール子爵の姿もあった。
フェルサも貴族院のメンバーの一人で、総司令官ソーマも貴族院のメンバーの一人であるが軍の仕事が忙しく、評議会には弟をいつも代理で出席させていたのである。
シュトラー王の後に入ってきた黒の軍服を纏っているソーマは、年の離れた弟クラーツの姿を黒い双眸で捜す。
クラーツは兄であるソーマに同じ黒の双眸を走らせた。
その黒の双眸は、何も知らされていないことに対する憤りと、今度は何事だと言う諦観が込められていた。それとただでは済まない感じの問題に、少しぐらいは話しておいてほしいと言う願望も含まれていたのである。
睨まれているソーマは苦笑するのみだ。
「……」
それに対してクラーツは笑って誤魔化すなとソーマに向かって心の中で突っ込む。
シュトラー王は椅子の前へ立つ。
貴族院のメンバーを一通り見据えてから着席した。
室内ではボディーガードの役目も担っているソーマは着席せず、国王の背後にそのまま控える。
着席したのを見定めてから、それぞれの貴族院たちはいっせいに座り始めた。
「陛下。急な召集で驚きました。緊急議題とは何事ですか? ラズミエール子爵に窺っても、何もお答えくださらないので、私たちは困惑するばかりでした」
貴族院の中堅であるエクセルアムール子爵が最初に言葉を述べた。
視線の先には黙ったまま、前を見据えているだけのラズミエール子爵と呼ばれたフェルサの姿があった。
無口なフェルサに視線をチラッと巡らせ、エクセルアムール子爵は溜息を吐く。
エクセルアムール子爵はソーマたちと年齢が変わらず、中堅の立場でありながらも海千山千の貴族院のメンバーを仕切っていたのである。
古株のメンバーもめったに出席せず、中堅や新人に任せっきりだった。
珍しく顔を出した一癖も二癖もある古株のメンバーたちが、何も話そうとはしない雰囲気に、エクセルアムール子爵がここは自分が仕切るしかないといきなり招集をかけた国王に問い質したのだ。
「驚かせてすまなかった。ところで、私も珍しく出席したが、まさかカークランド侯爵やハーデンベルギア侯爵まで来るとは思ってもみなかった」
両サイドに座って興味なさげにしている二人を、面白いものを見るような視線で交互に見比べる。見られている張本人たちは至って平然としていた。
挑発する言葉に、背後に控えているソーマは頭を抱え込みたくなった。
注意を促したはずなのに、古狸どもを突っつき始めたからだ。
「暇つぶしです。陛下」
「この年になると、なかなか面白いものがないもので。そんな時に陛下の招集が掛かったと聞きましたのでな」
「そうか」
この三人の会話に入っていく勇気がある貴族たちは誰一人いない。
仕切っていたエクセルアムール子爵まで口を噤んでしまった。
それほど三人の圧がすごかったのである。
「何年振りかのー。二人にこうして会うのは?」
「忘れましたな」
「たぶん相当前になりますかな。カークランド侯爵?」
「そうでしたかな、ハーデンベルギア侯爵」
「お。思い出したぞ。かれこれ四年だ、カークランド侯爵、ハーデンベルギア侯爵」
「そんなになりますか。四年とは長いものですな」
カークランド侯爵やハーデンベルギア侯爵はそれぞれに答えた。
二人はシュトラー王よりも年上で、八十を超えるご老体で貴族院のメンバーの中でも一番の古株の二人だ。
「まだ、生きていたんだな。しぶといな」
「はい。長生きなようで。の、ハーデンベルギア侯爵」
「そのようだ。陛下も長生きしそうで、何よりと存じ上げる」
「二人には適わんよ」
頭を抱え込みたいソーマは後ろで嘆息する。
話の筋道がずれてきたことに気づき、シュトラー王は話の筋道を本筋に戻す。
「……議題だが。王太子アレスの結婚話だ。リーシャ・ソフィーズ嬢と結婚が決まったので、ここで報告する」
何食わぬ顔で話した。
「……」
貴族院のほとんどの貴族たちは、呆気に取られた表情を浮かべる。まったくそのような結婚話など、宮殿内や社交場、サロンなどで出ていなかったからである。
「了承を取りたい。賛成の者は挙手を」
淡々と進めようとする国王に、待ったをかけたのはエクセルアムール子爵だった。古株の貴族たちが止めに入るかと様子を窺っていたが、いっこうに諫める気配がなかったのを感じ、焦りを憶え始め、止めに入ったのが現状だ。
自分の娘や孫娘を、王太子の元へ嫁がせようと躍起になっている貴族が多く存在していた。貴族院の中にも、そういう思惑を抱いている人間がいたのである。
「ま、待ってください。陛下」
「何だ」
「唐突すぎませんか? そんな話、一度も聞きませんが?」
「だから、今話しているではないか」
「このお話は慎重にしませんと……」
古株のメンバーや、昔のシュトラー王を知っている貴族たちは顔色変えずに、ことの成り行きを押し黙って傍観している。
顔色を変えていたのは、中堅や新人ばかりの貴族だけだ。
「王太子アレスには許嫁がいた。この度、その娘と結婚させる。一緒にさせるのは、当に決まっておった。ただそれだけの話だ」
「ど、どちらの娘ですか?」
「民間の娘だ」
「貴族ではないのですか! それは……」
「今時、貴族も民間もあるまい。他の国を見ろ」
「ですが……陛下、王太子妃には知性、品格、教養などが……」
「くだらん」
段々と不機嫌になっていくシュトラー王に一蹴されても、エクセルアムール子爵も王太子の結婚話を引くことができない。それほど王太子の結婚話は重要だと考えていたのである。王太子妃の実家の権力が増して、今後に何らかの影響を王室にもたらすのは目に見えてわかっていたからだ。
「王族方はいずれも貴族、または王族同士で結婚なさっております。それを……いきなり民間の娘とは。到底納得はできません」
「そう言うなら、リーシャは貴族の血筋は引いている。こう言えば、わかるはずだ、クロスの孫娘だ」
「……」
面倒臭いと言う顔を露わにする。
貴族院の半分、特に新人の貴族院たちはクロスの名前を聞いても、わかる貴族たちがいない。中堅やクロスの話を聞いたことがある貴族たちはいっせいに顔色を変えた。
古株の貴族たちはうっすらと口角が上がっている。
「クロスの孫娘だ。その子を我が孫と結婚させ、何が悪いのだ。さっきも言ったが、話は当の昔に決まっていた。クロスの孫娘とアレスを結婚させる。早く決を」
「で、ですが、陛下。貴族の名を捨てたはず……」
「血筋にこだわったのはそちたちだぞ。確かに貴族の名は捨てた。けど、孫娘にはちゃんと貴族の血筋が流れているぞ。これで問題はあるまい」
困惑を隠し切れないステルンベルギア子爵が、クロスの名前を聞いて話せなくなったエクセルアムール子爵に成り代わり話し始めた。
ステルンベルギア子爵は自分の末の娘を王太子と結婚させようとしていた貴族の一人だ。ステルンベルギア子爵は噂話でしかクロスの話を知らない。
シュトラー王がハーツパイロット時代にパートナーだったことと、突然に貴族の身分を捨てて姿を消したと言うことしか知らなかった。そして、新参者の貴族たちはクロスの名すら知る者はいなかった。
「私は反対します」
反対の異を唱えたのは、ルザリス男爵だった。
それに次いで次々と反対していく者が増えていった。
その大半が中堅の一部と新参者の貴族ばかりである。
古株の貴族たちは誰一人として、反対を唱えず、ずっと口を閉ざしたままだ。
「私が決めたことに反対するのか」
静かな口調でシュトラー王が反対した者たちの顔を眺めた。
「私が法律だ!」
「……」
気迫のある形相に貴族たちは恫喝される。
それぞれに素知らぬ顔をする者、唇をワナワナと振るわせる者、眠れる獅子を起こしたかと思う者、委縮している者様々な表情を浮かべていた。
「話が突然すぎます。いずれは王妃様になられるお方です、ここは慎重に話を進めませんといけないかと存じ上げます」
ルザリス男爵は怯むことなく、言葉を繰り出した。
反対していた者を眺めていた国王は、近くに座っている古株のカークランド侯爵とハーデンベルギア侯爵に視線を注ぐ。
「異を唱えるか?」
「いや」
「好きになされば、よろしかろう」
「賛成と言うことだな」
シュトラー王は満足の笑みを零す。
静観していると言うより、この状況に二人が楽しんでいると言った方が近かった。
反対はするまいと言う考えは、シュトラー王の中にあったが、確認の意味を込めて言葉にしただけだった。
「賛成の者は挙手を」
国王の言葉を受けて、次々と手が上がっていった。
その数は十五人だ。反対したのはオブリザツム伯爵、セルフィーユ伯爵、ステルンベルギア子爵、ジョンクラベル子爵、ダンペール子爵、ルザリス男爵、グラハム男爵、ミルトニア男爵アイスバーグ男爵の九人だった。
「賛成多数で決まりだ」
「認められません。私たちはまだその娘のことは知らないのです。それにクロスと言う人物についても。本当に貴族の名を捨てたのですか? もしかしたら剥奪されたとか? とにかく信じられない、何かあったのではないですか……」
シュトラー王の顔つきが変わる。
恐ろしい形相で、何も知らないルザリス男爵を睨めつけていた。
久しぶりに見る形相に、古株の一部の貴族たちは震え上がる。
それに驚いたルザリス男爵は、クロスを非難しようとした言葉をグッと飲み込んだ。
カークランド侯爵は白けた眼差しで、口の軽いルザリス男爵を何気なく見る。
(無知とは悲しいものだ)
「ルザリス男爵。その辺にしないと、大変なことが起こるぞ」
カークランド侯爵が注意を促した。
これ以上、評議会を長引かせるのは老体の身体では辛かったし、シュトラー王の怒りに触れるのも面倒臭いと考えたからだ。
カークランド侯爵は氷山のような薄いブルーの目を動かし、一瞬で刃のような鋭い視線で何か言いたげなルザリス男爵を委縮させてしまう。
口を噤んだルザリス男爵を見定めると、いつも何を考えているかわからない飄々とした表情へ戻っていく。
貴族院のメンバーを見渡し、カークランド侯爵はある人物のところで視線が止めた。
それはソーマの弟クラーツだ。
カークランド侯爵から指名を受けて、クラーツの頬が引きつる。
「説明、よろしくな」
説明を頼まれたクラーツは嘆息した。
「何で私が……」
極々小さな声で呟いた。
クラーツ自身、いやな感じを嗅ぎ取っていた。
兄のソーマとは年が離れていて、まだ四十代半ばの年齢だ。そして、ソーマと同じように黒髪に黒い双眸で顔も似ている。
チラッと機嫌の悪い国王の背後に控えているソーマに視線を向けてから、クロスのことを知らない者たちへ説明を嫌々ながらも始める。
「クロス・ソフィーズ殿は、メイ=アシュランス子爵家の元当主でした。メイ=アシュランス子爵家は歴史も古く、代々優秀な軍人が排出されているのは、ご存知かと思います。貴族の家名と言う点では、まったく問題はないかと。そして、ハーツパイロットをなさっていた陛下のパートナーだった人です。それに、陛下の親友でございます。聞いたことはありませんか? 黄金コンビの話を……」
クラーツはひと呼吸置いて、貴族たちの顔を窺う。
(狸爺め、面倒な説明を押し付けて。それに元々は兄の役目のはず。なぜ、このようなところへ来て、面倒にかかわらないといけないんだ)
自分の不幸を呪い、もう一度代わってくれとばかりに、ホッとしている兄に視線を傾ける。しかし、知らん顔で説明に耳を済ませているだけだ。
(おい。無視するな)
それぞれ思い出したようで、少し聞いたことがあるとざわつく。
「お二人は最高のパートナーでした。これ以上のパートナーはいないと言われた程でした。デステニーバトルでの準優勝、その甲斐があり、世界連合での私たちの立場ができ上がったのですから。本当に優秀なお方です。けれど、間もなくしてクロス殿は引退し、貴族の名を捨て、俗世で生きることを決められましたが……」
「親友の孫娘だからと言うのは、いかがなものかと思いますが?」
説明の途中で、まだ納得できないルザリス男爵が口を挟んだ。
「ルザリス男爵。もう少しお静かにされよう」
ハーデンベルギア侯爵が、鼻息も荒い、ルザリス男爵を窘めた。
「引退はそう容易くいったと思いますか? そんな黄金コンビの一人であるクロス殿の引退を認めようとする者は少なく……ですから……」
やけくそ状態のクラーツから、カークランド侯爵が突然説明を引き継いだ。
「強硬な手段を取ったと言うことだ。こちらにいる陛下がな。まぁ、元々強硬な手段を取る陛下だったから、ある程度の強硬な手段で収まったがな」
「強硬な手段とは?」
「いろいろだ。そうなりたくなければ、おとなしくしていることだ。こちらにいる陛下を怒らせると、ただでは済まぬと言うことだ。昔のことゆえ、もうこんな話は忘れ去られた過去の遺物のようなものだったが……。クロスの孫娘では、どう足掻いても、そなたたちの娘や孫娘では適わん。諦めよ」
「了承したと言うことだな」
シュトラー王はカークランド侯爵の顔を見る。
「陛下。クロスが戻ってきたのか?」
「いや。旅行中だ」
「……勝手に進めたのか。クロスにも」
「笑って許してくれる」
「呆れた陛下だ」
評議会で荒れている頃。
リーシャがいる部屋を出て、アレスとラルムはアレスの部屋に来ていた。
そこで用意されたコーヒーを飲みながら、ゆっくりとした時間を味わっている。
「なぜ、特進に来なかった? あちらでも訓練はしていたのだろう?」
ブラックコーヒーのカップを静かに置きながら、コーヒーの香りを楽しんでいるラルムに素朴な疑問を投げかけた。
ずっと心の中で気になっている一つだった。
数年ぶりにアメスタリア国に戻ってきて、ラルムが同じクラージュアカデミーに入学すると聞いた時、同じ特進科のクラスになるのかと楽しみにしていたところがあった。けれど、選んだのはハーツパイロットの養成クラスである特進科ではなく、美術科だった。だから、美術科と知って、なぜ?と言う微かな驚きがあった。
ハーツパイロットになると言う強い信念をラルムが小さい頃から抱いていることを知っていたからだ。
それも自分より強く願っていたことに。
「少しだけ。本格的なものは全然だよ」
「身体か?」
「身体の方は大丈夫。問題はないよ」
柔和な面持ちで答えた。
「そうか」
小さい頃のラルムは心臓が悪かった。だから、それが原因でハーツパイロットの訓練はしていなかったのだろうかと疑念を感じ、アレスが尋ね聞いたのだ。
「デザインに興味があって、それで美術科にした。ただ、それだけ。でも、まさかリーシャと再会するとは思ってもみなかったよ。凄い偶然だった。アレス、本当に憶えてないのか?」
一瞬、何気なく尋ねるラルムが何を言っているのかわからなかった。
自分たち三人が幼い頃に会っていた話とわかると、簡潔に答える。
「……ああ。そんな昔のこと、憶えてない。よく憶えていたな?」
「……楽しかったからね」
「そうなのか。ま、憶えていないと言うことは、僕は大したことがなかったと言うことだろう。信じられん、あんなやつのこと、憶えているなんて」
「そうなんだ」
興味のないアレスに、微かに笑うだけだ。
手近にある雑誌に手を伸ばそうとしたアレスに意を決して声をかける。
「アレス」
「んっ?」
「きっと、慣れないことばかりで、大変なことも多いと思う。リーシャのこと、気に掛けた方がいい。ずっと外で暮らしてきた人間には、中での暮らしは、天と地ほども違うから……。それに寂しいだろうから」
最後の一言はアレスには聞き取れないぐらいの小声だ。
「だろうな。別世界と、言ったところか。けど、ラルム。さっきも言ったが、僕には無理な話だ。いろいろと忙しい。くだらないことに付き合っていられない。優秀な侍女がいるから、何とかなるだろう」
「結婚するんだろう? 夫としての義務じゃないのか?」
「こんな勝手な話があるか。とにかく……結婚はする。ただそれだけだ」
他人事のように話すアレスに、一抹の不安を感じていた。
ただの王族の結婚の話ではない、一国の王太子の結婚の話だ。
貴族の息女たちは王太子と結婚したいがために、あの手この手でこれまで揺さぶりをかけていた。それがまったく見ず知らぬ、ただの娘であるリーシャが相手だと知った息女たちが何か仕掛けてこないかと案じていたのである。
何かあってからでは遅いと、ただ心配でならなかった。
ブラックコーヒーを飲み、のん気に結婚の準備を口実に執務を押し付けたと言っているアレスの姿に、リーシャの今後を気に掛けるばかりだ。
(僕だったら、守ってあげられるのに……)
読んでいただき、ありがとうございます。