第110話 深夜の散歩2
慣れた足取りで、リーシャが室内を歩いていく。
その顔は、ニンマリとしていた。
家の主カーラは、裏街では、ひと目置かれている存在で、裏街の中を、仕切っている男たちも、手出しできない娼婦だった。
彼女が、相手にする男は、自分が気に入った男だけで、その客に、有力な貴族もいるほどだ。
部屋に入ると、床に置かれたクッションに腰掛けた。
じかに座った経験がないアレスは、当初戸惑っていた。
だが、何度か、訪れているうちに慣れ始め、何の躊躇もなくなっていった。
遊びに来ていた娼婦が、客である二人に、ジュースを出す。
彼女を慕っている多くの娼婦たちが、家に出入りしていたのだ。
そして、ジュースを出してくれた娼婦とも、何度か顔を合わせ、顔馴染みとなっていたのである。
「ありがとう」
黙っているアレス。
礼を言わないアレスに、瞬殺の睨みを浴びせ、カーラたちに、にこやかな笑顔を振りまく。
そんな行動に背いていても、言動が気になるので、それとなく様子を観察していた。
(何なんだ、この違いは)
自分と、カーラたちに向ける表情の違いに、単純に腹を立てていた。
そんな二人を、面白そうに、カーラが眺めている。
「そうだ。この前の焼菓子、美味しくみんなで食べたわよ」
「本当ですか。よかった、あのお菓子、王……」
「おう……?」
話の途中で、止まってしまったリーシャ。
娼婦が、首を傾げている。
王妃様から貰ったものだと、言いそうになっていたのだ。
彷徨わせている視線を、じっと娼婦が窺っていた。
「祖母から、貰ったものだ。食べきれないので、こいつが持ってきた」
フリーズしているリーシャに成り代わり、何事もなかったように、アレスが説明した。
焼菓子は、王妃エレナがお后教育で、疲れているリーシャのために、用意させたもので、休憩時間などに、食べられるようにと、たくさんの量を差し入れしたものだった。
「おばあちゃんから、貰ったの」
「はい……。そうです」
チラッと、助けてくれたアレスを窺う。
注いでくる顔は、バカと言っていた。
そんな二人のやり取りを、微笑ましい眼差しを傾けているカーラだった。
純粋で、まっすぐなリーシャを気に入り、訪問してくれるたびに、お喋りができることが、楽しみの一つとなっていたのである。
(うっかり屋さんね、リーシャちゃんは)
「ホント、美味しかったよ。また、余っていたら、持ってきてね」
「はい」
「催促して」
焼菓子を催促した娼婦を、子供を窘めるように叱った。
ちょこんと舌を出し、娼婦がおどけてみせる。
アレス以外の三人は笑い、部屋の中に、明るい空気を立ち込めていた。
「このところ、忙しかったようね」
無言でいるアレスに、カーラが話を振った。
何も知らない娼婦がいるので、詳しく口にしない。
「まぁ」
そっけない態度だ。
「忙しくしていると、一気に老けるわよ」
「大したことはない」
「そうかしら?」
不敵な笑みを、カーラが零していた。
黙り込んでいるアレスだった。
テレビやネットで、公式行事や式典、パーティーに出席している映像が、連日流されていたのである。
それに、何もなくても、二人の行動が、常に流されていた。
二人が通うクラージュアカデミーで、過ごしているとか、王宮内で、休日を静かに過ごしているとか、話題の二人の様子が、休みなく報道されていたのだ。
視線の先を、アレスからリーシャに移した。
「勉強とか、大変でしょ?」
「もう、勉強、勉強で、頭がおかしくなりそうです」
勉強の毎日だと、愚痴を漏らした。
王宮では、口にできない。
まして、心配している友人や家族の前では。
何も知らない娼婦。
リーシャとカーラの会話に、割り込んでくる。
「何、それ。勉強して、頭が、おかしくなるはずないじゃない」
「それは、そうなんですけど、いっぱい憶えることが多くって……」
詳しく話せない状況に、しどろもどろだ。
自分たちの身分がわかるようなことは、口にするなと釘を刺されていた。
「やりたくなければ、やらなければ、いいのに」
何も知らない娼婦が、簡単に口にしていた。
詳しく話せない、もどかしさが込み上がっていく。
周囲に、迷惑をかけるのはいやだった。
それに、一生懸命に教えてくれる人がいたし、何より、鼻を明かしたい人間がいたのだ。
だから、勉強を死に物狂いで、頑張っていたのである。
「それは……、そうなんですけど……」
「リーシャちゃんの家は、厳しいのよ。たくさんの家庭教師が、ついているのよね」
困っている様子に、助け舟を出してあげた。
隣で、傲慢に座っている人間が、出しそうになかったからだ。
安堵の色を、滲ませていた。
「はい。そうなんです」
「だから、こうして、私たちのところに来るにも、こっそりだから、なかなか来られないのよね」
自分の代わりに、説明してくれるカーラに同意しているだけだ。
「そうなんだ。私だったら、家出しているね」
「あなたとは、違うのよ」
娼婦が首を竦める。
ふと、とても美味しい匂いが、鼻を通っていった。
「いい匂い。これなんですか?」
いつの間にか、鼻に漂ってきたのである。
「シチューよ。この子、料理が上手なの」
「そう。私の特製のシチューよ」
キッチンで、煮込んでいる鍋に、双眸を傾けた。
自慢の料理を、カーラに食べて貰おうと、作っているところに、二人が遊びに来たのだった。
話している間も、コトコトと、弱火で、煮込んでいたのである。
「わぁー、いいな。何か、私も、料理したくなった」
「リーシャちゃんもするの?」
「ママの手伝いですけど。でも、結構、作れますよ」
結婚する前は、母の手伝いをするため、よくキッチンに入っていた。
けれど、結婚してからは、料理を作ることもない。
王族がすることでは、ありませんと、ユマに窘められてしまったからだった。
「私は、ダメね」
意外な感じを受ける。
料理も、掃除も、何でもこなせそうなイメージを、持っていた。
だが、実際のカーラは、家事をしない。
掃除や、料理は、誰かがしてくれるからだ。
家の中に、キッチンがあっても、使ったことが、一度もない。
「作ってみる?」
「えっ?」
「狭いキッチンだけど、割りと、揃っているわよ」
やりたい衝動に、駆り立てられた。
「一緒に作る?」
娼婦も誘ってきた。
「ダメだ。じっとしていろ」
料理を作るのは、専属の料理人がすることだと抱いていた。
王族たる、自分たちがするものではないと、威圧したのだ。
「どうしてよ、坊ちゃん」
止めるアレスを、胡乱げに娼婦が窺っていた。
「品格の問題です」
「ひ、品……格?」
聞き慣れない言葉に、上擦ってしまう。
「ここは、私の家よ」
「……」
互いに、見つめ会う二人。
見えない火花が、散っていたのだ。
「リーシャちゃん、作りたいなら、作っていらっしゃい」
オーラ全開で、止めているアレス。
平然と、カーラが受け止め、無視していたのだった。
「けど……」
黙り込んでいるアレスの顔色を窺っている。
「大丈夫。作りたいのなら、気にしないで、いってらっしゃい」
「おい」
憮然としているアレスに、カーラが美しく微笑んでみせる。
高慢な王子のオーラを、出しているのに、全然、怯まない。
逆に、誰もが凌駕する、女豹のようなオーラを、出していたのである。
息もできぬ様子で、ただリーシャがたじろいでいた。
そして、アレスと対峙しているカーラに、羨望の眼差しを傾けていたのだ。
「立場を……」
反論を繰り出すアレスを、封じ込める。
「リーシャちゃんは、私のお友達よ」
出逢ってから、アレスがカーラに勝ったことがない。
「……好きにしろ」
吐き捨てて、そっぽを向いてしまった。
唖然としているリーシャに、和やかな顔を傾ける。
「だ、そうよ」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げ、娼婦と共に、キッチンにいってしまった。
行ってしまった背中を、見つめているアレス。
(僕の言うことも聞かずに、いくのか)
この場に、カーラとアレスだけに、なってしまったのである。
重苦しい空気も気にせず、普段と変わらない仕草を、カーラが覗かせていた。
「いつまで、そんな顔しているの?」
「僕が、どんな顔をしてようと、勝手だ」
「横柄なんだから。自分が、一番エラいと、思っているのかしら?」
カチンとし、鋭い眼光を巡らす。
けれど、動じる様子もない。
ただ、微笑んだままだ。
なぜか、勝てない気がし、カーラと言う女性を嫌っていた。
「ここでは、好きにさせてあげなさい。きっと、あちらでは、抑制されているのだから。それを、一番わかっているのは、あなたではないのかしら?」
「……」
「料理ぐらい、好きに作らせてあげればいいのに」
上に立つべき存在が、下の真似をしてはいけない、毅然とした態度をとりなさいと、幼い頃より、教わってきたのである。
王太子と決まって以来、王太子らしく、振舞うようにと、厳しく育てられたのだった。
制限される立場に、幼少の頃より、うんざりしていた。
だが、王族と言う立場である限り、努めなければならないと律し、そのように振舞ってきたのだった。
「ホント、かしこまったところね。あなたも、もう少し、警戒を解いたら?」
常に、何事も起こらないかと、警戒を巡らせていたのである。
それは、王宮にいても、同じだった。
心が、休まるところがない。
常に、アンテナを広げ、警戒していたのだった。
「あなた自身、疲れるわよ」
「……僕の勝手だ」
「そうね。あなたの勝手ね」
不機嫌なアレス。
キッチンで楽しく料理を作っている二人の姿に、視線を注ぐ。
「そういえば、ネットで、浮かない顔見たけど、今日は、楽しそうでよかったわ」
「……」
同じことを、アレスも感じていた。
僅かに、安堵感を抱いていたのである。
「リーシャちゃんの友達さん、もう少し、リーシャちゃんのことを、考えてあげなさい。そうしないと、取り返しがつかないことになるわよ」
カーラの前で、アレスは自ら名乗ってはいない。
そのため、あなたやリーシャちゃんの友達さんと、呼ばれている。
他の人間からは、坊主や坊ちゃんなどと、呼ばれることもあった。
「考えている」
珍しい流れに、意外だと目が輝きだす。
「そう。考えているの」
それ以後、アレスが口を閉ざしてしまった。
キッチンで、料理をしていたリーシャは、皿を持って、二人の前に戻ってくる。
二人が会話している間に、簡単な料理を、作っていたのだった。
「美味しい?」
ワクワクと、翡翠の瞳を輝かせている。
「普通だろう」
家庭料理を、口にする機会が、これまでなかったので、内心戸惑っていた。
以前に、リーシャの母親が作った料理を食べたが、その時に、これが母親の手作りの料理なのかと、感想を抱いたことがあった。
けれど、それとは違うものを、アレスは心の内に浮かび上がらせていた。
少しずつ、ほんわかとする温もりを、感じていたのだ。
「こういう時は、美味しいって、答えるのよ」
褒めて貰えず、膨れ面で、食べているアレスを睨んでいた。
勉強や、ハーツパイロットとして認めてくれないので、少しは、自信のある料理で、認めてほしかったのである。
それが、普通だと言う感想に、不満だった。
「普通は、普通だ」
「意地っ張り」
「本心だ」
「どうだか」
「プロが作る方が、美味しい」
「プロと、一緒にしないでよ」
そんな初々しい光景に、笑って眺めていた。
裏街での短い時間が終わり、ログの案内で、二人が宮殿に帰っていった。
読んでいただき、ありがとうございます。