第101話 テネルとの出会い
今日から、第5章に突入します。
彩られた庭園を、散歩していたリーシャが足を止めた。
解き放たれた開放感を、満喫している。
気持ちいい、陽射しを浴び、疲れた身体が癒されていった。
講義専用の部屋で、つい先ほどまで、外部からの講師による、ダンス講義を受けていたのだ。
次の講義までのひと時の時間を、気分転換も兼ね、散策していたのである。
「ずっと、部屋にこもっていると、疲れる」
思いっきり、清々しい空気を吸い込む。
「外は、いいわね」
ここは、アメスタリア国にあるセルリアン王宮の庭園である。アメスタリア国は、ヨーロッパにある王政君主を取っている国で、国王を中心とする一部の貴族や議員たちによって国が動かされていた。
「昼寝も、いいな」
若き王太子妃が、短い休息の時間を楽しんでいる。
いち民間人の家庭から、嫁いだばかりで、王室の教養が備わっていないため、お后教育を受けていた。
学生でもあるリーシャは、クラージュアカデミーにも通っていたのだ。
だが、今日は学校が休日で、朝から晩まで、王室としての務めが詰まっていた。
午前中のスケジュールは、王太子妃のための講義の時間で、午後は、とある貴族が主催するパーティーに、王太子夫妻として呼ばれていたのだった。
王室の一員になったばかりのリーシャに、休日と言う文字が存在しない。
自然溢れる庭園に、野生の小鳥たちがやってきて、美しいさえずりを聞かせてくれる。
「いい声ね」
目的地がある訳ではない。
ただ、行き場所を決めず、無心に歩いている。
足が赴くまま、散歩するのが好きだった。
「今頃、アレスは会議かしら」
同じ歳で、夫のスケジュール予定を、思い返してみる。
朝食の時間に、アレスの秘書官ウィリアムから、互いのスケジュールを告げられていた。
だから、今の時間帯に、何をしているのか、大体、把握できた。
「憮然とした顔で、聞いているんだろうな」
小さな笑みが零れていた。
普段の様子から、何となく想像できる。
いつもの無表情で、話しかけても、なかなか返してくれない。
でも、時々だが、表に出してくれない表情を、みせてくる時もあった。
「で、何食わぬ顔で、やっちゃうんだろうな」
大人相手に、厳しい指摘や、指図する映像が浮かぶ。
学生の身分でありながら、王太子アレスは国王であり、祖父でもあるシュトラー王に成り代わり、アメスタリア国の政務の一部を担っていた。
若干、十五歳の王太子は、端整のとれた顔をしながらも、頭脳明晰でもある。
文句のつけようのないぐらいに、完璧だった。
全然、隙もなく、格好いいと称される、国民のアイドルと言える姿に、民間出身のリーシャが、日々感嘆するばかりだ。
そんな二人は、恋愛で結ばれ、結婚した訳ではなかった。
互いの祖父同士が、決めた政略結婚だった。
そろそろ戻ろうかなと、頭を過ぎらせる。
すると、テラスで、小さな男の子が、一生懸命に絵を描いている光景が、視界に飛び込んできた。
行き場所を決めていなかった足が、数歩進んで、止まった。
「男の子?」
首を傾げながら、眺めていた。
珍しい光景だった。
王宮に住むようになり、数ヶ月経つ。
だが、これまで、小さな男の子の姿を見かけなかった。
王宮の住人は国王夫妻に、アレスの両親、それに、王太子夫妻だった。
それぞれ、住まいが別々の宮殿で、顔を合わせない日もあるぐらいだ。
同じ宮殿に住むアレスの姿も、スケジュールが合わなければ、顔を会わせない時もあるぐらいだった。
その他に、侍従や侍女、王族を警備する、ボディーガードたちが控えており、貴族たちの出入りもあった。
けれど、子供が出入りしている光景を、これまで一度も見たことがなかった。
男の子の周辺を窺うと、誰の姿もない。
(誰もいない? 侍女たちもいないの? 随分と、無用心ね……。男の子の両親は、どこに行ったのかしら?)
「迷子? そんなはずないよね。だって、ここは王宮だし……。誰が連れてきたんだろうな」
一人で、絵を描いている姿が、寂しそうに思えた。
数段の階段を昇り、庭園から、テラスへ入っていく。
「こんにちは」
すぐに、自分に声をかけられたと気づかない。
しばらく、間を置いてから、描いていた絵から、顔を上げた。
男の子自身も、自分に声をかける人なんていないだろうと、巡らせていたのだ。
でも、近くに、誰もいないことに突き当たり、ゆっくりと、顔を上げたのだった。
自分を見ている見ず知らずの人に、驚きが隠せない。
もう一度、明るい調子で、声をかける。
「こんにちは」
「……こんにちは」
少し、戸惑い気味に、男の子が返した。
話しても、いいのだろうかと、男の子の目が泳いでいる。
むやみに、他の人と話してはいけないと、父親に言われていた。
怯えを和らげるため、リーシャが微笑みを浮かべる。
「一人で、絵を描いているの?」
「……はい」
「誰もいないみたいだけど、一人で、王宮に来たの?」
「違います。お父様と来ました」
父親と聞き、貴族の子息であると把握した。
(だからって、こんなところに、ほっとくなんて可哀想)
テーブルに、ジュースとお菓子が置かれている。
案内した侍女が、置いたものだろうと察し、だったら、一人にさせないように、ついていてあげればいいのにと、思いを走らせるのだった。
「一人で、寂しくない? 誰か、呼んできようか?」
「大丈夫です」
はつらつと、質問に答えていく。
とても、小学校に上がる前の子供とは思えないぐらいだ。
しっかりとした対応を、示していたのである。
(ユークとは、大違いね)
結婚と同時に、祖父の親戚筋に当たる、貴族の養子になった弟の姿を、思い描く。
小学校に上がる前のユークの姿と、目の前にいる男の子では、雲泥の差もあったのだ。
「お父さんは、お仕事かな?」
「違います。王妃様と、お話しています」
「王妃様と?」
「はい」
父親が、王妃エレナに、面会していると知ると同時に、僅かなに目を見開いた。
結婚する前の、普通の高校生だった頃は、ほとんど、王室のことは知らなかったが、今は、徐々にではあるが、王室のことを理解しつつあったのだった。
(今日は、体調がいいのかしら? 会っているなんて)
飛んでいた思考から、きょとんとしている男の子を捉えた。
「ここに、座ってもいい?」
「はい。どうぞ」
「どんな絵を、描いてるのかな……、そう言えば、名前を聞いていなかったね」
「僕は、テネルと言います」
「テネル。いい名前ね」
名前を褒められ、子供らしい微笑みを窺わせる。
「ありがとうございます。お姉様」
「お姉様……、いい響きね」
感激している姿を、不思議そうに、テネルが眺めていた。
最近は、リーシャ様や妃殿下などと呼ばれ、悪戦苦闘する日々を過ごしていたのだ。
未だに、改まった呼び名に、慣れていなかった。
弟がいて、姉ちゃんと呼ばれても、お姉様と呼ばれたことがない。
むず痒いながら、心地いい響きを気に入る。
それに、王太子妃と、気づいていないことも、喜ばしかった。
「じゃ、ずっと、そう呼んでね」
「……はい」
状況を把握できず、消え入りそうな声音だった。
満足な顔を、困惑しているテネルから、描いていた絵に注ぐ。
テラスから見える庭園を、描いていたのである。
「上手ね。一緒に、描いてもいい?」
「……はい。本当に、いいんですか?」
父親が、王妃エレナと面会する時や、王宮に連れてこられるたびに、ここのテラスで、一人ぼっちで絵を描いて、父親が戻ってくるのを、ずっと一人で待っていたのだった。
だから、一緒に描いてもいい?と聞かれ、驚きはしたものの、これまでの人とは違う対応に、心の底から嬉しかったのである。
「勿論。私も、一人でつまらなかったの。だから、一緒に、遊んでくれるといいな」
「では、紙とクレパスを」
無邪気らしい笑顔が、ようやくテネルから覗けた。
「ありがとう」
受け取った紙に、同じように庭園を描いていく。
課題などの絵とは違い、気楽に、サッと描けた。
短時間で、描いた割りに、いいでき映えにほくそ笑む。
瞬く間に、描いていく絵に、テネルの瞳が輝いていった。
「お姉様。……上手です」
「ありがとう。褒めてくれるのは、テネルだけね」
「どうして? こんなに上手なのに?」
「構図が悪いとか、バランスとかね……」
教師や、友達からの指摘を、零していたのである。
その意味を、把握するには幼い。
よくわからないテネルが首を傾げ、ただ聞いていたのだった。
「ま、もっと、上手な人から、厳しく怒られている訳。だから、私の絵を見て、上手って、褒めてくれて、ありがとう」
「だって、本当に上手です」
まっすぐに注ぐ瞳に、嘘がない。
そんな純粋な幼い瞳が、ニンマリと微笑む。
「一緒に、描こうか」
「えっ?」
座っていた椅子を、少し引く。
「ここに、座って」
自分の太ももを示した。
リーシャの顔と、指し示した太ももを、見比べる。
「……でも……」
「大丈夫。一緒に、絵を描いてほしいな」
願いされ、狼狽し始めるテネル。
逡巡した後、ゆっくりと、目の前にいるリーシャを窺う。
「……はい」
ニコニコしながら、待っている元へ行く。
恥ずかしそうにしているテネルを抱き上げ、自分の太ももに下ろす。
頬をピンクに染め、もじもじしているテネルに、顔を近づけた。
「テネル。ここの色を、塗ってくれる?」
「は、はい」
「私は、こっちに、色を塗るから」
言われるところを、一生懸命に塗り始める。
その作業が、しばらくの間続けられ、絵が完成に行き着いたのだった。
「できたね」
「はい。あの……、貰っても、いいですか?」
「……これ?」
不安そうな顔を、テネルが滲ませている。
「いいよ。でも、これでいいの?」
「はい」
貰える喜びで、顔が綻んでいる。
(あげる絵だったら、もっと、ちゃんと描いておくべきだったかな)
そんな思惑をよそに、貰ったばかりの共同で描いた絵を、食い入るように眺めていた。
(これだけ喜んでいるなら、いいか)
「じゃ、次は、何して遊ぼうか」
「……」
いつも、一人で遊ぶテネルが、次の遊びが浮かばない。
「遊びたくない?」
頭を、大きく横に振る。
黙り込んだテネルに、途方に暮れてしまった。
なぜ、黙っているのか、皆目見当もつかなかったのだ。
幼いリーシャは、友達と、次から次へと、遊んでいた活発な子だった。
「……いつも、何して遊んでいるの?」
「絵を描いたり、本を読んだりしています」
「それだけ?」
「……はい」
小さな声で、返事をした。
「友達と、遊ばないの?」
「……遊んだことが、ありません」
「友達は?」
「……いません」
意外な吐露に、瞠目している。
「……いつも、一人で遊んでいるの?」
コクリと頷く。
そんな寂しそうな顔に、居た堪れなくなる。
「……じゃ、お姉様が、テネルの友達第一号ね」
「友達?」
落ち込んでいた顔を上げ、微笑んでいる顔を窺っている。
「そう、テネルの友達。いや?」
これまでないぐらいに、大きく首を振って、否定した。
「本当に、僕の友達になってくれますか?」
「うん。テネルも、私の友達になってくれる?」
「はい」
「じゃ、二人で、外で遊ぼうか」
二人は、庭園で追いかけっこしたり、かくれんぼしたりし、洋服が汚れることも忘れ、遊びに興じるのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。