第99話 割れたカップとソーサー6
数日が過ぎた午後。
王宮の中にある白い東屋に、リーシャは一人で佇んでいた。
このところ、クラージュアカデミーにも、王宮にも顔を出さないラルムのことを、待っていたのである。
ナタリーたちと、何かあったのだろうかと、姿を見せないことを案じていたのだった。
心配しているところに、ラルムからのメールで、呼び出される。
いきなりの呼び出しにもかかわらず、足を運んだ。
「どうしたのかな」
ソワソワしながら、周辺を窺う。
庭木と、色鮮やかな花があるだけだ。
そんな雰囲気が、下界と遮断されているようで、静かな装いである。
いっこうに、姿を見せる気配がない。
待ち合わせの時間が過ぎても、姿を見せなかった。
お后教育の講義と、歴史の講義の合間を縫って、足を延ばしたのだ。
戻らないと、いけない時間が迫ってくる中で、どうすべきかと戸惑う。
頭の中に、分刻みのスケジュールが浮かぶ。
そして、時間に、厳しいユマの顔。
(戻らないと、いけないのに……)
手に持っているスマホに、視線を巡らせた。
(どうしちゃったのよ、ラルム)
突然に、姿を見せなくなったので、ナタリーたちと心配し、何度もスマホに連絡したり、メールを送ったりしていたのである。
けれど、返事の連絡が、全然、返ってこなかった。
それが、いきなりラルムから、白い東屋に来てほしいと呼び出されたのだ。
そして、スケジュールを管理しているユマに、無理に時間を空けて貰い、ここで待っていた。
送られてきたメールの文面が浮かぶ。
その内容は、日時と場所だけが書かれた、味気ないメールだった。
「みんなに心配かけて、何しているのかしら?」
少し口調も、剥れ気味だ。
スマホにかけようとしたが、やめた。
怖い顔されるのを覚悟で、もうしばらく、待つことにしたのである。
(後、十分しても来なかったら、帰っちゃうからね)
伏せていた顔を上げる。
自分の落ち込んだ気持ちとは違って、空はキラキラと青かった。
自然と、小さい嘆息を一つ零した。
「アレスのバーカ」
か細い声で、姿のない相手の名を吐いた。
ケンカして以来、あまり口を聞いていない。
この数日は、話しかけるように努めていた。
リーシャから声をかけない限り、無愛想なアレスの方から、話しかけてこないからだ。
話す用事がない限り、自ら話しかけてこなかったのである。
結婚当初から、そのスタイルが変わっていない。
そんな寂しい現状に、心を痛めていたのだった。
(私に、話すこともないのかな?)
徐々に、鮮やかな翡翠の瞳が沈んでいく。
「何で、アレスは結婚したんだろう……」
二人の結婚は、両方の祖父が決めた政略結婚だった。
二人の意思は、入っていない。
それでも、考えてリーシャは結婚を決めたのだ。
鳴らないスマホに、視線を注ぐ。
(結婚してから……、アレスから、何回来たのかな)
アレスからの連絡や、メールの数を数えるが、指で数える程度だ。
大きく、全身の力が抜けてしまう。
忙しい立場を気遣ってでも、ラルムやナタリーたちからも、連絡やメールは頻繁に来ていた。
それに、ユマたちやウィリアムの方が、アレスよりも多いのが現状だ。
(夫なのに……)
目の前に、不機嫌なアレスの顔が浮かび上がる。
「きっと、ケンカしたことも、忘れているんだよね。それとも、腹でも立てて、私となんか、喋りたくないのかな……」
身体が脱力していくのと合わせ、小さい嘆息も漏れた。
上げていた頭が、がっくりと落とされる。
嘆くこともままならぬほど、忙しい現実に、落ち込むしかない。
「……結婚したのだって、陛下に言われて、面倒だから結婚したって、言っていたじゃないの……、きっと、視界に入る人間が、一人増えたって、何も感じなんだよね、アレスにとって、私の存在は。そんな小さなものなんだよね……」
足をブラブラと、前後に揺らしていった。
ふと、以前、言われたことが、次々と思い出していく。
アレスの言動に、このところ、ズキンと心が痛むのを憶えていたのである。
(仲良くなって、アレスと、楽しく笑い合えたと思ったのに……)
「あれは、気まぐれだったの?」
少しは、打ち解けたかもしれないと言う瞬間を、感じたこともあった。
けれど、この数日からの様子を思うと……。
そう、思えなくなってきていたのである。
真夜中に、二人だけで、王宮を抜け出したことがあった。
それも、以前、二人で見つけた、自分たち以外は、誰もその存在を知らない、秘密の通路でだ。
普通の人が寄り付かない、裏街の中を、探索した記憶が蘇っていく。
怒りながらも、アレスは楽しい顔を、時々、垣間見せることもあったのだ。
その時に、こんなふうに、いつも見せてくれる日が来るかなと、どこか期待していた。
鬱蒼とする空気を、このところ浴びていると、とても、そんな日が訪れるとは思えない気がし、悲しく、泣きたくなってくるのだった。
「リーシャ」
突然、自分を呼びかける声に、落としていた顔を上げる。
すると、歩いてくるラルムの姿が、目に飛び込んできた。
足早で、リーシャの元へ、駆け寄っていたのだ。
「ラルム……」
ふと、首を傾げ、その光景を、ただ呆然と眺めている。
いつもと感じが、どこか違っていた。
ジャケットを着ている格好に、どこかへ、出かけていたことを察する。
イギリスから戻って、ラルムは直行で、リーシャが待つ、白い東屋に向かったのだった。
自分の荷物は、空港で待たせてあった侍従たちに渡し、一秒でも早く急いでいた。
手に持つ、箱一つを持ってだ。
「ごめん。道が込んでて」
「それは、いいけど、どこかへ行っていたの? みんな心配してたのよ」
白い東屋に到着し、待っていたリーシャの前で立ち止まる。
元気そうな様子に、とりあえず、ひと安心した。
「ちょっとね」
数日ぶりに会うリーシャの顔に、自然と綻ぶ。
「のん気ね。どれだけ、心配したと思っているの?」
「心配してくれたの?」
「当たり前でしょ。友達なんだから」
「……友達か」
友達と言う響きに、悲しく抱くラルム。
寂しそうな雰囲気を垣間見た気がし、リーシャの胸が騒ぐ。
「そうよ。……ラルムは違うの? みんなと……」
首を傾げ、不安な顔で、見上げる姿に、軽く笑ってみせた。
友達ではなく、王太子妃と見ていると意味を誤解したのだ。
段々と、周囲の視線が変わっていくのを、悲しく憶えていたのである。
それと同じように、ラルムの見方も変わったのかと、勘違いしたのだった。
「いいや。親友だよ」
「……そうね。親友だね」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「じゃ、何で、あんな顔したのよ」
「僕は、親友だと思っているのに、友達って言うから」
「そっか。それは、私が悪かったわ。ラルムは、私の大切な親友よ」
「僕もだ。大切な存在だよ」
同時に揃って、ベンチに腰掛ける。
そして、以前に見たよりも、元気になっているリーシャの前に、手に持っていた箱を、差し出した。
数日前に、この場所で話して以来、会ってもいないし、声もメールのやり取りもしていない。
離れた異国の地で、ずっと気が気でなかった。
一人で、沈んでいないかと、心を砕いていたのだった。
(少しは、笑えているようで、よかった……)
箱と、ラルムの顔を、交互に見比べる。
「どうしたの?」
「開けてみて」
言われる通りに、頑丈に梱包されている箱を、丁寧に開けていく。
それを、じっと目を細め、眺めていた。
「!」
驚愕する顔を、ラルムに傾ける。
「どうしたの? これ……」
箱の中は、以前に預けたカップとソーサーが、修復された状態で、収められていたのである。
恐る恐る、優しく箱から、一つのカップを取り出そうとした。
触れただけで、またバラバラになってしまうのではないかと、頭を掠めている。
もう、そんな姿は、見たくなかった。
意を決して、カップを持ち上げる。
手にしても、欠け落ちることがない。
パズルのようになっていた欠片が、一つの形を形成していた。
割れていた部分に、金色の線が描かれている。
その線が、以前、割れた証拠を、示していたのだ。
カップやソーサーの側面に、その線がいくつも描かれていた。
その金色の線を、優しく指でなぞる。
「綺麗に、修復できなくって、ごめん」
唐突な謝罪に、ブンブンと、首を大きく振る。
一生懸命に、直そうとしてくれたラルムの優しさが、伝わってくるからだ。
二客のカップと、ソーサーを、交互に手にとって、翡翠の瞳で眺めた。
沈んでいた心が、ほのかに温かさを灯していたのである。
「凄いね」
「割れていたのがわかっちゃうけど……」
「ラルムが直したの?」
手にしているカップから、首を傾げ、隣にいるラルムに顔を巡らした。
「違う。友達に修復士がいて、頼んだんだ。ちょっとだけ、僕も手伝ったけど」
イギリスにいる、修復士の友達ジャスティに、頼んだことや、修復作業にラルム自身も、携わったことを掻い摘んで語ったのである。
「……」
意外な話に、目を丸くしている。
「リーシャ? もしかして、気に入らなかった?」
勘違いしたラルムが、不安な顔を覗かせていた。
驚きの表情を、気に入らないと、読み違えたのだ。
「ごめん。余計なことしちゃったかな……、ジャスティに一人に任せ……」
できるだけ、元通りに修復したかった。
だが、これが、今のラルムにできる、精いっぱいだった。
納得できないかもしれないと、不安がどこかあったのだ。
「そんなことない!」
強い声音に、下げていた視線を戻す。
「ラルムも、手伝ってくれたって聞いて、凄く嬉しかったよ」
目の前で、少し怒っているリーシャの顔を覗く。
怒っているけれど、その口元が笑っていた。
「ラルムに、そんな技術があったのかって、驚いたのよ。それなのに、勘違いしちゃって……。意外と、ラルムって、うっかりしているところがあるのね。いつも穏やかで、物静かなイメージとは違って」
「……」
「それに、直してくれたこと、凄く感謝してるよ」
「……」
「もっと、もっと、大切にしないとね、だって、これにはパパの思いと、もう一つラルムの気持ちが加わったから」
嬉しそうに、自分の気持ちを語った。
直そうと、頑張ってくれたことが、何よりも嬉しかったのだ。
満面な笑みで、カップとソーサーを眺めている顔を、愛しそうに、ラルムが見つめていた。
余計なことは、何も考えない。
ただ、頭の中は、嬉しそうなリーシャの顔で、満たされていた。
「よかった。リーシャが気に入ってくれて」
「当たり前でしょ。ラルム、ありがとう」
「喜ぶ顔が見れて、よかったよ」
二人は、互いに見つめ合って、微笑んでいる。
その光景を、少し離れた場所で、見ていた人間がいたのだ。
ポルタから受け取った、新たなカップとソーサーが入っている箱が、入った紙袋を携えてアレスが立ち尽くしていたのである。
それも、ラッピングも、以前と、同様にして貰うように、細かく指定し、当時に贈ったままの形、そのままにした拘りだ。
待ち兼ねていたものを、侍従から受け取り、渡すべき相手リーシャの姿を捜していた。
仮宮殿の中に、姿がなかった。
だから、庭園に捜しに出て、ようやく、白い東屋で、一人佇んでいる姿を見つけたのだった。
ようやく見つけ、声をかけようと思った瞬間……。
ひと足早く、別な方向から、現れたラルムが声をかけていた。
僅かに、声をかけるタイミングをはずしてしまう。
そして、この一部始終の光景を、見る羽目になってしまったのだ。
呆然としと、足が動かない。
「……」
視線の先に、嬉しそうな姿がある。
その隣には、自分ではなく、ラルムの姿があった。
もう少し早ければ、そこにいるのは間違いなく、アレスだった。
向けられずはずだった笑顔もだ。
ただひたすらに、二人のやり取りを眺めていた。
見る必要もない光景なのに、視線が外せない。
さらに、頭の中へ、その映像が刻まれていく。
「ラルム……」
紙袋を持つ手に、力がこもる。
矛先を、リーシャ一人だけに注ぐ。
これまで沈んでいた顔が、嘘のように、楽しげに笑っていた。
「笑うな。……あいつに、そんな顔を見せるな」
目を細め、呟いた。
リーシャを所有しているのは、自分だと吐き捨てたい気分になる。
(そんなもの壊してやる……)
直ったばかりのものを、奪い取って、投げ捨てたい。
陽だまりのような光景の中へ、飛び込んで、何もかもぶち壊したい。
ラルムに傾ける、リーシャの笑顔をなくしたい。
次から次へと、負の衝動が巻き起こるが、足に根が生えたように、ピクリとも動かずに立ち尽くしていた。
頭の隅に、泣き顔のリーシャがいたのだ。
それに、常に、冷静でいることが大切だと、教え込まれた鎖で、身動きが取れない。
話に夢中になっているリーシャたち。
アレスの存在に、気づくことがない。
ラルムがいない間の出来事や、修復の話に、花を咲かせていたのである。
躊躇いがちに呟く。
「……僕には、関係ないことだ」
必要がなくなった紙袋に、視線を落とした。
ピンクのリボンがかけられた、行き場を失った箱が窺える。
ラルムが渡していた現場を目撃し、自分が手にしているものを、渡せなくなってしまった。
紙袋を手にしている力が、徐々に、失われていく。
笑わなくなったリーシャに、笑顔を取り戻すため、頭を巡らせ、ようやく辿り着いた答えが、ポルタに、もう一度作って貰うことだった。
これまでのアレスだったら、こんなこと、考える余地もなく、捨てていた。
けれど、どうしても、いつもの明るく、楽しく、はしゃぐ姿に、戻ってほしかったのだ。
笑った顔が見られると、抱いていた矢先に、その願いは、先に現れたラルムによって、計画が無残に壊されてしまう。
(こんなこと、しなくっても、よかったのか……)
姿を見せなくなったラルムが、壊れたものを直しているとは、露とも知らなかったのだ。
微かに、震えたった心が、一気に冷え切っていく。
「必要なくなったな……」
結局、手から離すことができない。
閉じていた指が、開かなかったのだ。
辛うじて、指に、紙袋の紐がかけられている。
茫然自失のような虚ろな眼差しで、紙袋を見つめている。
少し前のアレスだったら、確実に捨てていた。
(ラルムがいなかったら……、これで、リーシャが笑うはずだった……)
「無意味なことをしたな……」
どうしても、手放すことが、できない。
もう少し早ければ、これで、笑顔が見られたはずだと抱くと、余計に捨てられなかった。
話している二人に、食い入るように視線を注ぐ。
「……関係ない」
紙袋を手にしたまま、その場から離れていった。
途中で、不要となった紙袋ごと、侍従や侍女に、捨てるように命じることもできたが、それもしないで、そのまま部屋に持ち帰り、テーブルに置いたのだった。
その後のアレスに、誰も近づこうとはしなかった。
近づける雰囲気を、醸し出していなかったのである。
読んでいただき、ありがとうございます。