聖女さまの聖猫さま «2»
そんな時、図らずもあたしと高田君が話す機会があった。
彼はまだあたしの存在に半信半疑で、あたしはあたしで寝ぼけて夢だと思い込んでたあの時だ。
存在を疑いつつも、痩せ細っていくあたしを見てられなくて、一緒に帰ろう、と彼は呼びかけた。
で、あたしは、帰ったら病気で死んじゃうんだよ、と返した。
高田君は、それは違うだろう?と思ったそうだ。
何しろ、異世界に現れたばかりのあたしは、見た目から元気溌溂健康そのものだった。
もしあたしが本当に死に至る病で、それを自覚するほど症状が進んでたのだったら、最初からもっと病み衰えた姿で現れた筈だ、と彼は考えた。
そして彼は『宮野あかり』が芸術レベルで思い込み早とちりする事を、この時すでに知っている。
『宮野あかり』なら、どんな勘違いも有りうる。
彼は会話が成り立った事であたしが本物の宮野あかりである、と認識すると同時に、何か盛大な思い違いをしてるんだろう、と結論づけるに至った。
ーーーという訳だった。
そして、実体の『宮野あかり』が病気以外で弱ってきてると考えるなら、タイミング的に猫の姿で異世界に来たのが原因という可能性も出てくる。
だったら少しでも早く帰った方がいいのではないか。
彼はそう思ったのだという。
だけど結局、その辺りで彼の目に映るあたしの衰弱は進行を止めたらしい。
こっちの世界とは時間の流れが違うからもしかしてだけど、その時点で点滴の種類を変えたとか、何かの処置をしたのかもしれない。
斯くして、『宮野あかり』は小康状態を保ったまま、にゃんとしてズルズルと異世界に居続け、高田君はそんなあたしを、一抹の不安を抱えながら見守る事になる。
今回あたしが帰る話が具体化したとき、高田君が極力早く帰す事を主張したのはそんな理由だった。実体の宮野あかりの状況がわからない以上、早く帰るに越した事はないもんね。
向こうでそれを言わなかったのは、聞いてもどうしようもない上にただ不安を煽るだけだから。
あたしの気持ちを考えてくれたんだ。
「一番酷かった時よりは、ずいぶんマシになってる」
高田君はあたしの目の下を指先でなぞりながら言った。
「そ…、そんなに酷かったの?あたし」
これより酷かったなんて、そしてそんな顔でモフモフアイドルがどうとか言ってたなんて自分が痛すぎるわーー。
愕然とするあたしに、彼は言った。
「猫の姿だと毛皮でわかりにくかったのかもな。それに今は、それほど酷くもないだろ?こんな隈、2~3日オールしたら出来る程度だし、もう戻って来たんだから何日かぐっすり寝たら、きっとすぐに治る」
2~3日オールする状況がわかりません。あたし夜はぐっすり眠る派だし。
そしてこの隈を見て、こんな程度とか……。
納得いかない様子のあたしに、彼は目元を和ませた。
「心配しなくたって、今も充分可愛い」
………顔から火、噴きそうなんですけど。
そして高田君の目には、絶対何かのフィルターがかかってると思う。それもあたし限定で!
あたしが真っ赤な顔でそう主張すると、望むところだ、と彼は甘やかに笑った。
ここであたしは、彼の膝から降りる事になった。
慣れって怖い。
異世界で、抱っこからのギュッ、にすっかり慣らされてたあたしは、彼の顔が近いって事以外は何の違和感もなく膝の上で寛いでて、廊下から看護婦さんの声が聞こえてきた時初めて、自分の状況に唖然とした。
いくら個室とはいえ、いつ誰が入ってくるかもわかんない部屋で、これは恥ずかしすぎる。
あたしがそう言うと彼も、あ、と口を開けた。
どうやら二人して異世界呆けしてるらしい。
高田君の場合は、異世界で衆人監視の元あたしを抱っこしてようが、みんな猫を抱っこしてるとしか思わないし、今まで何の遠慮もなかったんだよね。
あたしはそそくさと彼の膝から降りて布団をかぶり、彼はベッドから折り畳みのパイプ椅子へ移動した。
それから今度はあたしの方の話になった。
これを彼に話すのはあたしにとって、ものすごく勇気がいる事だった。
でもあんなに心配かけたんだから、言わずに済ませられる訳がない。でもできたら言いたくない。
迷い迷い、あたしは口を開いた。
「あのさ、あたしの病気、やっぱ勘違いデシタ……。本当にただの盲腸で、手術も成功してた」
うん、と真剣な顔で続きを待つ彼。
ああ、言いたくない。
「ねぇ、前に高田君にね、お母さんたちがあたしの病気の事話してたって言ったでしょ?こんな治療意味がないとか、余命がどうとか。あの時、どうしてあたしが勘違いしてると思ったの?」
時間稼ぎだけど、あの時から気になってたのは本当だ。
あたしの問いに、彼は少し考えて言った。
「元々間違いだとは思ってたけど、詳しい話を聞いたら、どう考えてもお前の勘違いとしか思えなくなった。
まず、お母さんと叔母さんが話してたとき、宮野は寝たふりしてたんだろう?」
「うん、最初はホントに寝てて、目が醒めたらそんな話してたもんだから、つい寝たふりしちゃったんだよ」
彼は頷いて続けた。
「だけど、本人に隠しておきたいことを、寝てるとはいえその枕元で迂闊に話題にするかな?病気の娘の前でそんな重大な話、絶対にしないと思う。まして秘密にするつもりなら、家では泣いてても子供の前では笑ってるものじゃないのか?
だから『あの歳で』っていうのはお前の事じゃなくて、逆に高齢って意味の可能性もあると思った。お前、お祖父さんお祖母さんに、曾お祖父さんもご健在だというし、申し訳ないけどそっちかな、と」
気まずそうにいう高田君に、拍手を贈ってもいいでしょーか。
あたしがこっちの世界で目を醒ましたあと、ミナちゃんはソッコーでお母さんに連絡してくれた。
そのあと二人が揃ったときに、あたしは早速訊いてみたんだ。とにかく気になってたから。
そしたら大爆笑された。そりゃもう看護婦さんが注意しにくるレベルでさ。
おまけにお説教もされた。
そんなつまらない誤解をする前に、なんでその場で訊かないんだ、って。
理不尽だって思うのはあたしだけか?
二人が話してたのはね、曾祖父ちゃんの事だったよ。
病名は、白癬菌による皮膚疾病。いわゆる水虫ってやつだ。
医者嫌い薬嫌いの曾祖父ちゃんは、民間療法で治そうとお酢の中に足を突っ込んだり、他にも怪しげなことを色々試しているらしい。
水虫の初期ならそんなんでも治るかもしれないけど、あそこまで酷くなったらもう民間療法じゃ無理だわ、とミナちゃんは言った。
「でも!あの時二人とも声を殺して泣いてたじゃないっ!余命もあと僅かだって!」
あたしが言いつのると、二人は顔を見合わせた。
「そんなこと言ったかな?まあ、93歳だし、余命がたくさんあるとは言えないねぇ」
「声を殺して泣いた覚えはないなぁ。声を忍ばせて笑った記憶はあるけど……」
「へ!?笑ってたの?」
目を剥くあたしに、ミナちゃんはシレッと言った。
「お祖父ちゃんさあ、前にうちの旦那が仕事先で水虫感染されてきたとき、どんだけ笑ったと思う?普段清潔にしとらんからだ!ってそりゃもう酷い言いぐさ。だからこないだお祖父ちゃんが水虫になったって聞いたとき、その言葉そっくりそのままお返ししてきちゃった」
………。
「デイケアで感染されたらしいよ。もう、美那から聞いたとき笑いが止まんなくて。でも病室で大笑いしてたら、さっきみたいに注意されるでしょ。しかもその時は4人部屋だったし、もう声潜めるのに必死」
「私達って空気よむよねー」
「ねー」
と、歳の離れた姉妹は顔を見合わせてまた笑った。
あんなに深刻に悩んでたのに、こんなオチってあるんだろうか。
そして高田君からは何の反応もない。
うつ向いて一気に話し終えたあたしは、ソロソロと彼の様子を窺った。
怒りはしないと思うけど、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れるかな。せめて笑い飛ばしてくれないかな。
そう思って見た彼は、左手で顔を覆ってうつ向き、安堵のため息をついた。
「宮野の曾お祖父さんには悪いけど、そんな話で本当に良かった。お前には大丈夫だって言い続けてたけど、万が一って事もあるから」
そのホッとした表情を見て、ホントに心配かけてたんだ、って胸が一杯になった。
「ごめっ…、ごめんね。つまんない勘違いしたから、心配かけた」
あっという間に涙がポロポロ溢れてきて、高田君がギョッとして腰を浮かせるのが見えた。
次の瞬間、彼の胸に顔を押しつけるように抱きしめられ、あたしは声を震わせ、彼にしがみついて泣いた。
なんかもう、こんなとこに誰か来たらどうしようとか、声が外に聞こえるかもとか、色々頭の中を駆け巡ったけど止まんなかった。
しばらくむせび泣いて、その間彼はずっと背中を叩き、あやし続けてくれていた。
「ずっと緊張してたんだろう?すっきりした?」
涙の止まったあたしに、彼はそう言った。
ううん、泣きすぎてむしろなんかボーッとする。
そしてあたしは彼の制服から顔をあげられない。
どうしよう。あたしの放出した涙やらなんやらで制服が大惨事になってるよ。
硬直したあたしの頭を撫でながら、彼はあたしの耳元で囁いた。
「宮野が勘違いしたから、俺たちは知りあえたんだよな。それがなかったら俺はお前のこと、まだ安藤の友達としか認識できてない」
だから、悪い事ばかりじゃなかったと思ってる。彼はそう言って笑った。
「ねぇ、安藤さんももちろん無事に帰って来てるんだよね?」
高田君も帰ってきてるし、無事なのは分かってるけど。
「ああ、戻った次の日は1日寝てたみたいだけど、学校にはちゃんと来てる」
あたしの手術の日は金曜日で、二人が召喚されたのも同じ日の筈だ。今日はもう水曜日。
「そっか。……あたし考えてたんだけど、退院したら会いに行って、名前で呼んでみようかな。しーちゃん、とか?」
大惨事がバレないようにしがみついたまま見上げて言うと、高田君はコクリと喉を鳴らし、何故か一瞬目を逸らした。
「ん、いいんじゃないか?にゃんが見つからなくて落ち込んでるから、喜ぶと思う」
「にゃんを!?探してくれてるの?どうやって?」
吃驚して叫ぶと、彼は首を傾げた。
「さあ?帰ってきてからは、簡単な報告を何回かしあっただけだから…」
あ!とあたしは思い出した。
安藤さんに、無くさないでね、と渡されたハンカチ!
ベッド脇のTV台についた引き出しを開ける。
朝、突っ込んだままだったそれをもどかしく広げて、あたしはまた泣きだしてしまった。
さっき泣くだけ泣いて、もう涸れたと思ったのに。
あたしの手元のそれを覗き込んだ高田君も絶句した。
そのハンカチには、恐らく油性のマジックで、黒々と。
『この猫を見つけて下さった方は、連絡して下さい。すぐに迎えに行きます。
大切な大切な猫です。どうかお願いします』
その文章とともに、安藤さんの名前とスマホのアドレスが書かれていた。
「どうしよ、ね…どうし…たらいい?こんな、本気で…探して、くれて…なんて」
しゃくりあげるあたしの背中を擦りながら高田君は、落ち着いて、と声をかけてくれる。
誘導されるまま深呼吸を繰り返し、ようやく息が整ってきた時に彼は言った。
「この件は俺に任せて。安藤が泣かないように、にゃんを心配し続けなくていいようにちゃんとするから」
「そんな事……、できるの?」
「少し準備がいるけど大丈夫だから、お前も心配するな」
少し笑いを含んだ声で、彼はあっさりそう言った。
あたし、こんなに何もかも彼に任せっきりでいいんだろうか。何だかものすごく甘やかされてない?
そう思う一方、もうこれで大丈夫、って安心感でいっぱいになる。
これはにゃんだった時に、助けてもらう度にいつも感じてた気持ちだ。
今も額を撫でる彼の指先を感じながら、立て続けに欠伸を三回。
「今日戻ってきたばかりだし、いっぱい泣いたし疲れたよな。ゆっくり眠るといい」
耳に心地いい声を聞きながら、あたしは本当にいつの間にか眠ってしまっていた。




