聖女さまの聖猫さま «1»
ぽっかりと目が開いた。
身体が怠い。
視線だけを動かして辺りを見回した。
白い天井。白い壁。見覚えのない部屋。
点滴のチューブ。
病院だ。
「あかりちゃんっ!?」
ベッドの足元の椅子から立ち上がったのは叔母さん。
「やっと目が醒めた!ほんとに心配かけて!私が分かる?」
頷くと、お姉ちゃんに連絡しなきゃ、と言いながらナースコールを押し、やって来た看護婦さんと話して部屋を飛び出して行った。
後できっちり説明してもらうからねっ!と言い置いて。
一体何を説明?
こっちが色々訊きたいんだけど?
さあ、それからが大変だった。
看護婦さんに続いてお医者さんが飛び込んで来て、しばらくしてからまた別のお医者さんも小走りでやって来た。二人はあたしの手術を担当した麻酔科の先生と、執刀医の先生だったらしい。
結論から言うと、あたしは手術後5日間、原因不明で眠ったままだったそうだ。
寝返りも打つし、寝言も言う。まるっきり普通に眠ってるだけなのに、目は醒めない謎の状態。
あたしに麻酔を打った先生は、もう医者を辞めると言い出し、うちのお父さんは病院を訴えると息巻き、中々の阿鼻叫喚だった、というのは後から聞いた話だ。
ともかくそんな事とは知らないまま目が醒めた直後、ミナちゃんから連絡を受けてすぐ駆けつけてくれたお母さんに、あんたなんでそんなに寝ぼすけなの!と怒られたのは全く意味不明だった。
けどそれで、つい最近も寝ぼすけって言われたような……と考えて、そうだ、教主サン!と思い出した。
モゾモゾと上掛けの中で右手を探り、少しだけ持ち上げて見てみると、手首にキラキラ光る白い髪が巻き付いている。左手には安藤さんのハンカチを握りしめていた。
夢じゃなかったのか……、と思った。
お母さんが来てから三人で少し話し、ミナちゃんは自分の家に帰っていった。
お母さんも、お父さんの携帯とそれぞれの実家とに連絡しにロビーへ向かい、一瞬誰もいなくなった病室で、あたしは右手を上掛けから取りだし掲げた。
無事に着いたらこの髪を千切れ、って言われたな。
けど帰る直前になんだか苛められた事まで思い出してしまった。
どうしようかな、と輪っか状になった髪を指先に引っかけてクルクル回しながら考え、すぐに反省した。
あたしが分かったような顔で言った事が彼の逆鱗に触れて怒らせた。
だけどあのあと謝ってくれたし、こうして無事に送り返してもくれた。
ちゃんと元の世界に帰れたよ、って連絡しないとみんなに、……それから教主サンにもきっと心配をかけてしまう。
輪っかに両方の指を引っかけて左右に引っ張ると、それは驚くほど呆気なく千切れ、熱くない炎でジュッと燃えてしまった。
うわーーっ!こっちの世界でも魔法って有効なのかな?それとも教主サンの力が特別なのか?
そういえば、一人で教会の偉い人何人分もの力がある、みたいな事言ってたもんね。
半ば呆然としている時にお母さんが戻ってきたから、ハンカチは取りあえず引き出しに突っ込んだ。
それから午後一番で幾つかの検査を受け、会社を抜け出してきたお父さんに泣かれ、麻酔を打った先生が改めての謝罪と共に、検査の結果を伝えに来た。
結果は、ちょっと栄養が不足気味という以外は、至って健康だった。
手術の経過も良好で、何も問題なし。
謝罪しつつ、ホッとしつつも何か腑に落ちないといった表情のお医者さんに、あたしの方が申し訳なさでいっぱいだった。
そして元々手術後1週間入院の予定だったのを念のため1日余分に、あと2日間このままお世話になる事になった。
起きたばかりの時は身体が怠かったけど、すぐに治まった。トイレも自分で行ける。
ただ、人間の身体の感覚がとてつもなく久しぶりで、何をするにも最初違和感があるのが奇妙だった。
それから、トイレの手洗いで鏡に映った自分を見たときは驚愕した。
なんだか病的にやつれててさ。
5日間点滴で過ごしだけでこんなになるんだ?
食事は今日1日は流動食だって言われてて、全然食欲はないんだけど、早く普通の物が食べられるように頑張って食べよう、と思った。
夕方お母さんが帰ったあと、ミナちゃんがもう一度やってきた。
また来たの!?、と吃驚するあたしにキラキラ目を向ける。
「さあ、全部白状してしまいなさい!あのイケメンは誰なの?」
ミナちゃん、唐突過ぎて話が見えません。
困惑するあたしに彼女は詰め寄る。
「しらばっくれても無駄よ!幾ら生徒会長だからって、学年も違う一生徒が入院した程度でわざわざお見舞いにくる訳ないでしょうが。それも毎日!」
「は?生徒会長!?何の話?」
ミナちゃんはあたしをマジマジと見た。
「え?本当に心当たりないの?」
いや、心当たりが無い訳じゃないよ。お見舞いに来てくれたイケメンていうなら、それ絶対高田君だよ。いや、多分そうだと思う。
けど、生徒会長って!?
生徒会長ってあの奇跡の生徒会の!?
そんなの、聞いてないよーーー!?
内心の動揺を隠せないあたしに、彼女は言った。
「あかりちゃんの手術の日から毎日来てくれてるんだけど?初日はまだ普通に麻酔が効いてて会わせられなかったけど、それっきりあかりちゃん全然起きないから。病室もこんなとこに移されちゃうし、いつも部屋の前で帰ってもらっちゃってたのよ」
あたしの部屋は今、ナースステーションの隣の部屋だ。目が離せない患者、って事で大部屋からここに移されたらしいんだけど、もう意識も戻ったし一般のベッドが空き次第引っ越す事になっている。
「今日もそろそろ来ると思うよ。知らないなら追い返そうか?」
「ダメだよっ、追い返すとかっ!」
慌てるあたしにミナちゃんは目を丸くした。
「なんだ、やっぱり知り合いなんじゃない。どこで知り合ったのよ?あ、学校か」
自分で訊いて自分で答えてる彼女に胡乱な目を向ける。
「ミナちゃん、さては高田君が来るの分かってて、この時間に来たね?」
「そうそう、確か高田君だったね」
にんまりする彼女に、しまった、と口を押さえたけどもう遅い。
「心配しなくても邪魔なんてしないよー。顔を拝んだらサッサと帰るから。報告は明日聞かせてもらうからね」
それから思い出したように付け加えた。
「それと、かのちゃんも一回お見舞いにきてくれてたよ?その時イケメンとはち合わせて、何か喋ってたみたい」
「かのちゃん?わかった。ありがと、また連絡しとく」
かのちゃんは家も近所でちっちゃい頃から一緒だから、ミナちゃんもかのちゃんの事は知ってるんだ。
けど、かのちゃんが高田君と何の話だろ?
首を捻ったところにドアをノックする音が響いた。といってもドアは開け放してある。
角度の関係でベッドからは見えないけど、ミナちゃんのいる場所からは丸見えの筈だ。
「あら、まあまあこんにちは。いつもありがとうございます!」
ミナちゃんの声が2オクターブくらい跳ね上がった。
「いえ、毎日お邪魔してしまってすみません。今、看護婦さんに、宮野さんの意識が戻ったと聞いたのですが」
高田君の声だーーーっ!
うっわ、どうしよう。全然心の準備ができてないよ。
「ええようやく目が覚めたんですよ、本当に寝ぼすけで」
「いや、安心しました」
「どうぞ入ってくださいな、あかりちゃんーー!?……何してんの?布団被って」
いやいや、だから心の準備がね?
てゆうか、あたし何回寝ぼすけって言われるんだろう。
ミナちゃんはつかつかとベッドに近づいて、布団の端を僅かに捲った。
中で縮こまるあたしに小声で、やっぱり帰ってもらう?、と訊くので仕方なく顔を出す。
帰って欲しい訳じゃなくてさ、心の準備ってやつなんだってば。
その時ミナちゃんの後ろから声が聞こえた。
「宮野……。出直して来ようか?」
「や、ちょっと待って!」
咄嗟に声が出ていた。
ミナちゃんは、あたしと高田君の顔を見比べてニッと笑うと、冷蔵庫に飲み物入ってるから飲んでもらいなさい、とあたしに言って、ごゆっくりー、と手を振り出ていった。
「今の人はお姉さん?」
ドアの方を見ながら高田君が言った。
「ううん、ミナちゃんは叔母さんだよ。叔母さんって呼ぶと怒るからミナちゃんって呼んでる」
モゾモゾと上半身を起こし答えると、若いな、と彼は目を瞠った。
「お母さんと12歳も離れててね、あたしとは10歳しか離れてないんだ」
ふーん、と言いながら彼は近づいてきた。
どうしよう。猫の視点じゃないからかな?
髪も、向こうではちょっと長めの無造作ヘアって感じだったのに、今はさっぱりと短かめで、それはそれでかっこいいけど、何か雰囲気が全然違う。
どうして向こうでは普通に顔を見て喋れてたんだろう。
彼はベッドの縁に手をつき、うつ向くあたしの顔を覗き込んだ。
「無事に帰って来れたんだな。良かった」
目を細め、ホッとしたように微笑った。
そっと手を伸ばし、あたしの髪に触れる。
袖口が目の前にきて、その時初めて彼が制服を着ている事に気づいた。もちろん見えてたんだけど、今やっと意識した。
と同時に自分の格好に思い至った。
入院してるんだから当然寝巻きだ。部屋から出るときは上着をはおるけど、ベッドの上にいる今はパジャマだけ。
しかもファンシーなウサギ柄ときている。
ないわー、なんでよりによってこの格好よ。
思わず、上半身を起こしたまま首まで上掛けを引っ張りあげ、ついでに顔も隠した。
恐ろしくやつれてる事まで、今思い出してしまった。
頬が痩けちゃってて、さっき自分でも吃驚したレベルだからね。
これ、人様に見せるのはまずいんじゃない?あらゆる意味で。
けど突然のあたしの奇行に彼は動じなかった。
「どうかした?」
ベッドに腰かけて、上掛けの上からやんわりとホールドし、ポンポンと優しいリズムで背中を叩く。
それはにゃんだった時に、何度も覚えのある仕草で。
ああ、高田君だ。
髪型が変わっても、やっぱり高田君だよ。
なんだか安心してしまっておずおずと顔を出した。
パジャマで恥ずかしいとか、やつれてる事とかを訴えると、そんなの今更だな、と彼はベッドの枕元に畳まれたカーディガンを取ってはおらせてくれる。
何が今更?
「……向こうでずっとお前、パジャマだったし」
「うそっ!?」
叫びながらあたしも思い出していた。向こうで一瞬人間に戻ったとき、確かにパジャマだったわ。
あたし高田くんの前で、ずっとパジャマでウロウロしてたのかーーっ!?
ほんと、ないわーー。
がっくりするあたしに、彼はクスッと笑みをこぼした。
「それと宮野、どうして俺が早く帰したがるのか知りたがってただろう?」
「うん、こっちに戻ってから教えてくれるって言ってたね?」
首を傾げると、彼はあたしの左手を両手で掬いとるように包み込んだ。
「最初お前が森に現れた時、とても健康そうに見えた。それが日がたつにつれ、どんどん痩せてきて、頬が痩けて、隈が目立ってきた」
今みたいに、と目の下を親指の腹で撫でる。
「お前は頑なに食べない、何も要らないって言いはってたけど、生きてるなら食べ物も水も必要ないなんてそんな筈がない。それにーーー」
高田君は不意に、あたしの下半身を覆っていた上掛けを払いのけ、膝裏と背中を支えてフワリと移動させた。彼の膝の上に。
これもにゃんだった時によくされてたけど、あの時より彼が近くて、ほぼ真横に顔がきてるんですがっ!
彼はあたしの赤く染まった首筋に顔を埋める。吐息が耳を擽った。
「向こうでのお前は本当にただの猫くらいの重さしかなくて、だから実体じゃないんだ、と納得するしかなかった」
ああ、確かに凄く軽く抱き上げられてたもんね。
見た目は人間、重さは猫、だったのか。
「だとしたら、実体はどうなってる?
お前は元気に走り回ってるのに、見た目がこんなに痩せ細ってくるっていうのは、実体が弱ってるからじゃないのかと心配になった」
うん、確かにいつも心配そうに見られてた記憶しかないわ。




