降り積もるこの仄かな想いをにゃんは認めない。
ゼスさんたちは後宮の1階北のエリアで、奥まった一室の床に膝をついていた。
「こんなところに……っ!」
敷物はあからさまにずれて床板が剥き出しになっている。
それらはユトさんが部屋に足を踏み入れた途端に現れたものだ。
「なんでこれで気づかなかったんだ?」
あとから部屋に入った高田君はその瞬間を見ていない。不思議そうな彼の声に答えたのはユトさんだった。
「今まで認識不可の魔法で隠されてたんだよ。俺にはあいつらの魔法は効かないんだ。それに研究所にいたとき散々相手したから、あいつらの手の内は知ってる」
ゼスさんははめ込まれた、床板に模した蓋をそっと外した。下は腰の高さ程の床下になっていて、少しずれたところに闇が顔を覗かせている。
ユトさんが小さな炎をポツポツと灯すと、そこに浮き上がって見えたのは、直径2Mもなさそうな暗く深い螺旋状の闇。
狭い階段が渦を巻き底へ向かっているけど、数えられるのは僅か数段。その先は闇に沈んでいる。
何処まで続いているのかもわからないほどの真の暗闇だった。
みんながその闇に意識を向けたその時。
高田君が躊躇いがちに口を開いた。
「あのさ、ーーーここまで来ておいて今更なんだけど…、俺は人間相手の戦いで役にたてる気がしない」
申し訳なさそうに告げるその言葉に、ユトさんが破顔した。
「なんだ、そんな事当たり前だろう?」
ゼスさんもソルハさんも頷いた。
「お前たちは平和な国からきたんだろ?無理矢理連れて来られた国で、そこの倫理感に合わせる必要はねぇぞ。お前が人間相手の戦いに抵抗があることはわかってる」
「そうですよ。だからさっき謁見の間を襲った魔物たちも、誰かに怪我を負わせる前に早々に浄化したのでしょう?もう少し脅してからでも良さそうなものだったのに、アンドウさんは随分浄化を急いでいた」
ソルハさんの言葉は何げに黒かった。
でも、そうなんだよ。あのとき安藤さんは確かにちょっと急いでたと思う。
そんなに違和感があるほどでもなかったけどね。だって謁見の間があの状態だったし、幾ら慣れてても気持ち悪いのは一緒だもん。
だけど高田君はこう言った。
「いや、あの時の魔物は……、Lv.1といっても分からないだろうな。万が一にも関係無い人に怪我をさせるのは嫌だったので、見かけはあんなだけど戦闘力は殆どなかった。それこそ子供が鍋を持って戦っても、子供が勝つんじゃないかな?
そんな風に創ったので、誰かが抵抗してそれがバレる前に浄化するよう、安藤に頼みました」
なるほど、と納得するソルハさん。
勇者ってこんな平和主義なもんなのか、と笑うゼスさん。
そして、ユトさんは高田君に向き直った。
「そこで、だ。そんな器用な事ができるタカダには、ここで重要なミッションがある。これはタカダにしか出来ない事だからな」
そう言ってユトさんは、高田君に幾つかの指示を出した。
最初黙って聞いていた高田君の顔はだんだん渋くなり、ちょっと待て、とユトさんを押しとどめる。
「そこまでする必要があるのか?」
「あるある!相手はか弱い女性たちだぞ。気を遣って遣いすぎることはない!」
きっぱり告げるユトさんに高田君は、俺には難易度が高すぎる、と呻いた。
「頑張れよーっ!後でみんなに感想を聞くからな」
ユトさんはニコニコと手を振って闇へと身体を滑り込ませる。
その足元を照らすのは小さな炎だけだ。
続いてソルハさん、最後にゼスさんがそれぞれ、お願いしますね、頼んだぞ、と言葉を残して闇へ降りていった。
高田君は傍らの黒い馬を見上げ、お前に丸投げしてもいいかな、と呟き、奴にそっぽを向かれて途方にくれていたのだった。
ユトさんが高田君に指示を出したとき、付け加えていた言葉がある。
もしも、自分の身に危険を感じたらすぐに退避するように、と。
俺たちの事も、女性たちの事も気にする必要はない。自分達の世界へ帰らなければならないことを忘れるな、と。
こんな状態で、それを口にすることができるユトさんをあたしは尊敬する。
それを肯定できるソルハさんもゼスさんもね。
あたしは思う。
こんなに優しさにあふれた人達ばかりなんだもの。きっと誰か一人くらいは、この世界に居残る可愛い猫を引き取って面倒見てくれるだろう。うん、きっと。でもできたらユトさん希望で。
リアル王子様だしさ。
その時ふと、あたしの頭をよぎった誰かさんのことは考えない事にした。
だってあたしは帰れないんだから。
そして。
暗い闇の中で、不安定な足元を気にしながら密やかに彼らの会話は続いていた。
急な階段だから、先頭のユトさんと最後のゼスさんの頭の位置はかなーり離れてたんだけど、そこは魔法の風でお互いの声を届けたりしていたらしい。だからヒソヒソ声でもちゃんと会話になっていた。
魔法って便利だよね。
ユトさんが気になっていたのは、ゼスさんが言う要石のこと。
問われたゼスさんが言うには、彼が王女の護衛になる前に傭兵として大陸中を放浪していて、その時辺境の小さな国でそういった物を見たのだそうだ。
お祭りの一貫として行われるそれは、もちろんこのお城とは全然規模が違う話だし、ここへ雇われて例の言い伝えを聞いたときにも何も思わなかったけど、この騒ぎで連中が後宮へ逃げたと知り、実際お城が揺れ出した時にそれだと思ったのだって。
ただ、ゼスさんはその小さな不思議な国の話を以前アイシャ王女にもしたことがあるらしく、もし王女がそれを覚えてたら、そして崩れ行くこのお城と結びつけてしまったら、敵に変な抵抗をするかもしれないと気にしている。
それがあんなに取り乱してた理由だったのかな?
お城が最初に揺れだしてから、この時点でまだ一時間もたってないと思うんだけど、もう時間の感覚があやふやだ。
でもゼスさんが知ってる仕掛けでは、完全に潰れるのにこんなに時間はかからなかったんだって。
むしろ一瞬。
そもそも規模が違うんだから、このお城の場合違う仕掛けを使ってる可能性もある。もし一緒だとしても、発動させるのに手間がかかるとか?
或いは単なる計算ミスかもしれないけどね。
あたしとしては、お城の人たちが逃げる時間があってホントに良かったと思うよ。
そしてソルハさんが気になってるのは、連中がこのあとどうするつもりなのかってことだった。
今通ってる階段以外に、お城の地下からの脱出口はあるのかとか、もし出口がないのなら何を考えてそんなところにたくさんの人を連れて行ったのか、とか。
これの答はユトさんが知っていた。
第2部隊の中には転移能力者がいるんだそうだ。
ただ、あまりたくさんの人数を連れての転移はできないし、続けて何度も転移することもできない。距離にも制限があるから、最後の脱出のために温存しているんだろう、ってことだった。
国王はあの状態だったんだから、この一幕の裏で糸を引いているのは師団長しかいないもの。師団長は自分にとって都合のいい人間だけを連れて逃げるつもりに決まってる。
第三妃様や女官たちが置き去りにされるのは目に見えてた。
だから早く、この通路が使えるうちに迎えにいかなければならないんだ。
ユトさんは言った。
気をつけないといけないのはこの転移能力者が魔法を使って逃げる事だけ。あとの連中の魔法はユトさんには効かないし、魔法だけが取り柄の彼らは、腕力はからっきしなのだそうだ。
直接戦えば絶対勝てる、と大層自信がおありのようす。
それで、ユトさんが第2部隊と戦い、ゼスさんが近衛師団長を抑え、ソルハさんが人質たちを解放する、という大まかな作戦が決まり、細かいことは状況を見て臨機応変に、と大層大雑把な作戦会議は終了したのだった。
でも何ヶ月も一緒に旅して、背中を預けて戦ってたんだから、その辺の呼吸はよく解ってるってことなんだろう。
あ、
ゼスさんの気になってる事はアイシャ王女だけだと思うよ。
態度で丸わかりデスから。
そんな感じで、高田君と奴が後宮の中の地下への階段前で待機して、ユトさんたち三人が地下へ向かいつつある頃、あたしたちはようやく全ての石像を乗り越え、ぜえはあしていた。
いや、あたしと騎士さんたち以外の皆様がね。
もうみんなこの時点で手足は擦り傷や切り傷だらけになってて、ボロボロだった。拳くらいの石が落ちてきて肩に当たった人もいる。躓いて転んじゃった人もね。
でも休んでる暇なんてないし、みんな力を振り絞ってまた歩き出した。
階段はもう、すぐそこなんだから。
***
「いい加減そこを退けぃ!」
男の怒りに満ちた声が地の底に吸い込まれて消えた。
城の地下にぽっかりと広がった空洞は、澱んだ空気と頭上から絶え間なく響く震動に支配されている。
ふん!とそれは鼻を鳴らした。
「退くわけがなかろう!」
小柄なその身体の後ろに、母親も、女官たちも、虚ろな目の父親さえも庇って、足を踏ん張って立っていた。
連行される途中で逃げ出した近衛師団長と彼が率いる第2部隊の男たちは、怒濤の勢いで後宮を襲い、たちまちその閉鎖された空間を制圧した。
師団長はギョロリと血走った目で母娘を睨みつける。
「鬱陶しい奴等が追ってくるやもしれんからな。貴様らは人質だ。地獄の果てまでついてきてもらうぞ。特にアイシャ王女、お前には躾が必要だ。覚悟しておくがいい!」
第三妃と王女は女官を人質に取られ、女官たちは主たちを人質に取られた形で無理矢理地下への階段を下らされた。
ささやかな灯りと足先の感覚だけを頼りに果てしなく思えた階段を降りきると、石組みで作られた広い空間が広がっている。
魔法の明かりが煌々と灯され、師団長の指示で男たちが壁際で何かを始めた。
すると足元が揺れた。轟音と共に。
城が終わるーーー。
彼女たちはみんな言い伝えを知っていた。
だから、例え理屈は分からなくとも、崩壊を肌で感じた。
絶望に顔を歪ませる女官たち。そして妃。
けれど一人王女はそのからくりに気づいた。
連中が何をしているのかをよく見れば明らかだ。
彼女は以前教えてもらった小さな国の不思議な祭りを思い出した。
彼女はその不自由に慣れた視界で、辺りの壁を見回す。
ここにもある。
連中がさっきから力任せに引き抜いている楔型の石。
1つ引き抜く毎に揺れが酷くなる。
全てを引き抜かれたら終わりだ。
そう直感した。
彼女は忙しい連中にほったらかされていた父を、母を、女官たちをその前に集めた。
この石だけは守らなくては。
時間の問題かもしれないけれど、それでも。
城で働く多くの人々が逃げる時間を稼ぐために。
王女は足を踏ん張り、それの白目の方が大きい濁った瞳を師団長に向け睨みつける。
***
疲れのためかみんなが押し黙ってしまった中、最初に言い出したのは安藤さんだった。
漸く辿り着いた階段は狭く、縦一列になって騎士さんの後について降り出した時の事だ。
「私、ここを無事に出たら、チコリのお菓子を食べるっ!」
チコリっていうのは、こちらの世界の甘酸っぱい果物で、これを使って作ったクッキーみたいなお菓子は癖になる美味しさらしい。
安藤さんが嵌まったのを知ったゼスさんが、買い出しで見かける度に買ってきてくれて、安藤さんは、嬉しいけど体重がああ、と唸りながら食べていた代物だ。
安藤さんの言葉を聞いた文官の若いお姉さんが、ああっ私もチコリ好きっ!私も食べたい!と叫び、そのあとは次々に、俺は無事に出られたらカダの酒を呑みに行くぞ!とか、私は一度カズイのフルコースを食べてみたかった。ここを出たら絶対食べに行くっ!とか叫び出した。
いやあぁぁっ!これなんかのフラグ立ててんの!?
やめてっ、そういうのは無事にお城から脱出してから考えたらいいんだよぅ。
安藤さんの服の中、嫌な予感ビシバシで涙目のあたしの後ろで、本日カップル成立したと思われるお二人が、デートの約束なんかしちゃってるんですけど!
マジ不吉すぎるんでやめて下さいっ。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。