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48 斎藤美智花という人間

 私は臆病な人間だ。


 私は大きな声を出すのが苦手だった。人前で目立つことに恐怖していた。注目されるのが怖いから、常に目立たない行動をしようとした。

 いつからこうなったのだろうか。小さい頃はそうじゃなかった気がする。


 運動会のリレーでビリになったことがある。そのときは誰もやろうとしないアンカーを、消去法で選ばれて、断る勇気がなかった。みんな嫌なのが分かったから、自分だけ逃げることが出来なかった。

 私の番が回って来たときは、既にチームは一周遅れで、走っているのは私だけになっていた。「頑張れ頑張れー!」とそこかしこから声援が聞こえる。大人もクラスメイトも先生も、声を張り上げて応援した。私は頭が真っ白になり、ただ走るしかなかった。頑張るしかなかった。無我夢中で走っているつもりなのに、腕の振りだけが速くなるばかりで、足の遅さと致命的にずれていた。気持ちだけがはやってて、前のめりになりすぎた。そしてトラックのカーブのところで、足を滑らせてこけた。


 全力で走っていた為、こけるときの勢いもかなりのものだった。「ああっー」と私を心配する声が上がる。足がじんじんする。立とうとしたとき、膝とすねに大きな擦り傷が出来ているのがわかった。ぽつぽつと赤い血がにじんでくる。傷口がどんどん熱くなる。「頑張れー!」という叫び声が悲壮感を帯びてさらに大きくなり、私を恐怖させる。もう、これ以上何を頑張れというのか。ここで私が走っても、勝敗は既に決しているというのに。何なんだ、これは。私は何の為に走っているんだ。


 私は立ち上がり、走る。歓声が上がる。やめて、それ以上は、もうやめてほしい。傷ついた足はうまく上がらず、走る速度はさっきよりずっと遅くなった。痛い、熱い、涙が出てくる。それでも、歩くことが許されなかった。周りから私を応援する声が聞こえるから。この応援の声がとても怖かった。私は、一人だ。こんなに応援されているのに、誰も助けてくれない。私は一人で走りきらなければならない。あと100メートル以上残っている。

 まだ半分も終わっていないことに絶望しながら、私は早く終わってくれることだけを考えた。そこからゴールするまで、おそらく30秒くらいしかかからなかっただろう。でも、その距離は私にはとても長く苦痛な道に感じられた。


 私は怖かった。人前で目立つのが怖かった。周りの声が怖かった。応援されるのが怖かった。

 だから私は目立つような真似をしないようになった。昔は足が速かった方だと思う。だけど全力で走らなくなった。歌がうまいと褒められたことがある。だけど合唱のとき、声を出さなかった。テストでクラスで唯一100点取ったことがある。だけど、それを先生が大げさに褒めたから、わざと間違えるようになった。

 私は、能力を偽るようになった。自分の意見を言わなくなった。そういう小細工をしていたら、本当に勉強が分からなくなって、ついていけなくなった。クラスメイトにも受動的に、消極的に接していたら、いつの間にか一人になってた。


 いつしか全てのことが人より出来なくなった私は、誰からも守られなくなり、いじめや嫌がらせを度々受けるようになった。靴隠されたり、足を引っ掛けられて転んだり、意図的に置いていかれたりハブられたりして笑いものにされた。私は反抗する勇気もなかったから、格好の標的だったんだと思う。それでも目立つようないじめが無かったのは、まだ救いがあったのかもしれない。


 いじめを相談できず、人前で泣くことも出来なかった私は、ある日限界が来て、母親に風邪と偽り休んだ。別に体調が悪くないのに朝から布団に潜り込み、風邪のふりをして動かなかった。心配した母親が粥を作ったのだけど、鉛のような味がして、2、3口食べたらもう胃が受け付けなくなった。次の日も私は休んだ。


 一週間学校を休み、もう風邪と偽るのも限界になった私は、遂に登校することにした。目立ちたくないのに、あまりにも私は長い間休みすぎた。登校する足取りは重く、それでも黙々と歩き続けた。そのときの気分は、あのリレーの残り100メートルと同じように思えた。

 私は学校に入ると、先生が大きな声で挨拶し、「風邪治ったんだな!休んでいる間心配したぞ!」と声をかけてきた。私は小声で「いえ、もう大丈夫ですから…」と言い、会話を続けずに足早に教室に向かった。多分先生は本当に心配したんだと思う。だからこそ、責められているようで怖かった。


 私が教室に入って見たものは、私の机に花瓶が置かれていることだった。誰かが悪ふざけでやったんだと思う。でもこれまで靴を隠されたりはしてたけれど、初めて目立つところで悪戯をされた。私は頭が真っ白になり、席につくことも出来ず、呆然と突っ立っていた。

 既にクラスメイトの半分以上が教室にはいたけど、誰も花瓶を片付けようとはしなかった。「うわ、サイテー」とか「誰の悪ふざけ?」とか言ってた人はいたけど、誰も花瓶を片付けようとはしなかった。遠巻きに見ていただけだ。私は呆然と突っ立っていただけで、いつもより教室は静かで重い雰囲気だった。クラスメイトの視線が刺さる。同情しているのか、卑下しているのか分からないが、私は注目されていた。それは私にとって、殴られるより辛い暴力だった。


 やがてホームルームになり、先生が入ってきて私の机の上に置かれた花瓶を見つけた。それを見るなり先生は激昂し、「誰がこんなことやった!」と叫んだ。その後、怒った先生は「悪ふざけでもこういうことはするな」と説教をし、「正直に名乗りでろ」と犯人探しをした。当然、誰も名乗りでる者がいなくて先生は「卑怯者!」と叫んだ。教室の空気が今までで一番重く、痛く感じた。犯人が分からないから、被害者の私だけがクラス中に注目されていた。それがとてつもなく怖かった。

「誰がやったか、目撃情報があれば先生に伝えろ。誰が言ったかは秘密にするから」と言って、ホームルームを終えて先生が出て行った。その後も全く犯人は分からなかった。クラスメイトは何人かは知ってそうな雰囲気をしてたが、誰も言いにいかなかった。誰も私の味方をしてくれる人はいなかった。私は犯人がいつもいじめをしているグループだと思っていたが、言いにいく勇気もなかった。


 登校と不登校を繰り返し、中学校を卒業した私は床野見高校に進学した。偏差値30台の底辺校…そこしか行ける学校が無いほどに、成績が落ちていた。

 入学する前日に美容院に行き、母親が綺麗な髪だと褒めてくれた長い髪を切った。高校デビューだと言ったけど、本当に変われると思ってやったわけじゃない。単なる逃避だった。母親はそれも似合うわよと喜んでくれたけど、少しも嬉しくなかった。


 それでも高校に入れば殆どが中学校とは縁の無い生徒になる。新しい環境が築けると思っていた。今度こそ、目立たないように、失敗しないように振る舞おうと思った。


 1年7組。私のクラスはそこだった。教室に入って愕然とした。中学校のときに私を虐めていたグループがそこにいたのだ。長い髪を切ったからか、今は気付かれてないようだが、自己紹介で気付かれる。そしたらもう終わりだと思った。

 そして最初のホームルーム。自分の自己紹介の番が来て、人生が終わりそうな気分で立つ。


「ふ、ふ、ふ…」


 声が出ない。息だけが出る。死にたい。


「ふ、吹ちゅ、吹津中学の斎藤美智花(さいとうみちか)ですっ……」


 噛んだ……致命的に噛んだっ……!絶対微妙な空気になった。死にたいっ……!

 そのまま席に座り、高校生活が終わったことを感じる。あのリレーのときと同じだ。一度転んだら誰も助けてくれない。誰も手を伸ばしてくれない。口では応援されるけど、結局は自分一人で立ち上がり、最後まで自分一人で走りきらなきゃいけない。

 もうおしまいだと思った。ホームルームが終わり、もう帰っていい時間になった。後ろから視線を感じる。怖い……見られるのが怖い。私は誰にも話しかけずに、そのまま一人で帰ろうとした。

 だけど、そんな私に声をかける人がいた。


「斎藤さん。よかったら一緒に帰らない?」


 私の後ろの席に座っている子だった。眼鏡で、私より背低い。鋭い視線と、後ろできっちり結んだ長い髪が、凛とした真面目な印象を与える。


「あ、えっと……」

「後ろの席の佐藤よ。佐藤良子。よろしくね」

「あっ、はい。よ、よろしく」


 佐藤良子という、平凡な名前の少女。この底辺学校とは釣り合わないほど大人で落ち着いた印象で、とても私を誘うような人には見えなかったけど、真っすぐな瞳は私を射抜いていた。


「ごめんなさい、何か他の人と約束あった?」


 私が次の言葉に詰まっていると、逆に謝られてしまった。もちろん他の人と約束なんてあるはずない。私は一人なのだから。


「ああ!いえ!そういうんじゃないです!ご、ごめんなさい!」


 私は謝罪する。でも私はどう接したらいいか分からなかった。彼女の感情が読めない。その表情はあざけりも侮蔑も含んでいるようには見えなかった。平然とした無表情だ。

 ちらっと彼女が後ろの方を見た。その視線の先には、中学のときのクラスメイト、私をいじめてたグループの子がじろりとこっちを見ていた。あの目が…あの目で見られるのが怖い。私は足が動かなくなり声も出せなくなった。

 そんな私の手を、彼女が突然握りしめた。


「さっ、いきましょ」


 平然と言い放ち、私を引っ張って教室を出ていく彼女。その手はちょっと冷たくて、私の手は汗ばんでいたから恥ずかしかった。でも、彼女は手を離す事は無かった。

 無表情で、何を考えてこんなことしているのか分からない。

 でも、その彼女の冷たい手はだんだんあったかいなと感じはじめた。

斎藤さんは対人恐怖症で視線恐怖症でした。良子と違って鬱思考全開です。

周りからの応援を重荷に感じるタイプなので、ただ側にいて手を握ってくれるだけの人の方が救いになるのです。

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