一夜明け
銀と黒の影。
目を覚ました俺が見た最初の色だった。そして白薔薇とヴァーベナの香りが俺を包み込むと、間髪入れず両頬に痛みが走った。大きな瞳に涙を溜めた二人の手が俺の頬に食い込み、肉を引っ張ったのだ。しかしそれも一瞬で解放され、二人は俺の無事を喜び声を上げ泣いてくれた。
その後落ち着きを取り戻した二人から、謎の鋼騎との一戦後、意識を無くし宙を漂っていた俺を補給のために一時帰投中だった京野先輩が、偶然にもワルキューレの遭難信号を拾い救助してくれと聞かされたのだった。
*
京野先輩に救助された話の後、思い出した様に剣呑な雰囲気になったソラとヒノワによる、ありがたい言葉を延々と頂いた俺は、意識を失っていた事で念の為に、とそのまま入院の流れになり一夜を明かしたのだったが……
目を覚ましたばかりで動きの悪い頭のまま、何の気なしにつけたテレビから現実を思い知らされる。
『昨日起こりました、所属不明艦隊によるラグランジュ・シックスへの無差別攻撃テロでの――』
沈鬱な表情で今現在把握できている分の被害状況を、喪服の様な装いをした女性アナウンサーが読み上げていく声が聞こえる。
『――死者514名。その内、学生は76名――』
それを軍が運営する病院のベッドの上で聞いた俺の全身を冷たい汗が伝い、グニャリと歪む視界と込み上げる吐き気は、無我夢中だった昨日は麻痺していた俺の精神を呑み込む。
焼け焦げた吉原先輩の姿が脳裏に蘇り、冷や汗は薄い水色だった入院着を瞬く間に濡らし色を変えていくほどの量になっていく。
暴走する動悸。
浅く早まる息は吐くことを忘れ、ただ空気を求め吸い続け、俯いた俺の額から汗がベッドに着いた手の甲へ落ちたのと同時だった。
プシュッとエアシリンダーが鳴り病室のドアが開く。
「六木君、朝からコーラでもいいか……い?」
聞きなれない声の方へ何とか顔をやると、京野先輩が慌てた様子で駆け寄って来たのが見えた。
「……あ、どもです……大丈夫っすよ……」
「馬鹿! 全然大丈夫に見えないぞ。今看護師呼ぶから、さっさと横になれ」
色素の薄い明るい茶色をした両目を細めた先輩が、左手に下げていた白い保冷バッグと鞄をベッド横のサイドボードに置くと、ナースコールの呼び出しボタンへ手を伸ばす。
「……あー先輩大丈夫っす」
しかしボタンに触れる前に俺は先輩に手を上げて大丈夫、と伝える。
すると先輩は細めていた目を更に絞り俺を見下ろす。
冷や汗が止まりません。
「……本当に大丈夫なんだな?」
ゆっくりとボタンから手を引く先輩が、念を押すように俺に問い掛けてくる。
「大丈夫ですって。あ、って言うか昨日ありがとうございました」
いきなりの訪問で失念していた件を思い出し、救助してもらった事へのお礼を伝えベッド上から深く頭を下げたものの、やはり失礼かと思いベッドから降り様とすると先輩が俺の肩を軽く叩いた。
「気にするな。たまたま俺が一番近くを通っただけだ」
きっと両方への【気にするな】だろうと感じ、俺は再びベッドの上から頭を下げる。
「それでも助けて頂いた事にはかわりないですから」
「だから気にするなっての。律儀なやつだな本当に」
白いショートパンツと黒いタンクトップのラフな出で立ちから覗く鍛え抜かれた四肢。
ブンブンと手を振りつつ苦笑いた京野先輩は、ベッド脇にパイプ椅子を持ってきて腰掛けサイドボード上のバッグへ手を伸ばす。中から地球でも定番だった炭酸飲料と氷で満たされた蓋付きグラスを二つ取り出し、それらを掲げる京野先輩の後ろでエアシリンダーの作動音。
「あっ流! ジュースは駄目っていつも言ってるでしょうがっ!」
どうやら京野先輩は一人で来てくれたわけでは無かった様で、開いたドアの先には北条先輩が立っていた。紺のスキニーと若草色のTシャツに包まれた引き締まった身体で素早く入室すると、京野先輩の持つボトルを指差す。
「げっシノン……って今日くらいいいだろう?」
「げっ、じゃないわよ。あ、ちょっと流それもう開いてるじゃない!」
取り上げようと京野先輩の横に移動した北条先輩だったが、すでに封が切られている事に気付き八重歯を剥き出し眉を吊り上げる。
「先手必勝」
いきり立った北条先輩へニヤニヤと、うっすら汗をかいた炭酸飲料の入ったボトルを揺らした京野先輩は、俺の隣で悪びれた様子もなくボトルの中身を蓋を開けたグラスへ注いでいく。
気泡を含んだ濃いあめ色の液体が氷を回し、グラスの外で水滴が流れた。
「……あんたって人は……もう今日だけだからねっ」
弾けた泡が旨そうな匂いを生む中、腰に手を当て眉をひそめた北条先輩があきらめ、渋々ながら許可を下ろした。
「おーさすがシノン。そーゆー融通が利かせられるところも好きだぜ」
北条先輩の言葉に透き通る様な顔で京野先輩は笑い、バッグからもう一つグラスを取り出しコーラを注いでいく。
京野先輩の天然か計算か判断したくない言葉を受けた北条先輩の蕩けた表情をみた俺は、ラグランジュ・シックスの才女へ生暖かい視線を送る。
……北条先輩……チョロすぎっすよ……
「ば、ばか流!」
しかし俺の視線に気付いた北条先輩は京野先輩の胸を叩き、顔を真っ赤にして眉を吊り上げるが、叩かれた本人は全く反省していない様子で病室を見回すと、何気ない感じで口を開く。
「まだお姫さま二人は来ていないのかい?」
「え? あ、ソラとヒノワならもう直ぐ来ると思いますけど」
昨夜の帰り際に二人は、【明日は用事を済ませてからだから十時位に来るわ】、と言っていた事を京野先輩へ伝える。
「十時?」
壁掛けの時計に目をやった京野先輩は怪訝な表情を浮かべながらも、更にグラスを二つ取り出しコーラを注いでいく。
「流。女の子の準備には時間がかかるのだよ」
「いやいやシノン。だって映像のコピー借りたの八時位だったろ? そこから二時間って」
「……そう言うものなのだ」
コーラを注ぎ終えた京野先輩は理解出来ないとばかりに首を振るが、それを見ていた北条先輩の表情は消えていた。
「六木君……君はこうなっちゃダメだからな?」
濁った瞳はいつしか俺に向けられ、凍てつく様な空気と忠告が届く。
「は、はい!」
うちの二人が霞む程の圧力を受けた俺は本能に従い最敬でを返すと、パッと瞳に色を宿した北条先輩が首を捻った。
「って六木君、それは汗?」
大量の汗を吸って色が変わった入院着に気付いたらしく、不思議そうにする。
「あ、俺汗っかきなんですよ。見てて気持ち悪いっすよね……着替えてもいいですか?」
「へぇそうなんだ。身体冷やすの良くないし、遠慮せず着替えなさい」
そう言った北条先輩だったが、いつの間にか京野先輩が用意していたパイプ椅子に座ってしまい席を外す雰囲気は皆無だった。
「……北条先輩?」
「ん?」
腰に巻いた大きめのボディバッグから 、キラキラにデコレーションされた携帯端末を取り出し俺から視線を外さない北条先輩へ、それとなく促してみたが効果がないようで妙な空白が生まれた。
……脱げばいいのか?
「シノン凝視し過ぎ。あと、二人が来る前に準備しておこう?」
そう思い始めた頃に、京野先輩から助けて舟が。でも遅いっす先輩。
「え? あ? え?」
で、テンパり過ぎです北条先輩。
それに準備って何だ。
「京野先輩、準備って何のです?」
「ん? 聞いてないのか?」
既にサイドボードに置いた鞄から色々と取り出していた京野先輩が、俺の顔を見ながら首を捻る。
「えーっと……何をです?」
しかし全く見当がつかず俺も首を捻り返すと、混乱から復旧した痴女は二人で訪れた理由を教えてくれた。
「昨日の鋼騎の件だよ」




