Toughened Glass
俺の右手に合わされたヒノワさんの右手は、ソラと同様にマメの上にマメが重なり、硬く変質していた。
ただ何故か彼女の場合は、握られた感触が俺の海馬を刺激する。瞬時に脳内をトップダウン信号が駆け巡り、シナプスを介し神経細胞に。そしてまたシナプスを通り、別の記憶の箱へ行く。無限かとも思われる膨大な箱は、光に近しい速さで開けられ、除かれ、俺の記憶を形作ろうと奔走する。
まずは懐かしく大事だけれど、痛みを伴うぼんやりとした想いが呼び出された。
続いて、滲んだ線が、徐々に輪郭を出す様に変化して行く。
そして、無色の世界に色が落ちる、その時。
「ボクを棄てるのか?」
左耳から侵入したソラの声で、イメージが彩付く前にシグナルが途絶された。
少し五月蝿い位になって来ていた食堂だったが、硬質な雰囲気を醸すソラの一言はキレイに響いた。
方向性は異なるが、見た目麗しい女子二人に挟まれた俺へ、周りは意識を向けていたのだろう。一斉に集まる無遠慮な視線に俺は怯むが、彼女の表情が飛び込んで来ると、そんな些細な問題は消し飛んだのだった。
*
いつもの深みを失った翡翠の虹彩は澱み、俺を瞬きもせずじっと凝視してくるソラへ、可能な限りの想いを込めてハッキリと言った。
「棄てるとか大袈裟過ぎるって。ソラは俺達のチームのオーナーだろ?」
いつしかヒノワさんに固く握られていた右手を、優しく剥がしながらソラへ言葉を伝えるが、濡れた子犬の様にブルブル、と首を振るったソラは感情のまま俺へ返した。
「ならば……なぜその女を誘ったっ!?」
「おい、ちょっと落ち着けって!」
「っ! 落ち着いている!」
しかし俺の言葉は上手く伝わらなかったのか、さらに激高した彼女は、小粒だが綺麗に並んだ白い歯を剥き出して、憤然と言い放って来た。
あまりの剣幕に吊られて俺も頭に血が上りかけるが、意外な所からの援護射撃に驚き、目を見開く。
「暦君が言うように、ちょっとは落ち着いたらどうですか?」
先程まで歪み合っていたソラへ、諭す様に声をかけた千代島陽輪は、更に言葉を選んでいるのか慎重に音を発していく。
「それとも……本当に感情制御すら出来ない、無能なのでしょうか?」
取り様によっては完全に挑発なのだが、険が混ざるどころか優しさが全体を包んでいる為に、労る言葉となっていた。そしてソラもヒノワさんの想いに気付いたのか、一瞬怪訝な表情を浮かべるが直ぐに正し口を開く。
「……無能じゃない」
「怪しいわね」
「無能じゃない」
「疑わしいわね」
「……何が言いたいのだ?」
短い言葉の応酬をした二人だったが、ヒノワさんの真意が読めないソラは、いつもの様に偉そうに顎を上げ聞いた。
それを聞いたヒノワさんは、あからさまに表情を歪めると一気に吐き出した。
「……はぁ……いい? 一度しか言わないから、良く聞いて下さいね。今しがた暦君の手を握った私の手は、直ぐに剥がされました。それに対して神崎ソラさん、貴女の手は昨日どうでした? あ、別に言わなくてもいいですよ。て、ゆーか聞きたくないし……。でも……物凄く癪ではありますが、それが全てを物語っているって事です。それとも、貴女は暦君が信じられませんか? 知り合って間も無いのに、いくら義兄が悪いとはいえ神崎さん、貴女が勝手に作った原因を発端とした死の危険が付きまとう鋼殻戦に、1日しか慣らしが出来ない機体で躊躇なく出撃した彼を、貴女は自分自身の勝手な嫉妬と解釈で責めるのですか? そして棄てるのか、と癇癪を起こし私の暦君を困らせるのですか。それとも、実は全部分かった上での演技なんでしょうか?」
ヒノワさんから抑揚の無い平坦な口調で言われたソラは、真っ赤になったと思えば、あっという間に真っ青に顔色を染め直していった。そして、高く上げられていた顎は地に落ち、深く頭を垂らして行く。
白く細い首筋を露にしたソラを見て俺は、この時ようやく気付く。超然とした態度や、ややキツイ物言い。泰然とした行動は本来彼女の持つ本質を隠す為の殼なのでは、と。
思い出せばマルチストの時も。
対千代島戦の時も。
ソラは簡単に、大きく心を乱していた。
そう。彼女は酷く脆い。
呆気なく砕ける、傷の入った強化ガラスの様に。
*
朝食時間帯のピークを迎えた食堂は、人息の熱と厨房から溢れ出る温い空気で少し暑い位になっていた。しかし自動設定してあるのか、敏感に察知した空調システムが稼働を始める。天井に埋め込まれている吹き出し口から、乾燥した冷たい人工風が吐き出されていった。
エアコンに掻き回された空気によって、小さく揺れる銀の毛先とは対照的に、俯いたままピクリともしないソラへ、再度俺は伝える。
「ソラ、俺は君が整備した機体に乗りたいんだ。今まで触れたどんな物より、ソラが弄った鋼殻は凄かった。寸分の狂いも無く動く挙動。イメージ通りに制御出来た出力。あの感覚を知ったらもう、他のには乗りたくない。だから俺がソラを棄てる事はあり得ない」
自然体で思っているまま言うと、項垂れて乱れた癖っ毛の隙間から覗いていたソラの両耳が、ピクピクと動くのが目に入った。
そして、か細い声でボソッと聞こえた。
「……なんだ機体が欲しいだけなのだな……」
自嘲しているのか鼻で笑ったソラは、酷くネガティブだった。




