五笑
男は病院の窓から、町を見ていた。
ノリのききすぎたシーツ、それをかけたベッドの上は終の棲家か。
最近は看護師と会話を交わすのも、疲れてきた。
若い担当医の健康的な姿は、自分をなおさら惨めにさせる。
枯れた枝のような、自分の腕。
これでも中学と高校では、野球部でピッチャーだった。
暑い夏の中、とにかく広いグランドを走った。
あの頃は、そんな時代。
努力と根性の二文字が、何よりも力を放っていた。
諦めることは罪にさえ思えたし、目標は常に高く。
それが達成されることも、多々あったのだ。
いい時代に生まれて、育ったのかも知れない。
ときおり姿を見せる息子や娘の顔に宿る、生活の陰を感じるたび、そう思ったりもする。
いちおう新聞には、目を通す。
社会との繋がりをたつには、自分は若いと思う。
これは、あくまで主観だ。
社会から見れば、無駄なことをしているのかも知れない。
しかし自分には、まだ何か出来ることがある気がするのだ。
誰かが、私という存在を必要としている気が、するのだ。
この世界は生まれてくる赤ん坊や、明るさを撒き散らす若人だけのものではないはずだ。
確かに、盛りは過ぎたであろう。
それを否定するつもりは、毛頭ない。
だが、あと何年と生きるのかは、誰にもわからない。
不謹慎な話かもしれないが、事故で亡くなる若者もいれば、自ら死を選ぶ少年もいる。
そんな記事を新聞に見つける度に、奇妙な気持ちにとなる。
どこか引き攣れたみたいな、歪んだ明るさが深奥でひろがる。
生きているということは、可能性があるということ。
何かが起こる、何かが起こせる。
それを老人の妄想と、言い切るのは簡単だ。
しかし、死んだ人間に何ができるというのだろう。
病室の天井は広い世界を、彼の頭の中に描かせた。
限りなく広い世界と、生きていることの可能性と、光と希望。
彼の人生というものの中で、これほどに精神的に満ちている時は、たぶん初めてだったろう。
幸せの風景など、他人には図りしれぬものである。
けっきょく、弟は兄に金を用立てた。
戻ってくることのない金だと、わかっていながら。
兄は、そんな弟を見下していた。
この男は、その程度なのだと。
このさき何も楽しむこともなく生きていくだけの男に、果たして金が必要であろうかと。
そんな兄弟の姿を見ながら、恵子は何か穢らわしかった。
兄の強欲さと、弟の自己確立のなさと。
貧しさとは、結局はそんな人間を作り上げるのだ。
どこか偏った不出来な人間を作り上げるのだ、と。
そして、この二人と血が繋がっていることが、彼女には怖ろしかった。
自分自身にも、どこかにそういう部分が密かに眠っているのではないかと。
それもこれも、暗い家庭が作り上げた現象だ。
この兄も、この弟も、暗い暗い暮らしが作り上げたのだ。
あの女が作り上げた日々は、この男たちには、まだ続いている。
そして、それは彼らが生命尽きるその時まで続くであろうと、そう思えた。
母性とは、かくも恐ろしきものであると。
それは、男たちの芯の部分にまで入り込んで、今を至らせている。
この醜く、救いようのない、今を。
そして、これから先も、彼らの生活を形作っていく。
あの女を介護施設にと入れてしまえば、わたしの全ては終わる。
あの女の子供にと生まれたという、全てのくだらなさは終わる。
もう、この男たちと出会うことも、それほどないであろう。
そう思うと、彼女の胸のうちは、ますますと晴れやかにとなっていった。
幸福とは、不幸からなるべく遠ざかることであると、恵子は、知るべくもなく知っていた。
人の出会いに、何も意味などはない。
そこに意味を持たせようとするのが、教育というものであろうか。
縁という言葉で、それを言い含めようと、ある時代の或る地域の人々はしてきた。
求めない出会いというものも、数多くあるのにである。
それを出鱈目であると、言うのは早計であろう。
そうすることで、社会の秩序を保ってきたのだから。
それを壊そうとするものは、いつの時代にも存在する。
それが敗れれば邪なもののとして、風化していく。
それは歴史の記述にさえも、記憶にさえも、残らぬであろう。
しかし、それらの残骸が社会や時代の根底に積もり、底を押し上げてきたと見ることも、できないことではない。
では、秩序を壊そうとして、何らかの形によりそれに勝利したものは。
ほとんどの場合、それは元にある秩序に飲み込まれて、権威にと姿を変える。
それを醜いというものほど、怯えた瞳をして汚れた涎を垂らしているではないか。
町は変わり、人も変わり、家族も変わる。
しかし、古い時代に記された何かが人の心を捉えるように、何も変わってはいないのである。
常に、欲望は存在する。
それを、実現化させる為に、達成するために人々は語り続ける。
しかし、否定の波は暗く、浜辺にと打ち寄せる。
それは、また硬く、そして重い。
開かれた扉の脆さは、誰もが知っているではないか。
そして、そこにこそ、波が沁み入ることも。
だから暮らしていく人々は、口を閉ざし、心を閉ざす。
すべての扉を閉ざす見返りに、穏やかな微笑みを手に入れるのだ。
わたしは母を介護施設に入れた帰りに、兄と姉と三人で古びれた喫茶店にと足を踏み入れた。
こんな場所にと来るのは、本当に久しぶりだった。
少しにぎわいだ店内、落ち着いた音楽が流れて。
濃いめのコーヒーを飲みながら、わたしは母親の小さな背中を思い出していた。
少し感傷的な気分にとなりながらも、兄の無神経な態度にと冷めた気持ちにもなった。
兄は、やはり何も変わっては、いなかった。
子供のころの、自分勝手なままである。
けっきょくは母の事は口実で、金が欲しかっただけなのだ。
これからも、こんな関係が続きそうな予感がして、うんざりとした。
それに対して、姉の優しさは有り難かった。
金銭的な余裕があるにせよ、一時金の一部を負担してくれたことに、正直に感謝している。
しかし、これからは姉とも疎遠にとなるだろう。
何せ、姉は家庭があるのだ。
ひとり者のわたしとは、違う世界が姉の周りには広がっていた。
緩やかな暮らしの色が、静かにと。
これから先、わたしの生活は町工場と家と介護施設と。
このままの暮らしが、ただ続いていくだけだろう。
家にと帰ると、そこには母の姿はない。
生まれてから、ずっと一緒にいた母の姿は。
そう思うと、なぜか少しすまないような気持ちにとなった。
わたしとしては、これが限界であったのだが、なんらかの未練であろうか。
兄と姉と中身のない会話をしながらも、わたしは家に帰り着いた時の、淋しさを想像していた。
兄にとっては、どうでもいいことであろう。
それは、優しい姉にも、哀しいことにそうであろう。
そう思うと、いちばん下にと生まれたことが、わたしの全てを決めている気持ちにもなった。
いい事も、もちろん悪いことも。
投げ出さずに、逃げ出さずに暮らしてきた自分というものが、どこかしら愚かにも思えた。
ここまで、母に尽くす必要があったのだろうかと。
しかし、そのことで誰かを恨む気持ちにはなれなかった。
これは、わたしが選んだ道であるから。
兄は、兄の道を選んだ。
姉も、姉の道を選んだのだ。
わたしも、そういう意味では、わたしの道を選んだのだ。
母と二人で暮らしていくという、自分としては、正しいと思えた選択を。
介護施設にと連れられていく車の中から、流れ行く風景を三江は見ていた。
消えていく風景は視界の隅にと消えていき、それは記憶にと残るはずである。
三人の子どもたちの会話は鳥のさえずりのように、耳にと響いていた。
それは限りなく純粋な、余計なものなど混じってはいない音。
確かに彼女がこの世界にと産み落とした、三つの生命の奏でるメロディー。
そのメロディーに耳を預けるとき、心がとても穏やかにとなった。
曖昧な記憶の遥か彼方にとあるような気がする、優しいひと時。
それは、遠に忘れていたはずの母親としての感情を、瞬間、三江にと蘇らせた。
彼女にも、母親であった時間は、確かにあったのだ。
それは覚えてはいないにしろ、もしも忘れ去ろうとしていたにしろ、どこかにと焼き付いている。
理由のない幸福感が、彼女を包み込む。
そこには理解しているにしろ、していないにしろ、子どもたちの存在があった。
愛情などという、そんなものを超えた、長い時間をかけて育ててきた子供たち三人が。
彼女の生きてきた道を、暗い色で語ることは、難しいことではないであろう。
いや、本当は誰でも、暗い色で語ることは出来るのかもしれない。
しかし、今の今、彼女は走り行く車内で、薄い光りゆく膜に包まれた幸福を、その身に浴びていた。
子供たちの温もりを、その身にと。
だが、交差点で車が停止したとき、彼女は見た。
そこに在る建物の窓から、懐かしい背中を。
それは、ただひとり愛した男の背中。
忘れるれられる、あろうはずはない。
「三江。」
そう下世話に呼ぶ声が、確かに聞こえた。
かび臭いモーテルの壁の匂い、安いベッド。
そこには、生身の愛があった。
あるものには汚らわしくも、あろう。
あるものには、忌まわしくも、あろう。
けれども男と女の愛情とは、他人には安いほどに、尊い。
子どもへの、それとは全く違うものだ。
いましがた包まれていた薄い膜を破るように、彼女は首を伸ばして、姿を確かめる。
子どもたちは、母親の姿に気付くあろうはずもない。
三人で、世間話を延々と続けるだけだ。
三江は、病院の窓を見上げる。
その背中が振り向いて、いつもの顔を見せてくれることを願って。
自分の名前を、呼んでくれることを願って。
しかし、信号は変わり、車は走り始める。
首を振り向けた彼女の瞳に、背中は振り向くことはなかった。
ーおわりー




