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四笑

子供のあどけない顔をみると、恵子の心は癒やされる。

穢れが、剥がされていくみたいだ。

夫の愛情を疑ったことはなく、疑るつもりもない。

鏡面に映った顔を見て、彼女は明るい気持ちになる。

この微笑みを失わずに、生きていきたいと。

一昔前のJ-POPのような歌詞を、彼女は好きだ。

自分を見失わずに、研鑽していくような。

貧困から這い上がった女は、強かである。

決して、脇を甘くはしない。

他人に冷たくはないが、厳しくはある。

いまの自分の置かれた立場、そして発せなければならない言葉を、恵子は心得ていた。

だから口下手な夫は恥をかいたことはないし、子どもたちも素直で明るい。

この幸福を造られた幸福だと、そう言うものもいるであろう。

そこには、家族の密なる繋がりがないと。

しかし、彼女は知っている。

密なるつながりを持たぬと、貧困の中では耐えられぬ事を。

それは、何も美しくもないことさえも。

考えてみれば兄妹の中でいちばん向上心が強かったのは、彼女かもしれない。

虐げられたまま日の光を浴びずに生きるのは、それほど難しいことではなかった。

ただ子供の頃からの環境に流されていけば、ただそれだけで、いいのだから。

そう、彼女は闘いを仕掛けたのだ。

自分の人生と、いうものにと。

そして、勝利した。

勝者のことを悪く言うのは愛嬌みたいなものです、勝ったものには痛くも痒くもない。

そして今、彼女は非常に保守的にとなっている。

自分の地位を手に入れた人の多くがそうなるように、彼女は非常に保守的にとなっている。

変化を望まない。

内にも、外にも。

他者にも、自分にも。

私生活にも、社会の一人としても。

幸せは今、彼女の手のひらの中にとある。

そして、背中合わせの狂気も。




不幸と貧困は、容易くつながりやすい。

磁石に砂鉄が、群がるみたいに。

理想でそれを否定することは、人間の良心であろうか。

しかし現実の荒々しさは、簡単にと理想を崩していく。

諦めてはいけないと繰り返すほどに、波は高く激しく人々を襲う。

そういう意味では平和であるはずの場所に生きている、なんと敗者の溢れんことか。

もつれていく糸を紐解かんと、幾人の人びとが夢や希望を語り、救いの言葉を口にしようとも、現実の圧倒的なる強さよ。

それは弱きものから、いつも蝕んでいくように思えてならない。

弱きものの蝕みは、建物の土台を腐らせることに似ている。

やがてそれは、建物そのものの柱や屋根の傾きにと、つながっていく。

それに気付いた時、そこに住む人々は慌てて逃げ出そうと、玄関や窓にと近づくのであるが、全て外から何者かが力を押し当ててくる。

いや、これは常に繰り返されている出来事なのかも知れない。

だから何かに恵まれた者たちは、自ら瞳の瞼を閉じ、享楽の中で日々を過ごす。

弱者の憎しみや憤りは、そんな恵まれた人々にと向かう。

それを知っているからこそ、恵まれた人々は、なお強く瞼を閉じる。

解決を求めることの愚かさを、心得ているかのように。

時はうつろいやすく、優しさは裏切られやすい。

それは遠い他者ではなく、身近な肉親、縁者から起こりえるものである。

ならば孤独であることの、寂しき有り難さよ。

それに慣れるまでの、凄まじい虚しさ。

繋がりを求めて人は愛を語るが、それは、たやすく憎しみにと姿を変える。

金銭は人を豊かにも、貧しくもする。

それを越える術は、あまりにも危うい論である。

だからこそ貨幣価値の世界は続いてきたのであるし、これからも続いていく。

人が生きるについて、愛と金を比べるなかれ。

何故ならば、それは水と空ほどに違うものなのだから。

現実を変えていくものは、決して理想ではなく、別の現実なのだ。

それは海を隔てるほどに遠い場所でも、息が触れるほどにと狭い空間でも、さして変わりはない。




姉が嫁いでからの英二の暮らしは、一言でいえば色褪せた日々の連なりであった。

町工場での単調な仕事は、肉体を強くし、精神を鈍麻させた。

母親の姿は重く瞼に影を差したし、同じことの繰り返しは全てを楽観的にさせる。

彼の唯一の趣味は神社仏閣を、めぐり行くことくらいだった。

特に信心深いと云うわけでもない彼が、何故にそうなったのかといえば、古くからあるそれらの場所が心地よかったからである。

紛れる、という感覚であろうか。

他人と語ることは歳を重ねるごとに、煩わしくなっていったし、静けさを欲する気持ちが強くなっていった。

幼い頃から目立つことが不得手であったから、なおさらである。

家を出ていった兄のことを思い出せば、恨めしい気持ちにとなり、テレビの番組も味気なかった。

さりとて老いていくだけの母を置いて、家を出ることは選択肢として有り得ず。

ときおり訪れる姉の幸せそうな笑顔に、複雑な気持ちになることもあった。

生まれた順番が違うというそれだけで、こんなにもたどる道が違うのかと。

それを己の弱さや情けなさで有ると思うほどに、そんな古い人間では、英二はなかった。

彼は何かを選んで、生きてきたのではない。

だからであろうか、選ばぬことの気楽さも覚えていた。

このまま何かを決断するということもせずに、日々に埋もれていくのも、悪くはないと。

兄は連絡もなく、何も言ってはこず。

姉も、彼の私生活に言葉を挟まず。

誰も彼を、悪く言う者も、責めるものもいず。

どこか幼い頃の夏休みにも似た、連続した緩やかさが漂い続けて。

この明るい空虚感は、彼の思考を浅くさせた。

困っている人がいると彼は躊躇なく手を差し伸べたし、そんな彼にと周りの人々も温かかった。

いざ、切羽詰まった時には、誰かが手を差し伸べてくれるような気分にとなっていった。

所謂、いい人にと彼はなっていた。

これは彼が望んだことでもなく、誰かが仕組んだことでもなく。

そんな永遠とも思える日々を、母の認知症という現実が覆った。

それは重い鉄のように、英二の生活を壊した。

それも、さり気なく。




長男が家を出ていった日、三江はひとつ楽にとなった。

淋しさは微塵もなかった。

冷たい母親だなと、自分のことを冷静に見つめる、そんな自分もいた。

その頃には男との不倫も、彼女の中では懐かしい思い出にと変わり、先を考える女にとなっていた。

若い頃は道は終わりなく続いているかのように見えたが、そうでもなくなっていた。

子供の成長は、己の老いである。

灯りが一つずつ消えていくから、望みも低くなっていく。

現実との摺り合わせ。

それが生活をする、ということであろう。

まだ学生の次男の背中を見ていると、たまらなく腹がたってくるときがある。

我が子の若さへの嫉妬心は、確かに自分でも恥ずかしい。

しかし、感情は止めようがないのである。

そして、日毎に美しくなっていく娘。

娘には、何故か腹はたちはしなかった。

ただ、羨ましさだけがつのった。

この女には、開ける未来があるのだと。

他人には子供を育ててきた、母親というだけの話であろう。

そして、自分というものが子供に伝わっていないであろうことも、薄々ながら分かってはいた。

子育てとは、こんなに手応えのないものであろうかと。

経済的な貧しさが、彼女にそう思わせたのかもしれぬ。

いや、そうであったのであろう。

もしも経済的に豊かであったならば、違っているはずだ。

そうでなければ、彼女は余りにも恵まれざる人である。

だから、自分を欺くことを責めるのは、恵まれたもののすることなのだ。

自分を騙しているうちに、それが本当にとなっていく。

その責任が、誰にあろうというのか。

不倫はしたとはいえ、夫を亡くしてからのことである。

三人の子どもを、ひとりで育てたのである。

それくらいは、許されたとしてもいいではないか。

誰にも、知れてはいぬことなのである。

他人は、負け犬だというのかも知れぬ。

負けるも、勝つも、そんなものがあるのだろうか。

子どもを育てた女は、みんな何処かで負け犬ではあるまいか。

自分で産んだのだから、自分で育てるのが責任。

その責任のために、何らかのものを犠牲にするのが、あたりまえ。

馬鹿らしいでは、ないか。

あまりにも、馬鹿らしいではないか。

それでは育った子供の、勝ち逃げということ。

そんなことが許されてたまるのかと、彼女は理不尽ながら思い巡らした。

それから数年後に、彼女は女としての屈辱を知る。

それは、娘の嫁ぐその日。

その娘の瞳。

幸福に輝く、強く逞しい瞳。

それが、全てを語っていた。

娘の唇は、瞳とは正反対のことを言ってはいた。

だが、その瞳は、彼女の全てを否定していた。

そう、三江という、おんなのすべてを。




嫁ぐ日の朝の曇った空の色。

それは、今でも恵子の胸のうちに焼き付いている。

どんよりとした重苦しい、空の姿。

窓から見たその空は、それまでの自分みたいだった。

うなだれながら、それでも前を向いて、暮らしてきた。

そして、そんな暮らしとの決別は、爽快そのもの。

弟のことは何ひとつ、気にはかけなかった。

母親には、一刻も早く、この世界から消えて欲しかった。

今まで、喧嘩らしいケンカもしたことがなかったが、少しも慕う部分はなかった。

ただ、同じ場所で暮らしてきたという、それだけである。

家族というものは、それだけのものだと思い暮らしてきた。

多くを期待して裏切られるのが怖かったし、そもそも、期待するほどの価値もなく。

しかし、結婚を意識する男と出会って、少しずつ考えは変わり。

愚かな女には、なりたくはないと。

自分には、その資格があると。

母親をひとりの女、いや人間としてみたとき、叫びたくなるほどの嫌悪が胸にと。

そして、幸せな家庭の主婦にとおさまった今でも、それは少しも変わらない。

むしろ、今のほうが嫌悪は強くなっている。

いつか、この先に感謝なんてものが、芽生えることがあるのだろうか。

そんな気持ちになることもある。

そして、それにはかなりの努力を必要とすることに、気付く。

果たして、いまの自分に、そうすることの意味があるのだろうか。

そうすることで、得られるなにかがあるのだろうか。

答は、否しかない。

私の暮らしを続けるためには、母には大人しくしてもらわなければ。

弟にも、静かにしてもらわなければ。

それが、彼女の偽らざる気持ち。

家庭では穏やかな母親であり、嫁である恵子は、娘と姉の顔では、当たり前にそう思っていた。






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