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三笑

姉が嫁いだ日の夜のことを、英二は、はっきりと覚えていた。

静まり返った部屋にはテレビの声だけが、母親と彼との間に溢れていた。

捨てられたのだ、と、彼は感じた。

姉は自分たちを捨てて、別の世界にと行ったのだと。

人はあまりにも感情の生き物で、それを塞ぐことはあまりにも難しい。

肉親の幸福がこんな形で、自分の胸に突き刺さろうとは。

母がどう思っているのか、それは知りたくもなかった。

自分ひとりの気持ちだけで精一杯なのに、それ以上はいらなかった。

英二は瞬間、老いていくだけの二人の暮らしが見えた。

幻であったのだろう。

思い過ごしで、あったのだろう。

しかしその景色は、彼の胸の奥にこびりついてしまった。

と同時に、兄のことを思い出した。

出ていった時には、あんなにせいせいとした兄の存在が、とても愛おしいものに思えた。

こんな事は思いたくもなかったのだが、兄は家を出て行っただけで、姉は乗り換えたのだとー。

だから必死になって、テレビの画面にと意識を集中させた。

そこで繰り広げられている、芸能人たちの世界にと気持ちをあつめた。

おどけた仕草で、笑わそうとしたり泣かせようとしたり、そんなテレビ。

母の横顔が視界の端にあったが、ないことにとした。

不器用もの。

そんな言葉が頭に落ちた。

ほとんど知らないはずの、父の声で。

そう、間違いはない。

それは確かに、父親の声であった。

その日の部屋の冷たさと、暗さ。

それが、今の英二の出発点なのだとしたら、あまりに哀しい出発点ではある。

しかし、人の出発点が華やかなものとは、必ずしも限らない。

いや華やかな旅立ちができる者は、なんと恵まれていることであろうか。

陽のあたらない暮らしの中で、ただ燻り続けるものも案外に多いものだ。

そんな悲しい凡人の中のひとりに、彼はすぎないのであろう。

ひとの暮らしていくことの、なんと色のないこと。

そして、美しく愛おしいことであろう。

あしたは、遠かった。




男は安いタバコを口にしながら、言った。

「嫁さんにバレちまってな。

 嫁さんのオヤジさんやら兄弟が、うるせえんだ。

 もう、終わりにしようや。」

しけたモーテルの派手な壁紙を見つめながら、

「そうなの。」

三江の言葉は、短かった。

変にまとわりついて、嫌われたくなかった。

初めて本気で好きになった男、幸せを感じさせてくれたひとに、嫌われたくなかった。

なんて馬鹿な人間なんだろうと、自分が可笑しくなった。

こんな馬鹿になら、もっと早くなっておけば良かった。

耐えることの美しさを、彼女の両親は語り、それを聞いて彼女は育った。

愚直であることの美しさを、疑うことなどなかった。

真面目に努力をすれば、必ず結果が伴う。

なんて、美しい言葉であろうか。

そして、薄っぺらな倫理であろうか。

理由を超えた感情を愛と呼ぶのであれば、三江と男の間にあったのは、そうであった。

少なくとも、彼女の側からすれば、そうだ。

その愛は、いままでの心の中の蓄積を、すべて壊した。

しかし男から別れの言葉を切り出され、いつもの世界に戻ることに抵抗はなかった。

子どもたち三人との生活が、有無を言わさずやってくる。

そう思うと、彼女の気持ちは穏やかな静けさにつつまれた。

自分は幸せだと、心から思えた。

本当に愛するひとと、こうして巡り会えた。

日々の暮らしに、潤いを与えてくれた。

そして、別れが来たあとには、戻る場所が崩れずに待っている。

失ったものなど、何もなかった。

与えられたもの、ばかりだ。

なにをぐちぐちと、言うことがあろうか。

もし、この出会いがなければ、それはそれで良かったのかもしれない。

夫を亡くして、ひとりで三人の子供を育てる、寡婦。

どこにもそんな不幸な人間はいないように思えながら、たぶん隣の街に行けば、そんな女は案外いるのだろう。

男と付き合ったことで、彼女の考え方は断然に変わった。

自分のような形で、愛にめぐり会う人間もいるのだ。

なのに不幸に生きている人間が、どこにもいないと、いや、近くにはいないと言えようか。

気付くことが、不幸。

そう、なにかに気付いてしまうことが、不幸。

知らずにいれば終わりない平凡が、連なってく。

波もなければ、風もない平凡が。

愛の始まりを知り、愛の終わりを間近に彼女は、自由になりたいと思った。

全く無理なことなのではあるが、だからこそ憧れた。

なんと甘美な響きの言葉であろうか、自由とは。

全ての足かせ手枷から解き放たれて、言いたいことが何でも言える。

そんな状態が自由。

少なくとも、三江にはそう思えた。

そして家に帰れば父である顔をするであろう男の背中を見ながら、ほろほろと涙がこぼれた。

悲しいからではない。

嬉しいからではない。

悔しいからでもない。

それは、愛であった。収束に向かっていく愛に対する、言葉で表すことのできない愛であった。




カーテンを変えたいと、思った。

もっと地味な色のカーテンに、変えるのも悪くわないと。

そうすれば捨ててきた世界に関わらずに済むと、恵子は思った。

認知症の母の姿を見るのは、別に珍しくもなかった。

母と弟のところにと、彼女は足しげくではないが行ってはいた。

半年に一回くらいの割合で行われるそれは、ある意味で確認である。

老いていく老母のすがたと、真面目に裏切りを覚えない弟の姿と。

そこで当たり障りのない会話をして、時には茶菓子でも買っていく。

二人の生活を穏やかで幸せな生活だと、恵子は決めた。

彼女にとっては、それが都合が良かったから。

母は弟を愛しているし、弟も母を愛している。

わたしが何か口出しをして、それを壊してはいけないと。

わたしの生活に口を出されれば不愉快なように、二人も同じだろうと。

違うのは、わかっていた。

弟の冷たく暗い心は、手にとるみたいにわかる。

自分を圧し殺して暮らしていくことの、やりきれなさも。

けれど、これが弟である英二に課せられた使命なのだと、そう思った。

弟がいて、本当に良かったと。

そうでなければ、情に流されて自分はどうなっていたであろう。

暗い狭い世界で、息を殺して暮らしていたに違いない。

そこには夢も希望も、そして光もない。

日々を生きている、生命が存在するだけだ。

それを美しいと、そう言うものもいるであろう。

けれども、そんなものは何も知らないのだと、確信を持って言える自分がいた。

何故ならば、いまの彼女は幸福だから。

オカネの力の素晴らしさは、アガった者でないとわかりはしない。

社会的に、昇格した者にしか。

精神の清らかさを説く人々に、彼女の興味はない。

そして、自分の正しさを確認するのは、母と弟の暮らしを見るとき。

そのときに心の中は、満足する。

自分の幸せを、胸の奥で噛みしめる。

それのどこが、悪いのであろうか。

わたしは自分に見合った生活を、しているだけだ。

そして私のこの生活は、努力の賜物なのだ。

この生活を壊すものは、許さない。

いちばん可能性の高いのは、二人であると知っている。

彼女は、知っている。

カーテンの色を変えれば、気持ちはスッキリする。

それほどに恵子は、精神的に余裕があった。




いつの頃からか、地方の繁華街がなくなった。

代りに交差点ごとに見える、コンビニエンスの箱。

それは二十四時間眠ることなく、動き続ける生き物だ。

都会は眠らない、と誰かが言ったが、いまや地方も眠りはしない。

ファストフードのハンバーガーチェーン、きらびやかなファミリーレストラン。

そこで働く人々の姿も、日常の光景にとなってしまった。

いまや、古本屋も眠らぬ時代だ。

眠らないのは、若者だけではない。

いや、若者は減少の一途を辿っているではないか。

眠らない、高齢者。

いや、眠れない高齢者なのか。

深夜のラジオに耳を傾けるのは、受験の友が深夜放送だった人々であったり。

いつからか、孤独を癒やす何かが増えていた。

それを生きている人々は、感じとっているに違いない。

自分を守りたければ、セキュリティの万全なマンションを借りればいい。

そこは孤独なひとりを守る、要塞にと変わるだろう。

生きることに、他人がそれほど必要ではなくなったと言えば、それは言い過ぎか。

しかし、他者とのつながりを求めない人々も、確かに存在する。

経済的に逼迫した状態でなければ、それでも生きていける。

いや、経済的に逼迫をすれば、死を選ぶのも易くないだろう。

社会は本の記述のとおりほどに、人を求めてはいない。

新聞を開くまでもなく、無常の死を迎えるものは、いる。

あまり口にと出さないだけの話で、消えていくことを悲しむ人もいない、生命も。

明治の昔に悲惨小説というものが、流行ったことがあったそうだ。

むやみやたらに、人生の暗黒面を描く、という。

ならば、ある時代に人生の光明ばかりを描く、楽天的ななにかが流行りはしなかったであろうか。

そうすることで、重いものを過去へと押しやろうとする。

それが、前進なのかもしれない。

嫌なことや面倒臭いことを忘れて、いまを生きていく。

それが、大切なのかもしれない。

蓋が今、求められている。

そう、臭いものにと、する蓋が。




いまは六畳のアパートで暮らす、独身に戻った優作。

彼は結婚をしたことも、父親になったことも、全てを否定して生きている。

別れた妻との連絡はいっさいなく、子どもともあってはいない。

自分は間違ってはいないという、そんな確信が優作を支えていた。

結婚が、全てを狂わせたのだと。

夢は、人の価値観を変えてしまう。

叶わぬ時も、叶ったときも同じだ。

彼が見た夢は、小さな会社をつくることから始まった。

それなりに勉強もしたし、頭も下げた。

金の工面もして、人を扱う難しさも知った。

会社は、成功した。

彼にとっての失敗は、妻を甘く見たことだ。

会社を動かし始めたのは、他ならぬ妻であったからである。

女には、経営の才があった。

人をみて、使うセンスもあった。

しだいに優作の存在は軽いものにとなり、それは家庭において同等で。

彼には、それがおもしろくなかった。

また、妻も夫を蔑ろにしはじめた。

夫婦関係は冷たいものにとなり、子供の存在が、それに拍車をかけた。

家庭の崩壊、家族の崩壊である。

つまりは、優作は捨てられたのである。

だが彼は自分から別れを切り出したのだから、自分の勝利だと思っている。

これほどに男の愚かさを体現させた男も、この世には珍しいであろう。

そして、いつまでも愚かさに気付かぬことが、関わってきた人たちの幸せにとつながる。

哀しく、可笑しき男である。

女は年月を重ねて賢くなるものであるが、年月を重ねて賢くなる男は皆無に等しい。

しかし、これほどに馬鹿にとなる男も、また天晴であった。

若い頃の世間を見る鋭さは鳴りを潜め、物事を表面だけで見て、語る。

しだいに周りにいる人間も、同族のような輩にとなっていった。

彼は極めてありふれた、そんな男である。

そんな優作だからこそ、弟からの連絡で故郷にと行くことには、躊躇はなかった。

なにか美味い話でも転がっていないかと、そんな期待も込みで帰ってきたのである。



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