二笑
「こんなときに、金の話なんて。」
そういう弟の言葉を払うように、勇作は
「こんな時くらいしか、合うこともないんだから。
それに、俺だって、金回りに困らない暮らしをしてる なら、こんなことは言わないさ。」
そんな兄の開き直るかのような言葉と態度に、英二は腹立ちも覚えなかった。
この兄は、いつもこうだった。
子供の頃からやけに体がデカく、喧嘩っ早かった兄。
そんな兄に対して軽蔑の気持ちさえ覚えれど、敬いの気持ちは少しも覚えなかった。
自分勝手で、問題ばかりをおこして、その尻拭いを母親と妹と弟である自分に、いつも押し付けてきた。
あの人間が、こう成長するのは、違和感はない。
だから英二の胸に広がるのは、冷めた気持ちだけだった。
連絡をとった自分自身が、とてもバカにと思えた。
もしかしたら、自分では気づかない心の内奥で、兄を買いかぶっていたのかもしれない。
そんな弟の気持ちを置いてけぼりに、勇作は
「おまえには、おふくろの面倒をかけて
済まないと、いつも思ってるんだよ。
でも、俺にも俺の事情ってもんがあるし、頼むよ、
金を、少しでいいから用意してくれないかな。」
そう早口でまくしたてる兄の姿に、やはり英二は軽蔑いがいの気持ちを持てなかった。
家族というものが何らかのもので繋がっているのなら、はじめからバラバラの家族だっている。
しかし、映画や小説のように相手を気遣うことはなく、ただ自分の都合だけで、くっつき合っている家族のなんと多さよ。
しかし、実は彼らを結びつけているものが、やはりある。
それはオカネであった。
いつのまに貨幣価値経済に侵された人びとは、地方の町にまで溢れている。
小さな子供だって、オカネの大切さは知っている。
それを嘆くことは、誰にでもできること。
そして、そんなことを嘆く輩ほど、貨幣価値経済にと侵されているのだ。
そんなことを心うちで呟きながらも、英二は、どこか淋しかった。
こんな形でしか兄とは話しをできず、こんな形でしか、その存在を確かめられぬこと。
それが、たまらなく淋しかった。
兄に、対してではない。
この人間が、こう云うやつがらだとは、はじめから知っているから。
英二が淋しかったのは、自分に対してであった。
家にと帰ってから、景子は化粧を無造作におとした。
それから鏡に向かって、明るい笑顔をつくる。
口角をあげるのが、美しい微笑みのコツだ。
子供たちも学校に行って誰もいない、まだ新築の匂いのする家。
この家そのものが、彼女の幸せ。
この家に住んでいる、この家の家族が彼女の家族である。
夫は趣味人でもあり、車の雑誌が棚にと並んでいる。
夫と知り合ったとき、そして夫の車の助手席に座ったときの優越感を昨日のことのように、彼女は覚えている。
それまで泥の中で澱んでいて女が、一瞬にして光の中に出たときだ。
世の中を見返すのは、こんなに簡単なものなのかと、思った。
フロントガラスを流れていく景色の中の人々が、自分の人形のように思えた。
全ては自分を中心にと動き出し、瞬く間に彼女は主役の座を手にした。
女に生まれてよかったと、正直そう思った。
男なら血の滲むような努力をしても手に入らないようなものを、彼女はその手につかんだ。
兄や弟が、とても低い存在にと思えたし、母親を汚く思った。
自分が男だったらと思うと、景子はゾッとした気持ちにとなる。
あの暗い世界が、終わりもなく続いていたに違いない。
暗く燻った中で生まれて、生きて、それだけの人生。
母は、忌避すべき生き物にとなっていた。
自分の努力でなんとかなるとは、そんなことは嘘だと知っていた。
それは母が、その生き方で教えてくれた。
長兄が家を出ていってから、尚更にすべてが呪わしく思えた。
自分が生きるに値しない生物なのではないかと、ふと、そんな気持ちがよぎったことさえあった。
そんな景子の心のうちを、彼女のクラスメイトは誰も知らなかったであろう。
母親も、そんな気持ちに気付くすべもなかったであろうはず。
だから、景子は上を目指した。
手に入れられるものは、全てを手に入れようと、思った。
そのことで誰かを犠牲にしようとも、致し方ないことに思えた。
不幸な人間が幸せを手に入れるとき、その陰で泣く人間がいようとも、関係がなかった。
彼女はひたすらに、自分に素直に生きた女だ。
欲望は、幸せへの原動力にと変わった。
いまさら過去の人間に、今の世界に関わりを持ってほしくなかった。
そう、単純なことに、彼女は幸せだった。
この家と、そこに住む彼女のかぞくを壊すものがあるならば、例えそれが肉親であろうと、牙をむく。
そのことを、彼女の兄も弟も気付いていないであろう。
なぜならば、この家族を手に入れるために犠牲にされた人々のことに、彼らは気付いていないだろうから。
そういう意味では、妹の陰を知らぬ優作と、姉の怖さを知らぬ英二は、幸せといえるのかもしれない。
それは遠い町に向かう、鈍行列車の中。
前の席に座る田中義男くんが、お弁当箱のふたをあけた。
黄色い玉子焼きと赤いハムが、とてもきれいで、「わぁー、すごい!」と思わずー。
電車の車輪がゆっくりと回る音に合わせて、「三江ちゃん、食べる。」と田中義男くんが、微笑んだ。
まだ小学生の三江には、遠足は冒険そのもの。
先生が昨日行っていたとおりに、ミカンは一つだけしか持ってきていない。
商店街の端っこにある果物屋で、友だち三人で買ってきたのだ。
家でならば、ミカンなんていくつも食べてしまう。
爪と爪の間が、黄色くなるくらい。
それで、お祖父さんに、「そのくらいに。」と。
でも今日はミカンは、一つだけでじゅうぶん。
遠足の日は、いつも楽しくて早起きしてしまう。
どうしてだろう。
お祖父さんと、お父さんと、お母さんと、弟と。
毎日は、とてもゆっくりと過ぎていく。
三江には大人になるなんて、とても考えられない。
お父さんとお母さんは優しいし、お祖父さんはお酒が好きだ。
風呂上りには、お父さんと二人で飲んでいる。
それを「晩酌」というのだと、三江は最近しった。
大人が何故お酒を飲んで良くて、子どもが駄目なのか、それはしらない。
聞いても、誰も教えてくれない。
しかし、それでいいのだと思う。
知らないことを、少しずつ知っていって大人になっていく。
鈍行列車は、ゆっくりと走って行く。
それは人生のはじまりの景色。
いつまでも、何も変わりはしないと、確かにそう思う。
だから三江は、お母さんがつくってくれた弁当箱をあけた。
そこには、やはり玉子焼きが入っていた。
嬉しくなった三江が玉子焼きを食べようとすると、鈍行列車は台所にとなった。
三人の子供の弁当を作りながら、ため息をついた。
その理由は、子供たちだ。
最近の彼女は育ち盛りの三人の存在が、とても苦痛である。
この子どもたちがいなくなれば、どれだけ良いだろうかと。
この先のことを考えるだけで、気が滅入る毎日。
夫が亡くなったということは、つまりは、そういうことである。
母親は決して強くはない。
いや、必ずしも強いとは限らない。
育ってくる子供が、自分を喰い荒らす怪物に思えるときもある。
この怪物との闘いを、一人でしなければならぬのだ。
そう思ったとき、彼女は他の同年代の女たちと自分を、較べてしまう。
夫のある女は楽にと思え、一人でいる女は自由に思える。
そして、自分よりも苦痛を味わっているであろう、そんな女を探したくなる。
そうでなければ、あまりにも馬鹿らしい。
今の彼女には、そう思えてならない。
何故ならば愛する男が、いるのだから。
不倫なんていう格好いいものでない事くらい、自分でもわかっている。
三人の子持ちの、疲れた女の戯れ事といえば、それ迄だ。
しかし、愛とは他人から見れば、いつも滑稽である。
どんなに美しい女性と、どんなに整った男性であろうと、同じことだ。
滑稽であれば、あるほどに、それは本気だともいえよう。
狂気の沙汰、と、昔から云うではないか。
そこで、またもや場所は変わってしまう。
そこには英二という、次男だけが背中を丸めてテレビを見ていた。
この頃、この英二が妙に怒りっぽいことがある。
何故そんなに怒るのかの理由が、三江にはさっぱり分からない。
だから一生懸命に、会話を聞こうと自分でも努力をする。
しかし、その努力が全く役に立たないことも、どこかでわかっている。
老いることに抵抗しながら、そのことの不自然さを感じている。
もう、じゅうぶんだと、もう、たくさんだと。
けれど、そこで彼女の思考は止まってしまう。
そして、次男の唇の動きだけが、遠くで霞んでいく。
深い霧の中に、足を踏み入れたように、霞んでいく。
高校を途中でやめて、家を出て、町を出た勇作は、夢とは無関係にと生きてきた。
そう、若者が持たなければならないと言われる、夢である。
とある街のパチンコ屋にと年齢を偽って働きだしたのも、日々を生きていく金が欲しかったからである。
そこはタバコの煙と、何かに酔ったような瞳の大人たちが集まる場所だった。
ドラマなどで見るよりも、はるかに健康的に映ったその場所で、勇作はせっせと働いた。
人間関係はスムーズにといったし、金銭的なトラブルもなかった。
年若からギャンブルに嵌まる大人を見てきたせいか、優作は賭博を無意識に避けていた。
働いた金は、けっこう貯金にとまわった。
金銭的な余裕は、物事をみる視野を広くする。
つまりは、他人につけこまれる隙を作らなくさせる。
人の嘘を見抜くのが上手にとなり、二十歳の頃には精神的には三十代のそれと、かわらぬ位だった。
視野が広くなれば、おのずと世界は狭くなる。
その狭い世界を、勇作は好んだ。
自分を守りさえすれば自然に金は手に入ったし、あとは地味に暮らしていけば、それでいい。
パチンコ店は、ある意味で天職とも思えた。
違う場所で働きだしていたならば、ギャンブルにと塗れていたかもしれぬ。
そうすれば経済的に行き詰まり、物事を冷静に捉えることも出来なくなっていただろう。
吉と、でたのだ。
そんな日々の暮らしの中で、ある女性と勇作は知り合った。
自然に付き合うことにとなり、普通に結婚に至った。
結婚を意識した時点で、パチンコ店はやめた。
その頃は世間も景気のいい頃で、働き口はあった。
優作は長距離運転手にと、職を変えた。
長い距離を荷物を運び、せっせと働いた。
子供が生まれて、夫婦は家族にとなった。
その頃からだろうか、勇作が夢を持つようになったのは。
一人で暮らしていた時は、夢を持つなんて思いもしなかった男である。
働いて、金を儲けて、それでいいと思っていた。
なのに子供ができてから、そして、その成長を間近に見るようになって、夢を見た。
彼の奥底に眠っていた少年の部分が、子供の存在によって、呼び覚まされたのかもしれない。
そのことが悪いことだとは、とても思えなかった。
人は自分が昇っていると感じたときに、年齢に関係なく夢を見るのかもしれない。
多くの場合は、それが少年期にあたるだけなのかも。
彼の場合は、夢を見れるような、そんな家庭ではなかった。
確かに他人から見れば、無意味に暴力的であったのかもしれない。
しかし、その時には、それなりの理由があったのだ。
だが、子供を持った彼には、その頃の自分を振り返って理解することは難かった。
何故あんなに苛立っていたのかも、分からなかった。
だから全てを、今にたどり着くための通過点だとして、自分の中におさめた。
それがいちばん分かりやすかったし、それ以上に掘り下げるには、時間が足りなさすぎた。
長距離の仕事は金にはなるが、精神的には擦り減らすものがあったようだ。
しだいに彼の視野は狭くなり、世界は広がりはじめた。
世界が広くなるから、自分を試したくなる。
自分自身と云うものを。
夢を持つには危険な年齢であり、立場でもあったのだが、それに気付くほどに余裕はなかった。
そう考えれば、見事な矛盾である。
だが、その時点では勇作は全てが上手にと、揃う気がしていた。
自分が自分なりの完成へと近付いている、そう思い込んでいたのだ。




