アステリズムの軌跡
僕らは人々が寝静まる時間にこっそり家を抜けだして、近くの山に来ていた。目的は勿論、星を見るためだ。小夜がとてもいい場所を見つけたと、僕を連れだしたのだ。
「もう少しだよ」
ほとんど獣道のような所を、僕らは身軽に進んでいく。夜中に山を登るなど、今考えると非常に危険なことだが、子供の僕らはただ好奇心のままに行動していた。
そして、木々が開けたところに一本の橋が出てきた。上流と中流の境にある橋で、下は流れが急で浅く、高さもそれなりにあり、落ちれば危険ということがわかる。
「こんなところに、橋が……」
「ほら、はやくっ!」
小夜に手を引かれるが、僕は少し躊躇してしまった。何故なら、その橋は長い間、誰もつかっていないのか土や葉などが積もっていて、まるでこの先へ行くと神隠しに遭ってしまうかのような不気味さを感じてしまったからだ。夜中なので先が見えないこともそれに拍車をかけていた。高い場所にある橋なので、作りはそれなりにしっかりしているのだが、そのアンバランスさが余計に恐怖を引き立てる。
「橋を渡るの?」
「ううん、ここから見るの」
「え? ここ?」
一瞬、小夜の言っている意味がわからなかったが、その疑問はすぐに霧散した。目の前には、包み込むような夜空が視界いっぱいに広がっていたのだ。
「わぁ……」
僕はさっきまでの恐怖をすっかり忘れて、橋の柵に手を置いて遥かな空へと視線を飛ばしていた。
そこには、どんなに言葉で飾っても表現できないような、美しい、広大な宇宙が広がっていた。無数に散らばる星々は、夜の海に光を乱反射させたようにキラキラしていて、僕は空の海を泳いでいるような感覚になる。宇宙船に乗ったら、こんな感じなのかなと子供心に思った。
「ね、きれいでしょ?」
「うん、すごいよ……」
「誠司、宇宙って本当にあると思う?」
突然の小夜の問いかけに、僕は首をかしげてしまう。どうしてそんなことを疑うのか、理解することができなかった。
「わたしはね、星の光って、べつの世界からの光だと思うの。世界はまっくろな大きな器におおわれてて、ぷちぷちと空いた小さな穴から、ちがう世界の光が入ってきてるの」
「す、すごいね……」
宇宙の仕組みを全く知らなかった僕は、小夜の子供じみた妄想にも感心してしまう。
「だからわたしは、星に向かって手をふることにしたの。あっちの世界の人が気づいてくれるかもしれないから」
「もし気づいたら、こっちにきてくれるのかな?」
「うんっ、きっとそうだよ。もしかしたら、あっちに連れて行ってくれるかもしれないよ!」
小夜は興奮気味に僕の手を握る。もし、あの輝く光の向こう側へ行けるのだとしたら、それはとても素敵なことだと思えた。
「いっしょに手をふってみよう」
「うん!」
僕らは手を繋ぎながら星空へ向かって、手を振った。
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アステリズムの軌跡
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/1
「がんばってね! 誠司!」
大学へ行くために都会へ出る僕を、小夜は自分のことのように喜んで送り出してくれた。
田舎の誰でも入れるような小さな高校に、地元で近いからという理由で通っていた僕は、大学になんて行くつもりは毛頭なかった。
だが、夢が出来てしまった。
高校に入学した時、幼馴染である小夜と一緒に天文学部を設立した。小さい頃から星が大好きだった僕らは、真剣に星を勉強するようになり、いつしか天文学者になりたいと思うようになった。
僕らは夢に向かって必死に勉強して、ついに“僕は”目標の大学に合格することができた。残念ながら小夜は大学に行くことは叶わなかったが、それでも笑顔で送り出してくれた。
このまま、夢に向かって進んでいける。そう信じていた。
「うーん……悪くはないが、誘導しすぎじゃないか? もう少しひねってもいいだろう」
左手にテスト用紙、右手に紅茶の入ったティーカップを持って、僕の先輩である円佳さんは指摘した。
「そうですか……すみません」
内心、不安に思っていたことをズバリ言い当てられ、何も言い返すことができない。
「謝ることはない。それに、これは私の専門ではないからな。君がそれでいいと思うなら、そのままでいい」
円佳さんは紙から目を離し、こちらに穏やかな視線を向けながらフォローを入れてくれる。顔を動かしたことで、長いポニーテールが少しだけ揺れた。
「いえ、貴重な意見、ありがとうございます」
迫り来る期末テストの問題を見てもらったのだが、あまりいい感想はもらえなかった。新人だから仕方がないと言われればそれまでだが、時間をかけて作ったものを駄目出しされると、やはり悔しいものがある。
「そんな顔をするな誠司くん。私は君を評価しているよ」
僕の気持ちを察したのか、円佳さんは気遣うように言った。
「あ、はい、すみません……」
「だから謝るなというのに」
いつの間にか、僕は教師になっていた。
なりたくてなったわけではない。何となく生きているうちに、こうなっていた。
大学に入った当初は、たくさん夢があった。星のことを研究して、学会にも発表し、いつか自分も新しい恒星を発見したりして、後の世に自身の足跡を残せるのだと、信じていた。
だが、何もなかった。
天文学に失望したわけでもなく、特に諦めるきっかけがあったわけでもない。ただ、大学の課題、アルバイト、友達付き合いと、何かと理由をつけては忙しいと自分に言い訳して、夢に向かって進まなかった。
そうしたら、働かなければならなくなった。
就活だ、企業説明会だと、まるで何かに取り憑かれたかのように、大学生たちは仕事を探した。まるで今すぐ就職しなければ、死ぬしかないとでも言うように。
そうしたら、友達の付き合いで受けていた教職課程で取った免許が、あっさりと僕の人生を変えてしまった。
なんの苦労も、決意も、信念もなく、僕は教師になっていた。
そうして、ようやく気づいた。
僕は、天文学者になりたかったんじゃない。
ただ、小夜と同じものを見ていたかっただけなんだ。
「ただいま……」
疲れた声を出しながら、玄関をくぐる。教職というのはここまで大変なものなのだと、高校時代の生意気な自分に言ってやりたい気持ちだった。
「おかえり!」
沈んだ心の奥底まで響き渡るような声がした。僕の一番大切な人だ。
「もうご飯食べる……って、なんかすごい暗い顔してるけど、大丈夫?」
小夜は下から僕の顔を覗きこみながら、冗談っぽく問いかける。長い髪につけた少し大きめなリボンが可愛らしく揺れた。
「大丈夫だよ。ちょっと仕事で疲れちゃって」
「先生は大変だもんね……よーし、私が腕によりをかけて、おいしいご飯を作ってあげよう!」
小夜はそう言いながら腰に手を当て、胸を張る。エプロンの上からでもわかる大きな胸が強調され、目のやり場に困ってしまう。
「あはは、じゃあお願いしようかな」
僕が何もかも諦めて故郷に戻ってきた時、小夜は優しく抱きしめてくれた。
一人だけ大学に行ったくせに、何も得られずに帰ってきたと知られたら、どんな恨み事を言われるだろう。そのことを考えると、怖くて仕方がなかった。元々、星が好きだったのは小夜で、僕はただ影響されただけだ。天文学への想いは、小夜の方が強かったに決まっている。それなのに僕一人だけ夢を叶えようとして、憎まれても仕方ないと思っていた。
しかし、小夜はただ僕に優しい笑みを向けて「がんばったね」と言ってくれた。
僕はそれだけで、救われた。
今は、この生き方で満足している。全く後悔がないと言えば嘘になるが、一番大切なものに気づけたんだ。小夜と一緒に生きていけるなら、それだけで充分だった。
/2
「時に誠司くん、もうすぐ教師として初めての期末テストだが、そろそろ仕事には慣れてきたか?」
放課後に職員室で雑用をしていると、隣に座っている円佳さんが話しかけてきた。彼女も仕事中のようで、こちらに顔は向けずに作業をしながら言葉をかけている。
「日常的な業務には大分慣れたと思います。ただ、テストはやっぱりまだ……」
「まあ、そうだろうな。テスト問題を作るのは私も苦労するよ」
彼女から苦労という単語が出たことに内心驚いてしまった。なんでも安々とこなす円佳さんでも、難しいことがあるのだなと。
「円佳さんでも苦手なことがあるんですね」
「あれは得手不得手の問題じゃないだろう。もはや魔物だと言っていい」
彼女の日常的な会話の中で発せられる独特な言い回しは、面白いなと思う。普通の女性でこんな言葉遣いをする人はいないだろう。
しかも、シックな服装に適当に羽織った白衣という出で立ちが、その口調と妙に合っていて、硬派で近づき難い雰囲気が絶妙なバランスで形成されている。ちらりと横を見ると、白衣と黒いストッキングを履いた足とのコントラストが、その空気を一層、際ださせているようだった。
しかし、そんな彼女にも一つだけ欠点がある。
「さってと……そろそろ部に顔を出すかな」
円佳さんはそう言って伸びをしながら椅子から立ち上がる。彼女は文化部の中で最も規模が大きい吹奏楽部を任されているのだ。顧問の仕事も馬鹿にならないのだろう。
「そうですね、僕もそろそろ」
自分も席から立ち上がる。すると、僕は円佳さんを見下ろす形になった。
「君……今、私に哀れみの目を向けたな?」
「へ? 何がですか?」
「黙れ! 何で百八十センチもあるんだ! ちくしょう、私に十センチよこせ!」
そう、彼女の欠点は身長が僕のみぞおち辺りまでしかないことだ。
「……はぁ」
僕は部室までの道程で思わずため息をついていた。
教師として軌道に乗ってきたというのに、未だに解決しない問題が一つあった。
それは、自分が顧問を務めている天文学部の唯一の部員、葵ちゃんのことだ。部活で何度も顔を合わせているというのに、彼女とは今までまともなコミュニケーションを取れた試しがない。
僕は嫌われているのではないかと円佳さんに尋ねてみたが「そんなことはない。乙女心は複雑なんだよ」とよくわからない答えしか返ってこなかった。
彼女が嫌いというわけではないのだが、気分が重くなってしまうのは避けようがなかった。
天文学を諦めた僕が、天文学部の顧問をしていることには訳がある。三ヶ月前、教師になったばかりの僕の元へ葵ちゃんが突然訪ねてきたのだ。そして、こう言った。
「天文学部をしたいので、顧問になってください」
唐突なお願いに驚いたと同時に、奇妙でもあった。というのも、葵ちゃんは今年で三年生であり、進路も控えている大事な時期なのだ。それなのにいきなり部活を始めたいなどと、普通は考えられない。しかし、教師になって初めて受けた生徒のお願いを無下にはできず、結局、僕は顧問をやることになってしまった。
そういう特異な事件があったために、僕は葵ちゃんとの距離を未だに測りかねているのだ。
部室に入ると、広いとは言えない部屋の中央にぽつんと椅子が置かれ、一つしかない窓は大きく開け放たれていた。葵ちゃんはその唯一の席に腰掛け、本を読んでいる。少しくせのあるセミロングの髪が風になびいてさらさらと揺れていた。
彼女がこちらを振り向く。僕の存在を目で確認したあと、ほんの少しだけ首を動かして会釈し、再び本へと目を落とした。
両足をピシっと揃え、ピンと背筋を伸ばし、凛とした雰囲気を纏うその姿は一見、聡明な文学少女のように思える。しかし、彼女が読んでいるものは文学ではなく、天体の図鑑である。まさに天文学部員の鑑と言えるだろう。
なんとも話しかけづらい雰囲気だが、今日の僕はちゃんと話題を用意している。ここで引き下がるわけにはいかない。
「葵ちゃん、期末テストはどう? 勉強、進んでる?」
「はい、大丈夫です」
「何か勉強でわからないこととかないかな?」
「ありません」
僕が用意した秘策はたったの一言で打ち破られてしまった。彼女とコミュニケーションを取ることは、まるで難攻不落の城を攻め落とすかのようで、僕の力があと三倍は必要なのではないかと思えてしまう。
今となってはこのように距離があるが、実は葵ちゃんとは子供の頃からの付き合いなのだ。小夜ほどではないが、幼馴染と言える。
昔は本当に感受性の豊かな子で、とても喜怒哀楽がはっきりしていた。僕らと一緒に星を見に行った時も、目をキラキラさせて感動していたのをよく覚えている。
実は「葵ちゃん」と親しみを込めて呼ぶのは、仲がよかった唯一の証だと思っている。もしここで苗字で呼んでいたりしたら、本当の意味で他人になっていたかもしれない。
そのような関係があったからこそ、葵ちゃんはいきなり僕に顧問を頼んできたのかもしれない。その選択は正しかったと証明するために、僕はもう少し彼女に近づく努力をすることにした。
「えっと……実はテストを作るのに行き詰まっちゃって。僕自身の復習も兼ねて、勉強会してくれないかな?」
教師とは思えないような情けない提案だった。だが、僕の安っぽいプライドを捨てるだけで彼女との壁を取り払えるなら、いくらでも捧げよう。
「わかりました」
ほとんど思案することもなく、葵ちゃんは返事をくれた。
「え、本当にいいの?」
「はい。お役に立てるかどうかはわかりませんが」
「ありがとう」
僕はなるべく平静を装っていたが、内心では小躍りしたい気分だった。
空き教室から適当に机を見繕ってきて、部室で教えることにした。少し葵ちゃんとの距離が近いが、特に気にした様子はなさそうだ。
「そういえば、葵ちゃんは就職希望なんだよね」
「はい」
「そうか、偉いなー……」
僕が高校生の頃は、自分の夢を追うことしか考えてなかった。この歳でもう働くこと考えているのは本当にしっかりしているのだなと思う。
「偉いんですか?」
「え? だって、この歳で働こうだなんて、しっかりしてるなって」
「……そうですか」
喜怒哀楽がほとんど読めない表情で相槌を打つ彼女に、これ以上なんと返したらいいのかわからなかった。
「えーと、僕が教えられるのは理系の教科だけど、何かわからないことはあるかな?」
「いえ、特には」
そういえばわからないところはないと言っていたな。つい癖で二度も同じ質問をしてしまった。
「じゃあ、何を教えて欲しい?」
「特に、ないです」
「……大事なところの復習でもしようか」
「はい」
これはある意味、前途多難そうだな……。
「この式の平衡定数はこうなるわけだ。わかるかな?」
「はい」
「じゃあ、こっちの式は解けるかい?」
「はい」
葵ちゃんは宣言通り、スラスラと問題を解いていく。それもそのはず、彼女は学校でかなり上位の成績なのだ。この程度の問題、造作も無いのだろう。答えを書き終わり、僕にこれで合っているかと問いかける視線を向けてくる。
「うん、合ってるよ。さすがだね。わかっているとは思うけど、平衡定数というのは……」
すでに理解している内容を説明されるのは苦痛だと思うのだが、葵ちゃんは表情をほとんど変えずに僕の話を聞いている。退屈なのか、興味深いのか、それすらも推し量ることができない。子供の頃の表情豊かな葵ちゃんはどこに行ってしまったのか……。
「……先生?」
「あっ」
つい考え事をしていて、葵ちゃんの顔を見ながら黙りこんでしまった。
「いや、なんか昔を思い出してさ。小さい葵ちゃんに少しだけ勉強を教えていたことがあったでしょ?」
「そう、ですね」
「あの時はたしか小夜も一緒だったよね。懐かしいな」
「……」
葵ちゃんが急に黙りこむ。もしかして、途中で中断したから怒っているのか。
「ご、ごめん、脱線しちゃったね。えと、つまり変化後が大事で……」
結局、僕は終始緊張しっぱなしだった。
「……はぁ」
今日こそ葵ちゃんに近づけると思ったのだが、結局いつも通りになってしまった気がする。自宅に帰ってきた時も、思わずため息がもれていた。
「あっ、お帰り、誠司」
その時、居間の方から小夜の嬉しそうな声が聞こえた。まるで楽器のようによく響く声に、自然と僕は癒されていく。
「ただいま、小夜。今日の晩御飯は何かな?」
「今日はね、誠司の大好きなスパゲッティだよ。今から作るからちょっと待っててね」
「うん、ありがとう」
僕は畳の上に腰かけ、テレビを付ける。適当にチャンネルを変えつつ、座布団を引き寄せ尻の下に敷く。大学へいくのに都会へ出ていた時期は洋式の家ばかりで、このような純和風な作りの部屋はまずなかった。やはり、昔から慣れ親しんだこの雰囲気の方が落ち着く。
「どうしたのー? なんかまた溜め息ついてたみたいだけど」
パスタを茹でているだけで暇になったのか、小夜はこちらに顔を出してきた。長い髪を揺らしながら、ぼくの隣まで歩いてくる。
「もしかして、葵ちゃんのことかな? んー?」
僕の方へいたずらっぽく顔を寄せて囁く小夜。やはり彼女は全てお見通しのようだ。
「うん……実は今日、彼女に勉強を教えていたんだけど、なんだか上手くいかなくて」
「えっ、すごいじゃない! 今までに比べたら大きな進歩だよ」
小夜は目を輝かせながら、まるで自分のことのように喜んでいる。その笑顔を見るだけで、僕の陰鬱としていた心は、台風に流される雲のように吹き飛んでいくようだった。
「幼い葵ちゃんに、よく勉強教えたりしたよね」
小夜は僕の考えていることを代弁するように言う。
「そうだね。あの頃の葵ちゃんは勉強苦手だったから」
「小さな葵ちゃんは、いつも笑ってて人懐っこくて、とっても可愛かったのになー」
今の葵ちゃんが悪いというわけではないが、過去の天真爛漫な姿を思い浮かべると、現在の印象とはあまりにもかけ離れている。時の流れが自然と彼女を変えたのか、それとも何か変わらざる負えないような大きな事件でもあったのか。もし後者であったとしたら、それはいい事だとは思えなかった。
もし、もしもだ。その事件が、小夜と同じような陰鬱で悲しいものだとしたら……。
「誠司? どうかした?」
「いや、なんでもないよ……」
「うそ。だって、すごく思いつめた顔してるもの」
小夜は真剣な表情で距離を詰めてくる。
「小夜、駄目だ、それ以上近づいたら――」
「あっ」
小夜の指先が一瞬、僕の手に触れる。すると、彼女は弾かれたように手を引いて僕から距離をとった。
「あ、う……ごめん、なさい……」
小夜は心の底から申し訳なさそうに僕に謝罪する。彼女は、男に触れることができない。
「いや、僕が気をつけていれば……ごめん」
さっきまで明るかった雰囲気は一変して、ただ重い空気だけが流れていた。触れてはならないものだったのに、僕の不注意のせいだ。
「……パスタ、ふやけちゃうから……」
小夜はおもむろに立ち上がると、台所の方へ駆けていった。
今日のスパゲッティは、ほとんど味がわからなかった。
深夜になると、僕は自室にこもって期末テストの問題を練り直していた。
しかし、どうしても手が止まってしまう。さっき、小夜を傷つけてしまったことが、頭にしこりのように居座っていた。
今すぐ謝りにいこうか。いや、下手に掘り返さない方が……。
「ふふ……がんばってるね」
「うわっ、い、いつの間に」
小夜にいきなり耳元で囁かれ、驚いてしまった。
「だって、ノックしても全然気づかないんだもん。どうしたの?」
「いや、ええと……」
小夜はふっと、優しい穏やかな表情になる。
「誠司は優しいね……。ありがとう」
鈴の音のような透き通る声で、小夜は言った。その言葉だけで、僕は救われるようだった。
「ごめん、小夜。これからは、もっと気をつけるよ」
「もう、気にしすぎ。誠司は私より、もっと自分を大切にしなくちゃ」
小夜は少し拗ねたように言った。そんな彼女が可愛らしくて、自然と明るい気持ちになっていく。
「あ、そうだ。私ね、葵ちゃんと仲良くなる方法を思いついたの!」
小夜は両手を合わせて、目をキラキラさせながらこう言った。
「葵ちゃんと一緒に、天体観測に行けばいいんだよ」
「……ぷ、あははは!」
「ちょっと、どうして笑うの?」
「い、いや、いかにも小夜らしい提案だなと思って」
ふくれっ面になる彼女を見て、さらに笑いがこみ上げてきてしまう。さっきまで気まずい空気だったのに、小夜があまりにも子供っぽいというか、彼女らしい、いつも通りのことを言い出すので、笑わずにはいられなかった。
「だって、星を見ると心が穏やかになるでしょ? そしたら葵ちゃんも本音を言ってくれるはずだよ」
「くっ、ぷぷ……そうだね」
「もー、笑うなー!」
しかし、冷静に考えてみるといいアイデアかもしれない。天体観測をしていれば話す機会はいくらでもあるだろうし、葵ちゃんは天文学部なのだから、このような提案をすることになんの違和感もない。
「ふふ……でも、うん。いいかもしれないね」
半笑いで返事をすると、小夜の表情はみるみる明るくなった。
「ほんとに? そうだよね。星を見ればきっと葵ちゃんだってうきうきして、楽しくなって、心を開いちゃうよ」
小夜は星がなんでも解決してくれると本気で思っているところがあるので、あまり真に受けてはいけない。
「あはは、そうだね」
「あー、信じてないな。いい? 星空には癒しの効果があるんだよ。柔らかい自然の絨毯の上に寝転がって夜空を見上げたら、悩みなんてふっとんじゃうんだから」
それからは小一時間ほど、小夜の天体観測に関係するうんちくを聞かされることになった。
思えば、教師になってから久々に葵ちゃんと再会した時、最初はその変化に驚いたものの、それからはただの顧問とその生徒の関係だけで、腹を割って話したことはなかった。
年が離れていたため、それほど親しい仲ではなかったが旧知の間柄であるのだし、久しぶりに会った友人らしくお互いの空白の時間を語り合ってもよかったかもしれない。
「というわけなんだ。どうかな、葵ちゃん」
僕は放課後になると、さっそく葵ちゃんに昨日考えていたことを提案した。期末テストが終わったら部活動として一度、天体観測に行ってみてはどうか、と。
「……」
葵ちゃんは俯き、考えているようだ。ほとんど感情の出ないその表情からは、乗り気なのかどうかすらわからない。
やがて、少し間を置いたあと、葵ちゃんは顔を上げた。
「わかりました。行きます」
「ほんとに? 忙しかったらべつにいいんだよ?」
「いえ、少しは天文学部として活動もしないといけませんし」
まるで義務として行かなければならないと言っているようで、少し残念だった。天文学部を作りたいと言ったのは彼女だが、もしかしたらそれほど星が好きというわけではないのかもしれない。
「ありがとう。細かい日程が決まったらまた連絡するから」
「はい」
一抹の不安を抱えながらも、とりあえず小夜のアイデアは成功したようだ。
「ほほう、天体観測か。いいじゃないか」
円佳さんに先程の話について伝える。念の為に相談しておくことにした。
「ちょうど夏休みに入った時になりますけど、問題ないですよね」
「ああ、たしかに部活動としてなら問題ない。しかし!」
円佳さんはいたずらっ子のような目をして僕を見る。嫌な予感しかしない。
「若い教師と女子高生が二人きりで天体観測……これは非常に、いけない香りがするな、誠司くん?」
円佳さんは絡みつくようないやらしい口調で問いかけてくる。小柄で童顔な彼女が言っても艶やかというよりは可愛らしい印象になってしまっているが。
「いや、刑務所には行きたくないので。というか、僕はどれだけ信用ないんですかっ」
「何を言う、これは世間の一般的な若者への認識だよ。私は君を一人の男として正しく評価しているにすぎない」
「は、はぁ……どうも」
「というわけでだ、私も連れていけい!」
円佳さんはわざと鼻にかかった声を出して、まるで子供が駄々をこねるかのような言い方をしていた。いつもの硬派な彼女とのギャップにうすら寒さを感じてしまうが、見た目とは合っているので非常に奇妙であった。簡単に言うと、怖い。
「それ、本気で言っているんですか……?」
「勿論だとも。先輩として、君が捕まるのを見過ごすわけにはいかない」
「円佳さんも吹奏楽部で忙しいでしょう。無理しなくていいんですよ」
「大丈夫だ。その日の吹奏楽部は休みだ」
どうしてそんなに一緒に来たがるんだ……。
「それともう一つ、葵は私が担当を任されている生徒なんだ。いろいろと気になることもあるんだよ」
そういえば、葵ちゃんは円佳さんが担任しているクラスだった。それを言われると何も言い返せなくなってしまう。
「……わかりましたよ」
ぼくはため息混じりに渋々了承したが、円佳さんは全く気にした様子はなかった。
「よろしい。私が付いて行くからには、大船に乗ったつもりでいろ」
なんだか、妙なことになってしまった。
「もしもし? 僕だよ。うん、うん」
「今から帰るよ。うん、すぐに着くと思う」
「ん? ああ、成功したよ。ちょっと妙なことにはなったけど……詳しいことは帰ってから話すよ」
「うん、うん、そうだね。それじゃあ、また」
/3
期末テストも終わり、夏休みが到来した。教師は変わらず仕事はあるが、テスト前の嵐のような忙しさに比べると雲泥の差がある。
そして、ついに今日は待ちにまった天体観測の日だ。葵ちゃんの態度は相変わらずであったが、少しは改善できるだろうか。
太陽がてっぺんから少し傾きかけた時間に、僕と葵ちゃんと円佳さんは三人で背の順番に横に並んで、天体観測場へ向かっていた。葵ちゃんは変わらず無表情だったが、円佳さんはいかにも不機嫌な表情をしている。
「天体観測場って、あの山のことか……ド近所じゃないか」
円佳さんは悪態をつくように呟く。彼女は小旅行をするとでも思っていたのだろうか。
「仕方ないですよ。遠くでしようと思ったら、どうしても合宿になって大変ですし」
なだめるように言うと円佳さんは「ま、いいけど」と一言だけ返した。
彼女が気の向くままに発言してくれるお陰で、場の雰囲気は砕けた印象になっていた。もし、葵ちゃんと二人だったら、お互い何もしゃべらずにギクシャクしたものになっていただろう。
「そういえば葵、教室にいる時と雰囲気違うな」
「えっ、そうですか?」
葵ちゃんはほとんど表情は変わっていなかったが、微かに肩が震えたように思えた。
「普段はもっとよくしゃべるじゃないか。どうしてそんなに黙っているんだ?」
「いえ、べつに……」
葵ちゃんは答えに窮しているようだ。そりゃあ教師二人に囲まれていたら、口数が減って当然だろう。
「もっと楽しそうにしよう。ほら、私に続け、いえーい!」
円佳さんは勢い良く手を上げながら楽しそうに声を出す。長いポニーテールが動物の尻尾のように激しく揺れ動いている。葵ちゃんより背が低いので、傍から見たら子供がはしゃいでいるようにしか見えない……いや、さすがにそれは言い過ぎか。
「い、いえーい……」
葵ちゃんは困惑しながらも、同じように手を上げていた。すると、円佳さんは今度は僕の方を見てニコニコしている。お前もやれということなのだろう。
「いっ、いえーいっ!」
僕は頑張ってくれた葵ちゃんのためにも、大きな声を出そうとしたが力んだために変な声になってしまった。
それから僕らは、あまり整備されていない山道を黙々と登り、目的地へ向かった。最初はべらべらとしゃべっていた円佳さんも、少しずつ疲れてきたのかだんだん口数が減っていった。体力は見た目そのままらしい。
そして、目的地に着いた時には女性二人は汗だくでへとへとになっていた。いくら山の中は涼しいとはいえ、夏真っ盛りのこの時期に山登りは辛いだろう。
「もっ……もだめ……しぬ……」
息も絶え絶えな円佳さんは真っ先にベンチの上に腰かけた。
ここは山頂に近い場所に作られた簡易の休憩場で、小さな東屋が設置されている。ほとんど整備されていないようで、草木や土まみれではあったが、逆にそれが雰囲気を醸し出しているとも言える。
「先生は……平気そうですね」
葵ちゃんも少し苦しそうに僕へ質問を投げかける。いつもすましている彼女が汗だくで表情を歪ませているのは妙に新鮮だった。
「男教師は結構、力仕事を任されるからね。体力ついたのかも」
観測用の備品を持ってここまで登ってきたが、思ったよりも疲れは感じなかった。昔はよくここに通っていたから、この山道に慣れているのもあるかもしれない。
「一番星が見えるまでまだ時間はあるし、少し休もうか」
「ああ……それがいい……賛成だ……」
円佳さんは人目もはばからず、ベンチの上に寝転がっていた。
せっかく山登りまでして天体観測をするので、準備は入念にしておいた。
まずは天体望遠鏡。天体観測といえばこれが必須というイメージを持っている人もいるが、そうでもない。肉眼や双眼鏡でも充分に楽しめるし、何より高価なので趣味程度の人は購入に躊躇いがちである。
だが、学校に古いものではあるがまだ残っていた。小夜と天文学部を設立した時に、なんとか部費をもらって買ったものだ。せっかくなので使うことにした。
そして、星座早見表と方位磁針。やはり星の名前や星座がわからなければ、天体観測の楽しみは半減してしまう。望遠鏡よりもこちらの方が大事かもしれない。
「今日はありがとうございます」
そんなことを考えながら望遠鏡の準備をしていると、葵ちゃんが話しかけてきた。穏やかに吹く風で肩にかかる髪がさらさらと流れている、
「気にしなくていいよ。僕が誘ったんだし、これくらい当然だよ」
「昔もよく、一緒にきましたよね」
少し穏やかな表情で葵ちゃんは言う。幼い頃に小夜と一緒に出かける時、たまにお互いの友達が交じることがあった。僕らは毎日のように星空を見ていたので、そこに葵ちゃんも加わっていたことがあった。
「あの頃は本当に毎日のように行ってたからね」
「そんなに星が好きだったんですか?」
いつもより饒舌な彼女に嬉しくなりながら、僕は上機嫌に話していた。
「うーん、子供の時はそうでもなかったかな。あの時は小夜と一緒にいるのが楽しくて、星を見るのはそのついでだったかも」
「……そうですか」
葵ちゃんは急に俯き、いつもの無表情に戻ってしまった。和やかだった空気が途端に固まってしまい、一瞬、言葉が出なくなってしまう。何かまずいことを言っただろうか。
「あ、と、そうだ。そろそろ金星が見える時間なんだ」
僕はこの微妙な空気を、新鮮な話題を取り入れることで押し流すことにした。葵ちゃんは脈絡のない単語が飛んできたためか、小首を傾げている。
「せっかくこんなところまできたんだし、見れる星は全部見ておこうと思ってね」
僕は西の空に向けて望遠鏡の位置を調節する。気がつくと綺麗な夕焼けになっていて、空の天辺には少しずつ紺色の帳がかかり始めていた。葵ちゃんはようやく理解が追いついたようで、西の空を見上げて金星を探している。
「……ありました、金星」
「お、さすがだね」
金星は宵の明星、明けの明星と言われるほど強く光るので、簡単に見つけることができる。しかし、内惑星であるため日が落ちた後に見ることはできない。
「それじゃあ、天体望遠鏡で見てみようか。また違った印象を持つと思うよ」
葵ちゃんは望遠鏡を覗きこむ。
「わぁ……」
彼女は一つ、小さなため息を漏らした。いつもは少し鋭いはずの目はくりくりと見開かれ、控えめな口は蕾が花を咲かせるように小さく開かれている。瞬間、小夜が星を見ていた時の姿と重なり、目を奪われた。
「きれい……」
葵ちゃんはため息をつくように呟く。
「金星は愛と美の女神、ヴィーナスが司る星と言われているんだ。僕らが知らない遠い昔の人たちも、今の葵ちゃんと同じように思ったんだろうね」
「……先生も、綺麗だと思いますか?」
「もちろん。だから、ぜひ葵ちゃんにも見て欲しかった」
葵ちゃんは驚いたようにこちらへ振り返った。しかし、すぐに目を逸らしてしまう。
「どうしたの?」と尋ねても「何も……」とそっけない返事しかしてくれなかった。
星を綺麗と言ってもらえて舞い上がっていた僕は、微妙な空気の変化に気づかず、さらなる提案をする。
「せっかくだし、もっと高倍率なレンズで見てみようか。きっと驚くはずだよ」
僕はせっせとレンズを取り替える。何が面白いのか、その様子を葵ちゃんはじっと眺めていた。
「なんだ、もう始めてるのか。私も混ぜてくれ」
少しだけ葵ちゃんの様子が気になったが、円佳さんが来たことでその意識は霧散した。その後、円佳さんは無遠慮にあれやこれやと訊いてくるので、葵ちゃんの相手はほとんどできなくなってしまった。
葵ちゃんは、ただ黙って空を見上げていた。
やがて日が落ち、辺りはすっかり夜の闇に包まれた。田舎の山の中に、人工的な雑音はなく、代わりに自然の大合唱が耳を満たしてくれる。
都会に出ていた時は、どこに行っても車の音や人の声が聞こえてきた。都会育ちの友人曰く、むしろ多少の雑音がないと眠れないらしい。僕には理解できない世界であり、一時期はそれがストレスにもなった。
やはり、これくらいの音量が僕には適しているようだ。
「で、あのハゲ教頭がこう言ったわけだ。『これが私の、教師としての矜持です』ってなっ! なーにが矜持だよかっこつけてんじゃねーよハゲ!」
しかし、そんな雰囲気を全て円佳さんがぶち壊しにしていた。どうやら酒を大量に持ってきていたらしく、行きの山中で異様に疲れていたのは酒の重さのせいだったらしい。酔っ払った円佳さんには普段の硬派なイメージは露ほどもなく、口の悪さだけが前面に押し出されていた。
「はぁ……そうなんですか」
聞いているのかどうかはわからないが、葵ちゃんは律儀に相槌を打っている。それに気をよくしたのか、円佳さんは葵ちゃんに延々と愚痴を聞かせていた。
黙って星を見ろ、とまでは言わない。むしろ、星を見ながら楽しく会話することは天体観測の醍醐味の一つだと僕は思っている。ジュースを飲んだりお菓子を食べながら日常の会話をし、たまに思い出したように夜空を見上げて星の話をする。僕はそんな天体観測が好きだ。
だが、これではもう円佳さんの宴会場となってしまっている。星を見るどころではない。円佳さんは楽しいかもしれないが、葵ちゃんはつまらないだろう。
どうやって葵ちゃんを円佳さんの魔の手から助けだそうか思案していると、背後から人の気配がした。驚いて振り返ると、そこには見慣れた人物がこちらへ手招きしていた。
「小夜?」
どうしてここにいるのかはわからないが、行き先を告げていたのでそれほど驚きはしなかった。葵ちゃんと円佳さんは話し込んでいるようだったので、二人には何も言わずに手招きする小夜の方へ行くことにした。
「どうしたの小夜? 何かあったの?」
「ごめん、どうしても気になっちゃって」
小夜はそう言って両の手を合わせ、首を傾げて謝罪のポーズをする。ほとんど悪びれている様子はないが。
「……とにかく、二人に見つかると気まずいから、歩いて話そうか」
「うんっ」
小夜はやけに機嫌がよさそうだ。僕自身、あまり天体観測が楽しめてなかったのでそれほど迷惑だとは思わなかった。
「私さ、すごく久々に葵ちゃんを見たの。すっごく可愛くなってたね」
小夜は藪から棒に話題を振ってくる。そういう返答に困る問いかけは、正直やめて欲しい。
「まあ、たしかに見違えるようだね。というか、もしかして覗いてたの?」
「ちょっとだけだよ。三分くらい」
小夜はいたずらっぽく笑いながら、人差し指と親指で距離を作り、長さを表現していた。こういう子供っぽいところはずっと変わらない。
「円佳さんも可愛かったなー。誠司が浮気しないか心配だよー」
「もしそうだったとしても、さっきの姿を見れば百年の恋も冷めるというか……」
「あはは、そういうのが好きっていう人もいるかもよ?」
そんな心配をしなくても、僕は小夜だけで充分だ。いや、小夜じゃないと駄目なんだ。僕の居場所は、彼女の隣以外にありえない。
「こうやって、二人でこの山の中を歩くのも久しぶりだね」
小夜は夜空を見上げたまま言葉を発する。きっと今の彼女には、星の名前や星座が頭の中にたくさん浮かんでいることだろう。それくらい、彼女は星が好きなのだ。
「ほら見て誠司、夏の大三角」
小夜は遥か彼方にある星を指さしながら、僕に呼びかける。夏の大三角は、酷い光害の中でも見えるほど強く輝くアステリズム(星群)だ。都会で星がほとんど見えなかった時も、彼らを見て勇気をもらっていた。
「ベガとアルタイルは、大の仲良しさん」
小夜が上を見ながら指をくるくる回して、誰に言うともなく語り始める。長い髪に結んだ子供っぽい大きなリボンがゆらゆらと揺れている。その二つの星は、七夕の織姫と彦星だ。
「私が織姫で、誠司が彦星!」
小夜は無邪気な少女のようにはしゃいでいて、まるであの頃に戻ったかのように錯覚してしまう。いつも二人で星を見ていた、懐かしい頃に。
「僕はちゃんと、彦星になれているのかな?」
「もちろんだよ。私の彦星は、誠司だよ」
小夜は優しい瞳を僕に向けながら、とても穏やかな声で言った。それだけで、心が満たされていくようだった。
「ねえ、誠司。あの橋のところにいこっか」
小夜は想い出の場所に着くなり、待ちきれないとばかりに駆け出した。橋のちょうど真ん中あたりまでくると、さっそく夜空を見上げていた。
「ここは何年経っても変わらないな……」
小夜はため息をこぼすように呟く。僕も誘われるように、空を見上げた。
そこには、本当に小夜の言う通り、記憶の景色と何一つ変わらない星空が広がっていた。光る砂をたくさん敷き詰めたような星々に、ミルクをこぼしたように淡く白色に染まった天の川。どれもこれも、記憶の中の風景と全く同じであった。
そして、それを見る小夜の瞳も、変わらない。僕は小夜と出会った時から、彼女の瞳の中に星と同じかそれ以上に綺麗なものを見ていた。それは今も、この先もずっと、続いていくのだと思う。
「ずっと昔に、ここを目指して旅立った光たちが、今、私たちに降り注いでいる」
小夜はまるで詩を詠むように口ずさむ。恒星の光は、人には想像すらできないような途方もない道程を旅している。そして、悠久の時をかけて僕たちの元へたどり着くのだ。子供の頃は知らなかったことを、今の僕らは知っている。
「誠司」
小夜はゆっくりと、髪をなびかせながら振り向く。その仕草が妙に儚げで、一瞬、小夜がこの星空のように朝には消えてしまうのではないかと不安になった。
「私ね、今とっても幸せだよ」
小夜は満天の星空を背にして、僕に薄く微笑みかける。その姿はあまりに神々しく、美しかった。まるで自分が、現実に立っていないかのような、ふわふわした感覚になる。
「小夜……」
僕は夢心地で、手を伸ばす。一緒に星を見て、手を取り合った、幼い日のように……。
「誰と、話しているんですか?」
幻想から、いきなり現実に引きずり込まれるような感覚だった。僕は弾かれたように手を引っ込めると、声のした方へ振り向いた。
そこには、葵ちゃんが立っていた。いつもの無表情ではなく、射抜くような鋭い眼光で僕を見据えている。まるで、僕が何か罪を犯そうとしているかのように。
「葵ちゃん……?」
その鬼気迫る重圧に押しつぶされ、僕は素直に問に答えることができない。彼女がどうしてここにいるのか、なぜ怒っているのか、様々な要素が僕を混乱させた。
「だから、誰と話しているんですか!?」
葵ちゃんは普段からは考えられないような怒気を含んだ声を張り上げた。僕は完全に萎縮してしまい、一先ず質問に答えなければまずいと思った。
「さ、小夜だよ。というか、葵ちゃんも知ってるよね……?」
ちらりと小夜の方へ視線を向けて答える。そもそも、葵ちゃんと小夜は知り合いなのだから、わざわざ説明する必要はないはずなのに。それでも、このような問いかけをしてくるということは、葵ちゃんは僕と小夜が話すことが気に入らないのだろうか。それとも、会うのが久々で小夜だと気づいていないのか。
「っ……」
葵ちゃんはさらに表情を歪め、苦虫を噛み潰したような顔になる。ますます怒らせてしまったようで、僕は本当にどうしたらいいのかわからなくなる。
「……誠司さん、小夜さんがどうして星が好きだったのか、覚えていますか?」
葵ちゃんは、ゆっくりと橋の中心を歩きながら、僕へ近づいてくる。その様子はまるで、罪人に罰を与える裁きの天使のような印象を受けた。
「どうしてって……小夜は子供の頃から好きだったから、特に理由はないと思うけど……」
「あります。家から離れるために外へ出て、星に救いを求めていたからです」
葵ちゃんの言葉に、僕は衝撃を受けた。それは決して触れてはならないことだ。ましてや、小夜のいる目の前で。
「葵ちゃん、それ以上は言っては駄目だ」
僕は真剣な眼差しで、咎めるように言う。だが、葵ちゃんは全く怯まない。
「両親から受ける虐待から逃げるために、星を見ていたんです」
「葵ちゃんっ!」
僕は思わず声を張り上げ、葵ちゃんの両肩に手を置く。隣にいる小夜の表情は蒼白になり、今にも崩れ落ちそうな状態だった。しかし、それでも葵ちゃんは僕の目を見据え、臆することなく続ける。
「でも、小夜さんはあなたがいたから平気だって言っていました! 誠司さんも、小夜さんを助けるために努力してた! でもっ、でも……私たちはまだ子供で、どうすることもできなくてっ!」
葵ちゃんは自分の感情を爆発させるように、一気にまくし立てる。そのあまりに必死な様子に、僕は先ほどまでの怒りを忘れ、唖然としてしまう。
たしかに彼女の言う通り、僕は小夜を虐待から助けだそうとしていた。あの悪魔のような父親に、時には殴られることもあった。それでも僕は、諦めなかった。
元々、小夜と一緒に大学へ行こうとしたのも、彼女の両親から離れるためだった。残念ながら、その思惑は失敗に終わったが。
だが、今は小夜は両親の元を離れて、僕と一緒に暮らしている。その問題はすでに解決したことなのだ。今さら掘り返して、いたずらに小夜の心を抉るのはやめて欲しい。
「葵ちゃん、それはもう終わったことだ。今さらそんな話をして何になる?」
「……っ、そして、小夜さんはっ、高校生の時に、父親から性的な虐待を――!」
「やめろ!!」
僕は今までで一番大きな声を上げる。それはもっとも陰惨で、残酷な事件。今も小夜の心を静かに壊し、蝕み続ける悪魔の呪いだ。
葵ちゃんの肩を掴む力がますます強くなり、今まできつく張り詰めていた彼女の表情が、悲しみに歪むのが見えた。
「それでっ……小夜さんは……さよっ、さんは……」
葵ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしながらも、懸命に言葉を紡ごうとする。心臓を針で刺されるような痛みがしたが、小夜を守るためにも僕は肩を掴む力を緩めることはなかった。
「いい加減にするんだ。ここには小夜がいるんだぞ」
僕の言葉に、葵ちゃんの肩は一際大きく震えた。そして、意を決したように僕を見て、はっきりと告げた。
「この橋から飛び降りて、死んだんです!!」
頭の中の回路が一本、切れたような音が耳の奥に響いた。
途端に耐え難い吐き気を催し、視界がぐらりと歪む。目の前の風景が蜃気楼なのではないかと思えてしまうほどに。
「何を……言ってるんだ?」
葵ちゃんは、肩を震わせて、大粒の涙を零しながら泣いている。彼女の震えが肩に置いた手から伝わってくるのがわかる。
僕は彼女の言っていることが理解できず、ただ答えを促すことしかできない。
「だって……小夜は隣にいるじゃないか。ほら、そこに!」
僕は小夜を指差しながら問いかける。しかし、葵ちゃんは首を左右に振り、否定した。
「……うっ……ひっく……そこ、には……だれも……いませんっ……」
頭を殴られたような衝撃が走った。世界が足元から崩れ落ちていくような感覚がして、立っていられなくなる。
「なっ……なに言ってるんだよ! 小夜はここにいるじゃないか! 姿だって見えるし、声だってする、温もりだって……!」
そこでふと気づく。僕は最近、小夜にほんの数瞬しか触れていない。今の彼女に、本当に温もりはあるのか?
葵ちゃんは、その場に膝をついてへたり込む。下を向いて静かに涙を零す姿には、いつもの凛とした雰囲気はまるでなかった。
「まどか……先生がっ、言ってました……誠司さんはっ……精神病だって……」
「精神病……」
その現実味のない言葉に、ついオウム返しをしてしまう。前にノンフィクションの映画で見たことがある。自分の無二の親友が、実際には存在せず、幻覚であったという話を。
だが、小夜は幼馴染で、ずっと一緒で、その名前を葵ちゃんだって知っている。彼女は想像上の人物ではない。
「悪い冗談はよしてくれ! 僕は狂ってなんかいない!」
「電話……」
「え?」
「してましたよね……いつも……」
突然、脈絡のない言葉が出てきて、思考が停止する。葵ちゃんは構わず続けた。
「おかしいと思ってたんです……だって……誠司さん、呼び出し音しかしないのに……一人でだれかと……しゃべっているんです……」
「は……?」
そんなはずはない。僕は毎日、帰る前に家に連絡を入れていた。そうしたら、小夜はすぐに電話に出て、早く帰ってきてねと笑っていた。あの声は全部、幻だったというのか?
「うっ……誠司さん……どうか思い出してください……。あなたはここで……小夜さんの最期を、見届けたんですよ……?」
葵ちゃんは僕を見上げて、懇願するような眼差しをする。涙でぐちゃぐちゃになったその表情は、とても嘘を言っているようには見えない。
「さい……ご……?」
隣にいる小夜を、見つめる。星空を背にしたその姿は、いつか見た光景に重なった気がした。
「あなたを照らす、星になるんだ」
「さよっ!!」
僕は小夜に向かって手を伸ばす。しかし、既のところで、僕の身体は止まってしまう。今、彼女に触れてしまえば全てが終わってしまう。そんな気がした。
「誠司……」
悲しみを含んだ目で僕を見つめながら、名前を呼ぶ。そこにはたしかな現実味があって、とても幻覚には見えなかった。
「小夜は、ここにいるんだよね……? 死んでなんか、ないよね……?」
「……」
小夜は何も答えない。ただ、悲しげな瞳で僕を見つめているだけ。
ふと、背中に温もりを感じた。葵ちゃんが、後ろから僕を抱きしめていた。
「ひっくっ……うっ……かえってきて……誠司さん……。わたし……なんでもしますから……」
もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。小夜の姿も、葵ちゃんの温もりも、この星空も、全てがまやかしに思えてきて、何もかも信じられない。爆発するほど脈打った心臓は、今にも飛び出してきそうだった。
「小夜さんがベガで、誠司さんがアルタイルだとしたら……わたしは、デネブです……。あなたたちを、側から見守ることしか、できなかった……」
デネブは、夏の大三角の中で、織姫にも彦星にもなれなかった星。彼女はずっと小さい頃から、そんなふうに僕たちを見ていたのか……?
「天の神様は……織姫と彦星を、引き裂いてしまったんです……。もう、会えないんです……」
七夕の伝説では、働かなくなった二人を、神は天の川で隔てて引き裂いてしまったという。
僕たちは何をしたというのだろうか。二人でここから出るために必死に勉強して、一緒に頑張っていたのに、何がいけなかったというんだ。
目の前で悲しい表情をしている小夜が、とても遠い存在に感じる。僕らを隔てる数十センチの間に、天の川が流れているようだった。
「うっ……くっ……ぁ……あぁ……あぁぁぁああああああ!!」
地の底から響くような慟哭が、星空に木霊した。
/4
それから僕は、即座に入院することになった。病名は、統合失調症。幻覚、妄想などを見る病として、よく知られているものだった。
円佳さんは僕の異常に薄々気づいていたらしく、密かに準備を進めていたらしい。驚くほどスムーズに、僕は治療を受けることになった。当然、仕事は休職することになった。
恐らく、円佳さんが天体観測に付いて行くと言ったのは、僕の病気で万が一のことがあった場合を想定していたのだろう。事実、橋で僕が叫び声を上げた時、円佳さんはすぐさま駆けつけてきた。彼女には本当に頭が上がらない。
思い返せば、すべての出来事に納得がいった。
小夜が大学へ行けなかったのは、受験で失敗したからではない。そもそも彼女は僕よりも勉強ができたのだ。普通の理由でいけないはずがない。それに、もし小夜がいかないのなら、僕もやめていただろう。小夜をここに一人置いていくことなど、できるはずがない。
小夜の名前を出す度に葵ちゃんの表情が曇ったことも、大学生になってからほとんど星を見なくなったのも、天文学者という夢を諦めたのも……すべて、小夜がこの世にいなかったからなんだ。
小夜がいない世界なんて、考えたこともなかった。
ここは、どこなんだろう。
自分が元いた場所とは、似て非なる並行世界に迷い込んでしまったかのよう。
もしかすると僕は、小夜を置いて星の光の向こう側へ、きてしまったのかもしれない。
それからはただ、地獄のような日々が続いた。
小夜の幻影は、どんなに振り払おうとしても、ついて回った。
「お前は幻だ! 本当の小夜じゃない!」と言うと、彼女はただ悲しい目をして、僕を見つめてくるのだ。それだけで、胸が張り裂けそうになる。
やがて、小夜はただ静かに泣くようになった。病室で僕のベッドの横にしゃがみ込み、一日中、しくしくと涙を流すのだ。それは夜中も延々と続けられ、僕は眠ることができなくなった。
この世で一番見たくなかったものを、ずっと見せつけられる苦痛。ここまで惨い拷問が、他にあるだろうか。自分の身体が傷つけられた方がましだと思えた。
しかし、人間とは恐ろしいもので、そのような感覚も少しずつ摩滅されていく。気がつくと、小夜の泣き声は、頭の中でゲシュタルト崩壊してしまったかのように、ただの物音のようにしか聞こえなくなっていった。
また、薬の副作用はさらに僕の心を蝕んだ。少しずつ意識が愚鈍になっていき、感情が平坦になっていくのだ。趣味や好きだったことがどうでもよくなり、意欲というものが湧かなくなっていった。薬を飲めば飲むほど、少しずつ自分が失われていくような気がした。
それでも、僕が自分を保っていられたのは、支えてくれる人がいたからだ。葵ちゃんは、就職して忙しくなっても、週に一度は必ずお見舞いにきてくれた。
どうしてここまでしてくれるのか尋ねると「私は出会った頃から、誠司さんと小夜さんが好きでした。だからずっと、あなたたちと同じ場所に、立ちたかったんです」と言っていた。
僕は『たったそれだけの理由で?』と思ってしまったが、彼女にとってはそれで充分らしい。
そんな彼女に僕が惹かれていくのに、そう時間はかからなかった。
「うぅ……ひっく……うぁ……」
今日も隣で、小夜が泣いている。視覚と聴覚の情報が頭の中に入ってくるだけで、それ以上の感情は湧いてこなかった。
僕はこのまま、小夜のことを忘れて、生きていくんだろうか。
もう、彼女の笑顔も声も温もりも、朧げにしか思い出せない。このまま時が流れていけば、彼女との想い出は風化するようにゆっくりと消えてしまうのかもしれない。
本当に、それでいいのだろうか。
僕が見捨ててしまったら、小夜が生きた短い時間は、全くの無意味になってしまう。彼女を忘れないことが、僕ができる唯一の償いではないのだろうか。
ベッドの下で膝を抱えている小夜を見る。幻である彼女は、何も答えてはくれなかった。
唐突に、病室の引き戸が開く。
「久しぶりだな、誠司くん」
そこには懐かしい人が立っていた。
「円佳さん……。きてくれたんですね」
「あぁ。なかなか顔を合わせられなくてすまないな」
円佳さんは適当な椅子を持ってきて、僕の前に腰掛ける。仕事を共にしていた時とは違い、穏やかな目をしていた。
「……まだ、いるのか?」
僕は答える代わりに視線をベッドの下へ落とす。円佳さんはそれだけで察したようで、悲しげに目を伏せた。
それからお互いしばらく黙っていたが、先に円佳さんが口を開いた。
「葵が相談してきたんだ。どうすれば、君を助けられるのかと」
円佳さんの言葉に、背筋が震える。自分は一体、どれだけの人に迷惑をかけているのだろう。罪悪感に押し潰されそうになる。
「私は待つしかないと答えたが……。人間はいつまでも待っていられるほど、強いものではない。
誠司くん、たしかに精神病はれっきとした病気だ。気の持ちようで治るものではないというのは重々承知している。しかしな、私にはやはり、君が前に進むことを恐れているように見えるんだ」
円佳さんは諭すように言葉をかけてくる。そこに威圧するような勢いはなかったが、静かに先を促す強い意志が感じられた。
「それは……」
僕はしばらくの間、逡巡していたが、彼女の真剣な瞳を前にして、今の気持ちを打ち明けることを決意した。
「このまま、小夜のことを忘れるのが怖いんです……」
僕の声は、どうしようもなく震えていた。
「小夜は……半身で、魂で、全てでした。彼女さえいてくれれば、他には何も必要ありませんでしたし、僕の行動原理は、何かも彼女のためでした。
小夜を切り離してしまうと、僕は夢も希望もない、ただの人の形をしたモノになってしまう。それは、生きていると、言えるんですか……」
一度話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れ出してきた。年下の葵ちゃんには言えなかった自分の弱い部分を、円佳さんなら受け止めてくれると思ったからかもしれない。
円佳さんは僕の告白を受けて、眉根を下げ、憂いを帯びた表情で考え込んでいた。答えを真剣に考えていることが見て取れる。
そして長い時間をかけ、ゆっくりと目を上げた。
「私は、君の気持ちを真に理解することはできない。今まで生きてきた中で、自分以上に大切だと思った人がいないからだ。だがな、これだけははっきりと言える」
円佳さんは、強い眼差しを僕へ向けた。
「君はもう、充分、頑張った」
その言葉は、全く予想だにしないものだった。
「人間というのは、忘れなければ生きることができない。どんなに強い心を持っていても、辛い経験を全て覚えていたら、狂人になってしまうだろう。なのに君は、自身の現実を曲げてまでして、小夜さんの存在を自分の中に留めようとした。それは、並大抵の事ではないはずだ」
僕はずっと、自分の心が弱いから小夜という幻に逃げていると思っていた。だが、円佳さんはよく頑張ったと、自分を追い詰めすぎたからそうなったのだと言ってくれた。
ただ僕を励ますだけの都合の良い解釈かもしれない。それでも、その言葉は心の一番深いところへ届いた。
「これ以上、彼女のために身を削る必要はない。もう、休んでもいいんじゃないのか……?」
「……っ、円佳さん……僕は……っ」
涙が溢れて出して、止まらなかった。情けない僕の姿を、円佳さんは黙って見守ってくれていた。
どれくらいの月日が流れたのかわからない。辛く苦しいだけの毎日に、日付など無意味な情報だった。
僕の病気は緩やかに快方へ進み、小夜を見る機会も少しずつ減っていった。
そして、退院してしばらく経ったあと、僕は最愛の人と結婚した。
結婚式は、親族と数名の知り合いだけを呼ぶ、細やかなものにした。僕がまともな職業に就くことができなかったからなのだが、葵はそれでも構わないと笑ってくれた。
「まさか、君たち二人が結婚するとはな」
あれからも、何度かお世話になった円佳さんもきてくれた。彼女は今も教職を続けていて、まだ独り身らしい。結局、僕は教師を続けることはできなかったが、彼女との交流は今も続いていた。
「先生も、早く良い人見つけたらどうですか?」
花嫁衣裳に身を包んだ葵が、冗談っぽく円佳さんに問う。
「うるせぇ! ちくしょう、あと五センチ身長が高かったら私だってな! よーし、葵が投げるブーケは絶対に取ってやるぞ……!」
おどける円佳さんに、賑やかな笑いがあふれる。
僕は幸せだった。一度は全てを失ってしまったけれど、またやり直すことができる。この先、どんなに辛いことがあっても、葵と一緒なら歩んでいける。そう思った。
葵との誓いのキスは、いろいろなもので汚れてしまった僕を、洗い流してくれるような気がした。
/5
「……許さない」
「私のことを、忘れるなんて……」
「絶対に、許さない……」
「じゃあ誠司、行ってきます」
「ああ、行ってらしゃい」
新しい生活は、すでに軌道に乗って安定していた。定職に就けない僕は、パートタイムの仕事を転々として、小さいながらも収入を得ていた。一家の収入を支えているのは葵だった。
最近の社会は女性が積極的に働くことが許容されるようになってきたので、僕らのような家庭も以前ほど恥ずかしいものだとは思われなくなっていた。
家事は僕が中心になってやり、妻を支えた。他人には驚かれることも多かったが、僕らは全く気にしなかった。
そして、今の僕はパートも辞め、家事に集中していた。なぜなら――。
「あっ、あぁ、んぎゃぁ! おんぎゃあ!」
「どうしたどうした? お腹が空いたのか?」
新しい命を、授かったからだ。
「ふぅ……」
子供を寝かしつけ、ほとんどの家事を終えたあと、一息ついて椅子に座っていた。
窓から差し込む明かりが朱に染まり、日が落ち始めていることに気づいた。
ふと、外を見ると茜色の空に金星が輝いているのが見えた。
「……先生も、綺麗だと思いますか?」
葵と一緒に天体観測をしたあの日を思い出す。
もう何年前の出来事だろうか。遠い過去どころか、別世界のお話のように感じられる。
あの事件で、僕の世界は逆さまにひっくり返ったけれど、人間とはたくましいもので、反転した世界でも居心地がよいと感じることができるようになった。
例えるならば、青が赤に、赤は緑に、緑は青になったような景色でも、美しさを見出すことができるようなもの。決して大袈裟な例えではなく、本当にそれほどに変わった。
ふと、視線を動かすと、カレンダーが目に入った。今日は七月七日、七夕の日。織姫と彦星が、年に一度だけ会うことを許される日。昔は、狂おしいほど会いたいと願う人がいた。だが、今はもう――。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
考え事をしていると、突然、赤ん坊の泣き声が耳を貫いた。この時間に泣くことは滅多にないのに、一体どうしたのだろう。
「おしっこでもしたのか……?」
僕は腰を上げ、隣の部屋にあるベビーベッドの方へ歩き出す。そして、視線を赤ん坊の方へ向けた時、自分の目を疑った。
「え……?」
そこには、居るはずのない人が、立っていた。
「あらあら、どうしたのー? お腹空いちゃったのかなー?」
小夜が、赤ん坊の髪を、撫でていた。
「………………」
全く言葉が出なかった。
懐かしいとか、嬉しいという感情は一切なく、彼女を久しぶりに見た時にまず浮かんだのは、恐怖だった。全身から冷たい汗が吹き出し、体の震えが止まらず、足元がガクガクと揺れる。
頭の中で、小夜がしくしくと泣く声が繰り返される。忘れようとしていたあの音が、再生される。
「誠司」
小夜が僕の方を流し見る。そこに優しさは欠片もなく、氷柱のように冷たく、鋭利な眼差しがあった。僕は蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなった。
「どうして私を置いていったの? どうして一人だけで、幸せになってるの?」
小夜の声は、責めるようでも、悲しげでもない。ただ淡々としていた。
「私は誠司がいないと嫌だよ……違う世界に行っちゃうのは、いやだよ……。ねぇ、帰ろう? 私たちが元いた場所へ。星がたくさん見える、綺麗な場所へ」
小夜は手を差し伸べる。男に触れることができないはずの、その手を。
「……だまれよ」
僕は奥歯を噛み締め、足に力を入れる。体中の勇気を振り絞り、決意と信念を掲げ、正面から小夜を見据える。
「この世は残酷で、理不尽で、悲しいことばかりだった。一度は全てに絶望して、消えてしまいたいとさえ思った。でも、支えてくれる人がいたから、まだ生きていたいって思えたから、だからここにいる。
僕は、新しい道を歩み始めたんだ。もう、君の元へは帰らない。これ以上、僕を苦しめるのはやめてくれ、小夜!!」
小夜への、これ以上ないほどの拒絶。僕は汗を滲ませ、荒い息をつき、力を全て出し切らんほどの勢いだった。だが、決して膝をついてはいけない。小夜が、僕の前から消えるまで、絶対に。
「……そっか。誠司には、私よりも大切なものができちゃったんだね」
小夜はちらりと、赤ん坊を見る。今の僕には家族という、最も尊い存在がいる。例え小夜が生きていたとしても、最優先すべきものはすでに入れ替わっている。
「そうだ……。もう諦めてくれ、小夜。たしかに、君を守れなかったのは僕の責任かもしれない。でも、そろそろ赦してくれても、いいだろう……?」
「そうだね……うん、そうだね……」
小夜は静かに呟きながら、ゆっくりとベッドへ近づいていく。そして、慈しむように赤子の頭を撫でる。その横顔には、昔の優しい小夜の姿が、少しだけ垣間見えた気がした。
「葵ちゃんが羨ましいな。織姫でも彦星でもなく、デネブである彼女は、神様に仲を引き裂かれることもないんだから……」
夏の大三角。それは、僕たち三人の関係を、この上なく的確に表した存在だと思った。
気がつくと、部屋の中は藍色に染まり始めていた。そろそろ金星は姿を消して、夏の大三角が見える頃だろう。
「小夜、終わりにしよう。どんなに似ていたって、僕らは星じゃない。どうやったって、織姫にも、彦星にもなれないし、デネブにだってなれやしない。一年に一度だけ会えるという都合のいい夢物語も、ここにはないんだ。
あるのは、人が勝手に意味を見出したアステリズムのように、複雑に絡み合った人と人との関係だけだ」
自分の言葉に、心が抉られるようだった。どうして僕らは、物語の主人公とヒロインに、なれなかったのだろう。小夜の美しい世界を否定して、醜くて理不尽な現実を肯定しなければならない自分が、たまらなく悔しかった。
「……そっか」
小夜はふっと、薄く笑う。その姿は、あの橋の上で星空を背にして僕に微笑みかけたものに、どこか似ていた。
「だったら……」
小夜はゆっくりと、手を伸ばす。その光景はスローモーションのようで、目の前で起きている出来事に、どこか現実味がなかった。
「誠司の世界を、壊してあげる」
赤ん坊の首を、小夜の両の手が包み込んだ。
「さよぉっ!!」
僕は無我夢中で小夜の腕を掴み、引き剥がそうとする。しかし、まるでそこだけ時間が止まっているかのように動かない。
「やめろ! さよ! やめてくれぇぇえええ!!」
「私の苦しみを忘れて、のうのうと生きているなんて許せない! 誠司も、葵も!!
親に殴られ、罵られ、尊厳を否定され、挙句の果てには犯された! だから私は、復讐のために自分を殺した! あなたたちの記憶に、私を殺した悪魔の存在を刻み込むために! やつらを決して、赦してはならないということを伝えるために!」
そうだ。たしかに小夜を殺した悪は、今も被害者面をして、誰にも裁かれることなく生きている。僕はそんな彼らに復讐することも、責めることもなく、ただ不条理だからと、これが現実なのだと、勝手に割り切った振りをして諦めていた。本当にそれは正しいことなのだろうか。
「誠司は絶対に忘れないって! 私を誠司の中に残してくれるって信じてたのに!!」
その時、病室での円佳さんの言葉が頭をよぎった。
『君は、自身の現実を曲げてまでして、小夜さんの存在を自分の中に留めようとした』
あの日を境に、僕の中の小夜は消えた。いや、消したんだ。
そうか、今、目の前にいるのは小夜じゃない。
僕の後悔が生み出した、自己満足のための幻想だ!
「消えろぉぉおお! さよぉおお!!」
僕は力の限り叫び、小夜を突き飛ばした。
「ただいま」
玄関から、葵の声がする。僕はそれに返事をすることもなく、ただ呆然と突っ立っていた。
「……どうして真っ暗なの?」
葵は居間に入って、電気を付ける。その隣の部屋にいる僕の姿が薄暗く照らしだされ、自然と葵の目に入る。
「誠司?」
真っ暗な部屋に立ち尽くしている僕を不審に思ったのか、葵が声をかけてくる。
そして、倒れたベビーベッドを見て表情を変えた。
「……え?」
葵の視線は、すぐさま床に転がっている赤ん坊へ移る。まるで壊れた玩具のように動かなくなっていた。
「うそ……うそでしょ、そんなっ……そんなのありえない!」
葵はすぐに倒れた赤ん坊を抱きかかえ、狂ったように名前を叫ぶ。しかし、全く動く気配はない。
「……小夜が……殺したんだ……」
震えるような僕の声を聞いた途端、葵の動きが止まった。そして、ゆっくりと僕を見た。
彼女の顔は、憎悪と怒りで悪鬼のごとく歪み、歯を食いしばり、血の涙を流していた。
「あなたを信じた、私が馬鹿だった」
それは地の底から響くような怨念の声で、彼女のものとは思えない、黒く染まった醜い音だった。
「違う……違うんだ……僕じゃない。小夜が……小夜が……」
「黙れ人殺し!!」
轟くような声が、木霊した。その衝撃は、何か大切な境界線みたいなものを、破壊した。
また、この感じ。
自分の体がふわふわと浮いている気がして、上手く立っていられない。
僕の世界は、再び反転した。
「いつもいつもさよさよさよさよさよさよさよ!! 自分の弱さも、罪も、全部小夜のせい! そんなに小夜が好きなら、一緒に死ねばよかったじゃない!!」
「あ……あぁ……あっ、はははは……」
涙と共に、笑いがこみ上げてきた。
本当に、葵の言う通りだ。この物語は、そもそも始まりから間違っていたんだ。
小夜が死んだあの瞬間から、全てが終わっていた。
欠損した歯車として生き続けたせいで、僕は葵の人生を巻き込んで、壊した。
「ごめん……ごめんよ、葵……君は、不幸だ。報われない。本当に、すまなかった……」
今さら謝っても、なんの意味もない。だが、そうせざるを得ない程に、彼女は哀れで、滑稽で、惨めだった。
「消えろ……もう二度と、私の前に現れるな!!」
あぁ……。
僕はもう、消えるよ。
「今までありがとう、葵」
いつか君に、幸福が訪れることを、祈っているよ。
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「はぁ……はぁ……」
僕は全身に汗を吹き出しながら、暗い山道を歩いていた。
極度の緊張状態だったためか、意識が朦朧とするが、それでもなんとか自分を奮い立たせ足を動かす。新月の夜の山は本当に真っ暗で、懐中電灯で照らす道以外は暗闇しか見えない。
その闇に視線を合わせると、網膜に張り付いた先ほどの光景が克明に見えてしまって、吐き気を催した。
もう少し……もう少しだ……。
僕は程なくして、あの橋へたどり着いた。時間が流れ、人は変わってしまっても、橋は子供の頃から全く変わらず、そこに存在している。
柵へ手を置くと、ぬるりとした嫌な感触と、粘着質な気持ちの悪い音がした。
僕の手には、大量の血がこびりついていた。体中、返り血だらけで濃い死の臭いが漂っている。
「……小夜、復讐は果たしたよ……」
どうして早くこうしなかったのだろう。そうすれば、誰も傷つくことはなかったのに。
ぼやけた目の焦点を、懸命に空の光へ合わせる。
そこには幼い頃、小夜と手を繋いで見上げたあの宇宙と、変わらない星空が広がっていた。
彼女は、夜空に輝く星だった。
眩い彼女の微笑みで救われていた僕は、まるで太陽を回る惑星のようだった。彼女が僕の光であり、夢であり、全てだった。
星々が無数に点在している夜空に、一際輝く夏の大三角が見える。
彼女は自分を織姫のベガだと言い、僕を彦星のアルタイルだと言った。今の僕は、アルタイルになれるのだろうか。
そっと手を上げ、ベガに向かってゆっくりと手を振る。あの光の向こうにいる彼女が、僕に気づいてくれるように。
神様、もし、最後に願いを聞いてくれるのなら。
僕を、彦星にしてくれるのなら。
二十五光年の距離を、今だけ零にしてください。
ゆっくりと、落ちていく。今の僕は、空気の絨毯に寝転んで星を見ているんだなと、どうでもいいことを考えた。
極限まで圧縮された時間の中で、様々な記憶が頭を駆け巡る。
小夜と手を繋いで星を見たこと。高校生になって天文学部を作ったこと。大学生になって夢破れたこと。教師になって円佳さんと出会ったこと。結婚したこと。小夜と出会った時のこと。そして――。
小夜が、死んだ時のこと。
「私ね、この世界で生きるのに、疲れちゃった。だから……」
「あなたを照らす、星になるんだ」
ベガに向かって、手を伸ばす。
小夜、君はもしかして、ただ僕に生きていて欲しかっただけなのか。
わからない。君の本当の気持ちは、もう、わからない。
地面はもう、すぐ側だ。
この星空も、見納めか……。
小夜……君は……。
星に、なれたのかな。
不意に、ベガが動いた気がした。
星の光が、落ちてくる。その輝きは目の前にまで迫ってきて、そして――。
星が小夜になり、僕の体を抱きしめていた。
「小夜……」
小夜はただ、穏やかで、優しく微笑んでいる。
僕と彼女を隔てていた、二十五光年という距離は、なくなった。
「そうか……やっと、わかったよ……」
小夜はずっと、僕のことを見守ってくれていたんだ。
あの光の向こう側から、ずっと。
「だからわたしは、星に向かって手をふることにしたの。あっちの世界の人が気づいてくれるかもしれないから」
「もし気づいたら、こっちにきてくれるのかな?」
「うんっ、きっとそうだよ。もしかしたら、あっちに連れて行ってくれるかもしれないよ!」
やっと、来てくれたんだね。
ありがとう、小夜。
これからは、ずっと一緒だ。
僕らは、星空の下で、キスをした。




