摩天の剣(6)
「大場!」
「うっさいわ、だあっとれボケッ!」
紅葉が反射的に上げた叫びに対してか、それとも受けた傷の痛みに対してか、またはその両方に対してなのか。
楓は忌々しそうに一声、暗い夜空に怒鳴り声を響かせた。
もしかすると、
自分に対する喝の意味もあったかもしれない。
見るからに深手。
それによる意識の混濁を防ぐための一声であったとも思える。
「くっそ……なんちゅう間合いや……しかし、形的には斬馬刀っちゅうよりも長巻やな……」
「……そんなことより、お前……その傷……」
心配そうに紅葉は言葉を発したが、そこまで。
言っても無意味な口を挟めば、それだけ楓に無駄な体力を使わせると、途中で言葉を切った。
右目の辺りをざっくり縦に切られ、そこからおびただしい血が頬を伝い、首を伝い、右の胸元を真っ赤に染めてゆく。
どう見ても深手である。
にもかかわらず、
「心配せんかてええ。うちはとっくに目ぇが見えへんねや。今さら役に立たん目ん玉がひとつ無くなったところで、どうってことないわ」
それでもなお、楓は悪態でも吐くような調子で言う。
さりながら、
どう考えても心配せずに済むような傷でないのは明らかだ。
左手首の出血も一向に止まらず、右目を切り裂かれた顔からの出血もまたおびただしい。
傷の深さに関係なく、これだけでも大量の失血によって意識を失うか、下手をすれば、急激な出血による出血性ショックで、最悪、命をも落としかねない。
改めて、
紅葉は我が身を呪った。
関井の家にさえ生まれなければ。
あの、影正の娘になど生まれなければ、誰も傷つかずに済んだろうに……。
いや、
これもまた手前勝手な解釈かもしれない。
自分が影正の娘で無かったとしても、影正の悪行によって不幸になる人々は出ていたろう。
茜の不幸もまた不可避だったはず。
根本的な原因はやはり、父である影正。
奴さえいなければ……。
とはいえ、それもまた思ったところで詮無いことである。
歴史に(たら、れば)は無い。
こうだっ(たら)。
そうなってい(れば)。
そんな考えは、起きてしまった現実には何の意味もなさない。
と、
急に。
まだ茜に一撃すら与えていない状態で、もはや戦闘の続行すら危ういほど追いつめられた事実がそうさせたのか、
楓は静かに話し出す。
「紅葉……」
何か、
怖いほどに落ち着いた口調。
「泣き言を言うつもりは無い。特にそれが勝負の最中ならなおのことな。けど正味の話、うちの真元流ではあいつに勝てる気がせん」
不思議と、驚きは無かった。
思えば、楓と自分とは実力的に互角。
その自分が勝てなかった茜に、楓も勝てないという判断を下したとして、何らおかしなところは無い。
「けど……それはうちが(尋常の勝負)で勝てへんいうだけのことや。こんな変則的な戦いの仕方する相手に対して、真っ向勝負では勝てん。そこは素直に認める。せやけど……」
言って、楓は大きく息を吸い、
「……(殺し合い)なら、うちのほうが上やで」
そう声を発した。
そして、
ゆっくりと、茜へと近づいてゆく。
「武士道とは死ぬことと見つけたり……なんて、軽い気持ちで言うやつもおるけどな。実際、ほんまに命のやり取りをする覚悟が出来とるもんが何人おるかっちゅう話や。剣は刃引きしてなまくらにし、その上、防断服で完全防御。それで命のやり取りやて?」
ふと、楓の声に笑いが混ざった。
「笑けるわ。よくまあ、そこまでがっちり身ぃ守っといて、生きるの死ぬのを気軽に口にするもんやとな。でも、そこはよう責められん。うちかて刃引きした剣に防断服着用した腰抜けのひとりや。けど、うちにはひとつだけ他の連中には無いもんがある」
そこまで、
言い終わると、楓は前進を続けながら、構えを捨てた。
居合はもちろん、正眼にも、八双にも構えない。
だらりと、脱力した体を揺らしながら茜へと近づいてゆく。
弓張斬馬の五徳猫は通常の間合いではない。
もうすでに、茜に対して危険域まで接近している。
「うちは一度、失明の恐怖からすべてを捨てた。失うもんなんぞ無いところまで、自分を完全に追い込んだことがある。型の無い我流の剣に、型で対抗すれば不利。さりとて、士道に沿うなら型は捨てられん。なら……型を捨て、士道を捨て、勝つことだけに執着すればええだけのことやろうが、普通のやつには捨てられへんよ。捨てる覚悟は持てへんわ。せやけど、うちは捨てることが出来る。一度は……捨てたことがあるからな……」
その、次の間、
楓が異様な体勢を取る。
見たことも無い姿勢。
一般の常識で考えられる剣の構えとは逸脱した姿。
押し込めたバネのように全身を縮め、地を踏む両足は、蓄えられた力で張り詰めて見える。
すると、
目の見えないその顔を、ばっと茜へ向けると、吠えるように、
「……型を捨て、士道を捨て、技を、誇りを、命を、何もかも捨てて、始めて出来る戦い方。よう見て、覚えぇや。これがほんまの……殺し合いの仕方じゃ!」
言い放ち、
突然に凄まじい速さで駆け出した。
それを、
迎え撃つ。
茜の、恐るべき間合いの一撃。
弓張斬馬の、反則的間合いからの一撃。
それを楓は……、
かわした。
まるで、
化鳥の如く、信じられないほどの距離、高さへ舞う。
間合いを詰めると同時、茜の頭上へと飛来した。
その姿を見て、
茜は、笑う。
剣をかわしたのは見事。
間合いを詰めたのも見事。
だが、
頭上に飛んだのは失策だ。
これでは身動きもとれず、茜からの二ノ太刀を喰らうことになる。
見ていた紅葉もそう思い、落下してくる楓を待ち構える茜を見て絶望した。
刹那、
落ちてきた楓を串刺しにせんと、茜は剣を天に舞う楓へ向けて突き出す。
ところが、
楓は宙空で自分の腰から鞘を抜くと、その突き立てられた剣へと……投げつけた!
有り得ない行動!
では、あったが、
結果はさらに驚くべきものだった。
鞘は寸分違わず、剣をその中へと収めてしまう。
驚いたのは茜も紅葉も同じだった。
まさか、ここに及んでこのような奇策に出るとは……。
しかし、
ふたりは知らない。
こんなものは、楓の(殺し合い)の剣術としてはまだ序ノ口だということを。
鞘で覆われた五徳猫を飛来する楓は蹴りつけるや、今度は逆に凄まじい勢いで茜の頭目掛け、剣を振り下ろす。
対し、茜は即座に影小太刀を抜いてそれを受け止めた。
が、とてもではないが無理。
上空から体重を乗せ、改めて両手に持ち直して振り下ろされる剣を、左手一本で持った小太刀だけではとても受け止めきれない。
案の定、左手は力負けして肘を曲げ、楓の剣は頭上に迫る。
ここに来て、茜の顔から余裕が消えた。
必死の形相で身を反らすと、楓の剣は頭をかすめ、代わりに左肩を胸近くまで切り落とす。
凄まじい激痛。
さらに出血。
流れ出る血は瞬く間に茜の左半身を染め、左足の靴にまで達した。
肉はおろか、左鎖骨も完全に両断され、もはや左腕は使い物にならない。
それでも、
楓は手を止めない。
茜の左肩から剣を抜きつつ、先ほど斬鍔で切られた自分の左手首に刻まれた傷へ口をつけ、血を吸った。
その間、茜はといえば五徳猫を包んだ楓の鞘を歯で噛み、まだ動く右手で引き抜きにかかる。
そこに、
楓が、
口から血を吐きかけた。
ちょうど五徳猫の鞘……弓張斬馬の状態である今は柄部分を握る茜の右手へ。
と、同時に五徳猫へ、自分の剣を力任せに叩きつける。
瞬間、
あっ、と茜が小さく声を上げ、
五徳猫を、
滑り落とした。
自らの血を、五徳猫を握る茜の右手へ吐きかけたのは、血のぬめりで手を滑らせようと、意図した戦術だったのである。
この時点で、もう勝負は決した。
はず、
にもかかわらず、
楓は攻めを止めない。
さらに一歩、深く前進し、茜に肉迫するや……、
剣を握った右の拳で、茜の横面を、力いっぱいに殴り飛ばす。
頬の内側が自分の歯に当たって切れ、口内の出血にむせて茜が血を吐いた。
そのまま、膝を折る形でコンクリートの地面に伏せた茜の腹部を、今度は左足で思い切り蹴り上げる。
再度、むせて咳き込むように茜は血を吐いたが、それでも楓は止まらない。
ほとんど倒れかけている体を支えていた茜の右手の甲へ、剣の切っ先を突き立て、抉る。
鼓膜が裂けるような悲鳴が上がったと思うと、茜は冷たい地面を転がり、のた打ち回った。
それをまだ……、
楓が蹴る。
蹴る。
蹴る!
蹴る!
蹴る!
見えないはずの左目を大きく見開き、牙を剥きだした隻眼の悪鬼羅刹が如く。
そんな形相で。
自身と、茜の流した多量の血にまみれ、蹴り続けた。
双方の傷が、動きに合わせてさらに激しく出血し、周囲を……濃密な血なまぐささが包む。
鼻を閉じ、口からの呼吸だけに止めても、空気を伝って舌にまで鉄臭い血の味が達する。
こうした修羅場に慣れているはずの紅葉ですら、あまりのことに思わず、えづいた。
そうして、楓は、
ほとんど動かなくなった茜の体を、足で押し開くようにし、ぐったりと力無く倒れているままに仰向けへさせると、
剣を、
逆手に構え、
頭の辺りに狙いを定め……、
その様子を恐怖に染まった瞳で見る茜に対し、
杭を打ち込むようにして……、
突き、
立てる!
「止めろぉっ!」
紅葉の叫び声が木霊す。
耳に……響く、
鈍く、不快な音と同時に。




