摩天の剣(4)
一階、倉庫部分での死闘を尻目に同時刻。
階段を上っていった茜を追って紅葉と楓も階を上がってゆき、ついに、
たどり着く。
最上階。
そこには、
狭い踊り場に、ドアひとつ。
これを開ければ、屋上。
ドアの向こう側付近に人のいる気配は感じない。
それでも警戒する。
一度戦っているだけに、あの茜という娘がどういう戦法をとってくるのかがまったく予測の外であるのが大きい。
ドアの向こうで、弓を構えていたとしても驚かない。
最悪、拳銃ですら持っていても驚かないだろう。
それほど予想が出来ない。
士倉茜。
恐らく、影正の娘である紅葉を屠るためなら、まず手段という手段を選ばずおこなってくる。
そうまでする理由がある。
だから、
紅葉もそれに対するだけの覚悟で向かう。
ひと呼吸、置いてからドアノブを掴み、押し開けようと……、
した。が、
その手を、跳ねのけられた。
楓に。
突然の妨害に、一体どうしたことか問おうと、紅葉は楓の顔を覗き込む。
と、
「まあ、焦りなや紅葉」
言って、楓は代わりにドアノブを握った。
あたかも、その行く手を遮るかのように。
「あの娘の相手はうちがする。あんたは見学や。因縁のあるもん同士で戦うたりしたら、解決するもんも解決せえへんようになる危険性が高いよってな」
「いや……しかし、あの娘は……」
「分かっとる。腕もそうやが、使う得物がひねくれとるんやろ。とは言うても、ふたりがかりであの娘を倒しても、絡まった因縁はそのまんまやで」
「……」
「心配せんかてええ。うちにも考えがある。あんたには戦わせるためにここへ来てもろたんとは違うけど、ちゃんと役割はあんねん。焦れるのはもっともやけど、ひとまずはうちとあの娘の戦いを見物しとってえや」
そこまで話すと、楓は紅葉の返事も聞かずにドアを開けた。
ほんの一瞬、
警戒心から全身に緊張が走った。
しかし、
すぐにそれは単なる杞憂と知れる。
開いたドアから見えたものは、まさに、
絵に描いたようなビルの屋上。
夜空を彩る様々なビル群の放つ光彩が、都会の夜景に独特の美しさを添える。
そして、
茜はそれを見ていた。
後ろを向いて。
夜景に見入ったまま、無防備な背中を晒している。
すると、
「……綺麗でしょお。ここ……」
背後でドアを開けた紅葉と楓に気付いたのか、独り言でも話すように茜は語る。
「道場が終わると、ここからよく一緒に街を眺めたんだぁ。夏にはさ、花火大会の花火がよく見えて、すごく……綺麗で……」
感傷的な響きのある声。
昔を懐かしんでのことだろうか。
無理もない。
ここは、
このビルは、
五年前まで士倉の道場がテナントとして入っていたビル。
言い換えれば、
影正によって潰された彼女の過去、そのものだ。
無論だが、その件について紅葉には何の罪も無い。
だが、それは理屈の話。
茜がそれを聞き入れ、理解出来るかということとは別の問題である。
それを分かっているだけに、紅葉もどう対処していいのかが分からない。
「お前……」
そこまで言ったところで、次ぐ言葉を失う。
恐らく、茜は誰の話にも耳を貸さない。
特に関井の血をひく自分の話などは論外だろう。
そんな、煩雑とした思考に混乱しつつ、紅葉は一歩、歩み寄る。
どうしていいかまでは分からないが、
ただ反射的に。
が、
瞬間、
バッ、と、振り返った茜の手元から何かが飛んできた。
反応が遅れる。
街の灯は照明としては不十分。
月と星からの薄明かりだけでは、とてもではないが、とっさの判断をおこなえるほどの光量は期待できない。
それゆえ、
一瞬、対処が遅れた紅葉へ、茜の投げたものは自然のように届く。
その、寸前、
ジャリンッ!
細かく、分割された高い金属音。
と同時に、視界に入る。
剣を構えた楓が。
「ぼうっとすな、相手はもうやる気満々なんやで!」
かけられた楓の言葉に、はっとする。
目の前で抜刀されている楓の剣に件の、茜が用いる奇妙な鎖が絡んでいた。
ふと視線をずらせば、今度はそれを投げつけた茜も見える。
顔はすでに松若で出会った時の、殺気に満ちた顔へ変容していた。
「……やっぱりねぇ。一度見せた技だと、どうしても対策されちゃうかぁ……」
そうは言っているが、態度には言っているような余裕の無さは微塵も無い。
むしろ、そこは想定していたと言わんばかりの表情を浮かべている。
いつの間に抜いたものか、五徳猫を右手に持ちつつ、左手で器用に鎖を手繰り寄せ、楓の剣を引きつけようと片足を踏ん張り、ぎりぎりと締め上げるように力を込めているのが分かる。
だが、
楓も揺らがない。
以前にも話していたが、やはり彼女は刀以外の得物に対する方策が、経験的に身についているのだろうか。
絶妙のバランスで加えられる鎖からの力に対しても、楓の剣は微動だにしない。
「なるほどな……これが紅葉の言うとった妙な鎖かい。確かに、こうもしっかりと絡まれたら厄介やけど……こないしたら、どや!」
言い放って、楓は剣に絡めた鎖を引く茜へ、あえて一気に突進した。
驚異的な歩法。
一足飛びで二間近くも離れていた茜の懐へ飛び込む。
と、同時に、茜と鍔迫り合いの態勢になった。
「さあ、ここまで肉迫されたら、どない動くつもりや、あ?」
ぎりぎりと合わせた剣を押し込み、楓は茜の鎖を封じる。
体勢的にも、楓が有利に転じた。
そう見えた。
途端、
ニィッ、と、口元を歪めて茜は笑うと、
「……五徳猫が三徳目、斬鍔!」
さっと、五徳猫の鍔へ左手を這わせたと思うと、
鍔が、取れた。
いや、違う。
鍔だと見えていた外枠が外れ、本物の鍔が現れた。
それは、
まるで車輪型の刃!
「なっ!」
楓がその様に驚いたのが早いか、茜はそこから鍔迫り合いで刀身を合わせていた剣を、ぐるりとひねる。
刹那、
「痛ぅっ!」
楓の、左手首が今や刃と化した五徳猫の鍔に切り裂かれた。
それと同時、
楓が退く。
ダンッ、と、コンクリートの床を蹴りつけ、後方へ飛び退る。
敵の手の内……引き出しが想像以上に多いことに危機感を感じ、一旦、体勢を立て直そうと、距離をとった。
そしてすぐさま、防断服のタイを引き抜くと、切られた左手首の少し上側をきつく縛る。
応急の止血処理だが、見たところ一向に出血の止まる気配が無い。
「おい、大丈夫か!」
まずどう考えても大丈夫とは言えない事態を見ながらも、口を突くのはこんな月並みの言葉。
とはいえ、紅葉は声をかけずにはいられなかった。
「大丈夫や、問題あらへん。まだちゃんと手は動くわ」
「だが、止血してるのに出血が全然止まらないじゃないか!」
「大声出しなや。神経と腱が無事なら、血管はくれたる。うちは血の気が多いさかい、多少は血の気が抜けたほうがちょうどええ」
イラついたように大きな息を吐きつつ答える楓の本音は読み取れない。
本当に大丈夫なのか。
本当はまずいのか。
右手と歯で器用にタイを手に巻きつけている様子からは、少なくとも余裕は感じられない。
無理をしているとしたら危険だ。
それだけに、
紅葉の中である種の感情が膨らみ、
胸の中で、のたうつそれが限界に達した。
その時、
「もう止めてくれ!」
本能的に、紅葉は叫んだ。
茜に向けて。
肌寒い夜空へ木霊すように、紅葉の声が夜の闇へと吸い込まれ、
続けて、
「……頼むから、もう止めてくれ。お前の恨みは分かる。道場を潰され、家族を奪われた恨みは、私にだって分かる。私もあの関井……影正からは捨てられた身だ。だから、出来る限りの謝罪はする。詫びろと言うなら、いくらだって詫びる。だからもう、こんな意味の無い復讐は止めにしてくれ……」
聞いているだけでも痛ましい声で、紅葉は言った。
その後……。
しばし、
場に沈黙が訪れる。
紅葉も、楓も、茜も。
誰も動かない。
誰もしゃべらない。
時折、強く吹き込むビル風だけが、耳をビュウッ、と鳴らす。
それから、
どの程度の間があってからか。
やおら、茜が動いた。
表情の消えた顔で。
ゆっくりと、
紅葉のところへ歩み寄ってくる。
「……そっかぁ……分かるんだぁ……」
ぼそぼそとつぶやくように、
「……分かるんだねぇ……お姉ちゃん……わたいの気持ち……」
少しずつ、紅葉に近づきながら、
抜き放っていた剣を、鞘に収め、
「……じゃあさぁ……」
そこでピタリ。
紅葉の、ほぼ目の前。
互いに剣の柄にも手を当てず、見つめ合う。
その反応に、紅葉はわずかながらの希望を抱いた。
話し合えるかもしれない。
話して、分かってもらえるかもしれない。
そう、思った。
瞬、
転!
「ど阿呆っ!」
目の前が塞がる。
楓の体で。
始め、自分に何が起きたのかが分からなかった紅葉も、楓に抱えられながら床へ倒れ、そこを転がるうちに気がついた。
楓が、自分を抱えるようにして体当たりをしてきたのだと。
だが何故?
なんでそんなことを今、このタイミングで?
混乱する頭を整理しようと、楓に抱かれながら辺りを見渡した紅葉は、そこでようやく悟る。
距離の離れた茜。
その人影。
抜刀している。
しかし、
柄には手をかけていなかった。
腰に帯刀した剣の柄もそのまま。
では、その手に持った剣は?
そこで、
ふと目に留まる。
茜の帯刀する剣の鞘。
よく見ると、鞘の下部分が切り落とされたように無くなっている。
ということは……?
「……五徳猫が四徳目、影小太刀……」
つぶやいた茜の言葉で合点がいった。
あの剣は、鞘の下部に小太刀を仕込んであるのだ。
どこまでもからくりに富んでいる。
いや……感心している場合ではない。
自分を庇い、転がった楓が素早く立ち上がるのを見ると、その背中はざっくりと小太刀で切り裂かれていた。
出血はさほどしていないところから見て、浅手と思っていいのだろうが、問題なのはそこではない。
自分の不注意で楓を危険な目に遭わせてしまった。
自責の念で、心が潰されそうになる。
「……あ……」
立ち上がった楓に、声をかけようとは、した。
ところが、かける言葉が見つからない。
情けなく、なお地に伏しながら、立ち上がった楓をただ、見つめることしかできなかった。
「くそったれが……一体、どんだけ手が込んどんねん。あの刀……」
悪態をつきながらも、しっかと立っている様子からして、やはり傷だけは浅かったらしい。
そんな、
楓の視線の先。
抜き放った奇妙な隠し小太刀を鞘に収めつつ、茜は無表情だった顔を一転させ、凍りつくような視線を紅葉に向けていた。
楓など眼中にも無いとばかりに。
全身から怨念を、煙の如く溢れ返して。
「……気持ちが……分かるんなら……返してよ……」
つぶやき声でありながら、耳に張り付くような声。
いや……染み付いて離れない声だろうか。
それを発しつつ、茜はまた近づいてくる。
「……返してよ……」
抜刀し、空を裂くようにひと振りして、
「返してよ……お父さん、返してよ。お兄ちゃん、返してよ……」
紅葉は、
耳を塞ぎたくなる衝動を必死で押さえた。
聞きたくない!
もう聞きたくない!
そう思っても、それが茜の心の叫びだとすれば、自分にはそれを聞く義務がある。
その理性だけが、かろうじて紅葉の正気を保たせていた。
が、
茜は違う。
さらに狂気を増幅してゆく。
憎しみ。
恨み。
悲しみ。
怒り。
それらが彼女の四肢を鋼のように強くし、今、まさに向かってくる。
「……返して……返せ……返せ、返せぇっ!」
何かが、
弾けた。
茜の中で。
転瞬、
「!」
楓は……反応すら、できなかった。
声を上げる暇すらなかった。
一瞬。
瞬く間。
まだ間合いは詰まっていなかったはずなのに、
その切っ先が、届くはずが無かったはずなのに、
届く。
それも、
絶望的な結果を出して。
直立していた楓の顔目掛け、右目から頬の下辺りまでを断ち割られ、
楓は……、
立ったまま、顔から大量の鮮血をまき散らす。
ぐらりと揺れる体に合わせたように、暗闇には鮮やか過ぎる血飛沫が舞う。
「五徳猫が五徳目、弓張斬馬!」
はっとし、紅葉は茜の手元を見た。
もはや、
理解を越えている。
五徳猫。
抜刀した剣の柄部分が鞘へと収まり、その姿はまるで弓張り月。
鞘の長さ分が全長へと加わった今、五徳猫はその長さ、すでに七尺(約二メートル十センチ)を軽く超えている。
間合いが計れず、楓が切られたのはそのためであった。
「消してやる……関井の奴なんて……ひとり残らず……わたいから全部、取り上げた奴らから全部、奪って……同じ思いさせてやる……」
顔のみならず、声まで歪み始めた茜の狂気に満ちた笑いが、暗いビルの屋上に漂う。
楓の流し続ける血の、ボタボタという耳障りな音とともに。
「壊すよぉ、今度はきちんと……この、関井の娘を壊して、それから……関井を、関井を……消してやるんだ……剣が持てなくなったのに、まだいるなんて……ダメだから……お兄ちゃんだってそうしたんだから……関井の奴も……消してやるんだぁ……はっ、あ……ははぁ……」




