執着の剣(5)
「本気で……いや、正気で言ってんのかよ兄貴。相手は平気で人を刺せるような奴なんだぜ。警察に任せないってんなら、せめてうちの道場から人手を出すくらいのことはしてもいいはずだろ。今回は関井との時とは違う。道場間のしがらみなんざ無いんだから、きちんとあの子らを守ってやるのが筋ってもんだろ。違うか?」
時間は遡り、夕方の六時よりだいぶ前。
撫子、純花、レリアらと合流し、英樹が東真の見舞いを済ませて、純花とともに帰宅してからしばらく後。
英樹の部屋で口論が起きていた。
英樹と草樹の間で。
「草樹、お前の言ってることは確かにその通りだ。普通に考えたらな。だが、ことはそう簡単じゃないんだ」
「どこがだよ!」
どうにも自分の意向が通らない理由に納得できず、草樹が声を荒げた。
対面して座るテーブルに身を乗り出し、今にも英樹へ噛み付くような勢いである。
「分かるように説明してくれ。俺は利口な兄貴と違って、それほど頭がよろしくないんだよ。この馬鹿な頭でも理解できるように、一からちゃんと説明してくれってんだ!」
「草樹……」
明らかに冷静さを欠いた草樹の様子に、英樹はそれでも落ち着いた調子で話す。
「繰り返しになるが、これはあの子たちが解決すべき問題だ。相手をただ倒せばそれで済むというような単純なことじゃない。我々が手を貸せば、士倉茜を倒すことは可能かもしれない。しかし、それでは彼女の中にある恨みは消えない。本当の解決を望むなら、当事者だけで戦う必要があるんだ」
「だったら、紅葉以外の子たちも全員、部外者だろうが!」
「彼女らは、照山さんが関井の人間ではあっても、その被害者に過ぎないということの証人。関井に関係する者すべてが悪ではないということを証明する鍵だ。そこを伝えなければ、士倉茜は死ぬまで照山さんを恨み続けるだろう。真に誰をも救おうと考えたなら、こうするよりは仕方がないんだ」
「そんなに……誰でも彼でも、みんな救おうなんて、厚かましいんだよ!」
破綻する。
会話が。
ともに歩み寄れる点が見つからずに。
英樹は理屈で、
草樹は感情で、
相容れない異なる見解で語るふたりには、妥協点も折衷案も見出せなかった。
しばしして、
草樹は席を立つ。
英樹と一切、目を合わせず。
乱暴な歩き方でドアまで歩いてゆくと、振り返ることなく、
「……悪いが、今回ばかりは兄貴の話は聞けねぇよ。前の、関井道場の件で懲りてんだ。もうこれ以上、黙って誰かが傷つくのを見てるなんて拷問みてぇな思い、したくねぇんだ……」
張り上げそうになる声を無理に押し止め、不自然な声音で草樹は言うと、ドアを開けて部屋を出る。
と、
その背中に向け、英樹は急に、
「……それは、あの子たちがか。それとも、あの子たちの中の誰かが……か?」
「知るかよ!」
そう問うた言葉で神経を逆撫でされたらしく、草樹はひどく乱暴にドアを閉めた。
ドア一枚を隔て、廊下の辺りからドスドスと床を蹴りつけるように草樹が歩き去ってゆくのが聞こえる。
英樹は、
座った椅子に背もたれると、大きく嘆息した。
分かってはいる。
何事も、完璧な解決方法を求めるのは逆に危険であることは。
すべてを求めるのは時に非情だということは。
よく分かっている。
が、
それでも、そうせずにいられない。
これもまたエゴなのだろう。
綺麗ごとを押し通そうとするエゴ。
腹が立つ。
草樹にではない。
自分に。
そんなエゴを抑えられない自分に。
しばらく、
天井を仰ぎ見ながら固まる。
そして、
動き出す。
部屋を出、廊下を進む。
向かう先は稽古場のひとつ。
そこでも彼はエゴを振りかざすことになる。
それを自覚しているだけに、
稽古場の前で躊躇した。
板戸を開けるのを。
開ければ、間違い無く自分は人に過酷を強いるだろう。
だが、
ふうっ、と、覚悟とも諦めともつかない感情で吐いた息をきっかけに、英樹は板戸を開けた。
正しいか、誤りか。
自分の行いの正否を確認するために。
「……すまないね。だいぶ待たせてしまったかな」
稽古場の中にいる人物に、英樹はことさら優しい口調で言った。
「いえ……私は別に。それより、草樹さんとの話は?」
「随分と、怒らせてしまったよ……」
愁いた目をし、無理に取り繕った笑顔を見せて英樹は答える。
紅葉へ。
これには、ちょっとした事情がある。
士倉茜との戦いで無惨に敗れたこともショックではあったのだが、その後、東真が自分を庇うような形で刺された事実に、彼女は(合わせる顔が無い)と、撫子たちに同行しなかった。
その代わりというわけではないが、三日後の再戦に向け、英樹からの助言を請おうと、色宮の道場へ来ていたのである。
口の端に貼られた絆創膏は痛々しく、血がまだ滲んでいる。
「さて……では、話の続きをしよう。斬人狩り……士倉茜に関しては、十分説明したと思う。その出自と生い立ち、関井道場との因縁についても……ね」
「……はい」
「だからこそ再度、確認しよう。私の考えている解決策は多分に君らの負担が大きい。だからもし君がそれを危険と判断するなら、素直に断ってくれ。人は万能じゃない。無理をして最悪の結果を招くことを考えれば、妥協するのも一案なのかもしれない」
我ながら、本当に綺麗ごとばかり口にするものだと、英樹は心の中で自分をなじった。
そんな気もないくせに。
紅葉が、自分の案を呑むだろうことを見越して言っている。
そうした計算高い考えが、薄汚く思えて堪らなかった。
すると、
「いいえ」
やはり、
思った通りの答えが返ってくる。
「私があの男……関井影正の娘であるという事実は動かしようがありません。ならば、あの子が負った心の傷は、私の傷でもあります。士倉茜……彼女を関井の因縁から解放しなければ、私もまた影正と、関井の名と、決別することができないでしょう。そのためなら、多少の危険は覚悟の上です」
「なるほど……言っていることだけは至極、立派だな……」
「……は?」
「悪いが、私には君の覚悟がそれほどだとは、とても思えないんだ」
「それは……どういうことです……?」
「言葉の通りだよ。君は……自分が思っているほど、強い覚悟は出来ていない」
「……なんで、そんなことが貴方に分かるんですか!」
当然の問い。
英樹の言いようが妙に険のあるものだったため、紅葉も少しく腹を立て、語気が強まった。
ところが、
「照山さん。君は今、そうして剣を持っているからこそ強気なことが言える。剣の威光。そのおかげでね。だが、それでいて君は、剣を心の底から嫌っている。その自己矛盾を正さずに、どうして覚悟なんて大層なものが持てるっていうんだい」
「……」
その言葉に紅葉は、
言葉を失った。
言われたこと自体は、悔しいがその通り。
自分は剣が無ければ何もできない。
そのくせ、剣を何よりも嫌っている。
いや、
正しくは、その剣を教えた影正を嫌っているのだが……。
そこについては茜と同じだ。
影正が憎いから、関井に関連する者もすべて憎い。
それと理屈は同じ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
人の感情とはそうしたものだ。
「だから、君にはまず本当の覚悟をしてもらいたい。言葉や形だけの、空っぽの覚悟でなく、本物の覚悟をね」
言ったかと思うと、
英樹は稽古場の壁に掛けられた何本もの剣のうちから一本を取ると、腰には差さず、無造作に持ったまま、
「この鍛錬法……説明しなくても、君が一番よく知っているだろう」
そう言葉を続けて、
剣を抜く。
振る。
鞘に戻す。
まるで剣の具合でも確認するような動作。
それを、
ただ繰り返す。
延々と。
速度を上げながら。
何度も、
何度も、
何度も。
それを見て、
紅葉の顔が、
恐怖で……歪んだ。
思い出される。
過去、父である影正につけられ続けた稽古。
剣を抜く。
振る。
鞘に戻す。
剣を抜く。
振る。
鞘に戻す。
抜く!
振る!
戻す!
「ひいぃっ!」
鮮明に蘇った記憶が、本能的恐怖をともなって全身を駆け巡り、投げ打つように手にした剣を捨てさせた。
稽古場の板間を、投げ捨てた剣が英樹の足元まで滑ってゆく。
そして紅葉は、
冷や汗でしとどになった顔を床に落とし、体をすぼめ、両手で両肩を爪で抉らんばかりにして体を押さえていた。
恐怖心からガタガタと体を振るわし、歯の根も合わず、ガチガチと小刻みに歯を鳴らす。
膝は萎え、今にもその場にへたり込みそうな状態である。
剣の稽古。
それは紅葉にとって父、影正との忌まわしい過去の記憶以外の何物でもない。
だからこそ、剣を忌諱した。
心を閉ざした。
もうひとりの自分をあてがい、無理やりに現実から逃れようと必死になった。
だが、
「前から気にはなっていたんだ。何故に君が一切、剣の稽古をしないのか。原因はあの影正のせいなのは分かる。君の腕前を思えば、どれだけ過酷な稽古をつけられていたかは想像に難くない。そこに剣への忌諱が重なれば、普段は剣など見るのすら嫌になるだろう。しかし、もう決着をつける時だ。自分のために、自分自身のために、関井心貫流、最難・最強の奥義である音斬。これを習得して始めて君は関井心貫流から解放される。終わらせるんだ。どんなに辛くとも。そうしなければ、君はいつまでも影正から、関井心貫流の影から逃げて、怯えて、生き続けなければならないぞ」
珍しくも、厳しい口調で英樹は言う。
ところがそれに対し、
「知ったようなことを言うなっ!」
紅葉もまた珍しく、剣も持たずに反論する。
怯えきった様子でありながら、目に涙を溜めながら、その目をかっと見開き、英樹を睨みつけながら叫んだ。
「何も知らないあんたに何が分かる、もう御免だ、あんな地獄のような……違う、違う、地獄そのものだったんだ!」
「取り乱すな照山さん、気をしっかり持て」
「あんな思い、あんたになんて分かるはず無い、誰にも分かるもんか、嫌だ、もう嫌だ!」
「それでも進まなきゃいけない。終わらせなきゃいけない。新たに始めるためには、まず過去を切り捨てる覚悟が必要なんだ」
「うるさいっ、人の苦しみも知らないで勝手なことを……」
もはや嗚咽に近い声で反論を続ける紅葉の声を突然、甲高い音が遮る。
ビィンッ、と、稽古場の羽目板も振動するような甲高い金属音。
鍔鳴り。
途端、
英樹の姿を見ていた紅葉が愕然とする。
英樹が……構えていた。
関井心貫流、独特の構え。
正確には、さらにその構えからすでに技を放っていた。
紅葉が投げ捨て、英樹の足元に転がった剣の、その柄の柄紐。
それが、縦に向かってざっくりと断ち切られている。
刀身も見えなかった。
その光芒も見えなかった。
その影すら見えなかった。
間違い無い。
関井心貫流皆伝奥義、無影。
しかし、何故……?
色宮流の英樹が、何故に無影を……?
驚きに固まる紅葉に、そして英樹は語る。
「元が同門というのは、やはり絶ち難い縁だ。悪縁でもあったが、良い意味での影響もある。無影は居合抜刀術を基礎とする色宮においても、大いに参考としていた技なんだよ。他流の技ではあるが、その習得は色宮でも皆伝を受けるのに必須条件とされている。だから少なくとも私は、君の苦しみの一端くらいは理解していると思いたい。これは傲慢かい?」
言って、奇妙な構えをしていた剣を脇に戻すと、続けた。
「これを習得するのに、私は三年かかった。だから、君にあと三日で音斬を身に付けろなんて無茶苦茶は間違っても言わない。ただそうではなく、もう君には剣を憎まないでほしいんだ。どうかもう、苦しみながら剣を振るう人生とは決別してくれ。でなければ今に、君だけでなく他の誰かすら、君の剣は不幸にしてしまう」
どこか、悲しげにすら聞こえる英樹のその言葉に、紅葉は何を感じたのか。
胸中は紅葉自身にしか分からない。
が、
急に気抜けしたようになった紅葉は、膝を折ってその場に座り込んだ。
そうして、
英樹の足元に転がり、柄を切断された剣を、這うようにして手に取ると、それを引き寄せて、そっと抱きしめる。
目から涙をこぼし、肩を震わせ、
加え、小さく一言、
「……長柄用の……柄紐を、用意していただけますか……?」
そこまで言い、ひと間を置いて、
「自分で……柄紐を巻いて上げたいんです……」
ほとんど床に伏せるようにして頭を下げ、そう言った紅葉を見、英樹はその場で正座すると、無言で深く、強くうなずいた。




