金星行きのタクシー
「あなたは私のことを全然わかってくれない!」
七月二十三日の夜、レストランの静けさを少女の声が切り裂いた。佐藤美咲は椅子からはじかれたように立ち上がり、床に脚をこする鋭い音を響かせながら、恋人の顔をにらみつけた。彼が何か言う間もなく、美咲は水の入ったグラスをつかみ、彼の顔めがけて勢いよくぶちまけた。
彼はむせ、あごから水を滴らせた。「美咲! いい加減にしろ!」だが、その言葉が口を出たとたん、平手が彼の頬を打った。
これ以上騒ぎを大きくしたくなくて、彼は美咲の手首をつかむと外へ引っぱり出した。ドアが閉まると、ひんやりとした夜の空気が二人を包んだ。「美咲! 恥を知らないのか!」と彼は怒鳴った。
美咲は間を置かず、かすれた声で返した。「自分がちゃんと構ってやれてなかったのはわかってる! 私だって、会えるときはいつだってあんたを一番に考えてきた。なのに、たった一度だけ、私のことをわかってほしいって言ったら……あんたは一度もわかろうとしなかった!」
彼女の言葉は、行き交う車の走行音にかき消されそうになった。次々とヘッドライトが彼女の顔を照らし、頬を伝う涙の筋を浮かび上がらせた。彼は動けなくなったまま彼女を見つめ、いつものように髪を撫でようと手を持ち上げかけたが、触れる前に美咲が続けた。
「ごめんね、ちゃんとした彼女でいられなくて……だから、あんたは私と別れたんだよね……私……」声がひび割れた。言いたい言葉は、怒りと悲しみが絡まった胸の奥へと、遠ざかっていくようだった。
彼女が肩を震わせて泣きじゃくるのを見て、彼の中で何かが音を立てて壊れた。「ごめん」彼は小さくつぶやき、視線をアスファルトに落とした。さっき手放したばかりの彼女を、直視できなかった。「こんなに傷つけるなんて、思わなかった」
沈黙を埋めたのは、彼女の泣き声だけだった。彼は、終わりを告げるその瞬間まで、彼女がこれほど深く感じていることに気づいていなかった。罪悪感が胸に重く沈んだ。彼はもう一度ごめんとささやき、美咲を腕の中に引き寄せた。「これからも、いい友達でいられたらいいな」と、抱きしめながら言った。
美咲は彼の胸に顔をうずめて、静かに泣き続けた。夜が更けるにつれ、車の数は減っていき、彼女の顔を照らすのは街灯とレストランの窓からこぼれる明かりだけになった。やがて嗚咽が静まると、彼女はそっと身を離した。長いあいだ、ただ呼吸を整えながら、胸のなかのぐちゃぐちゃしたものを整理していた。それから一台の車が通り過ぎ、そのヘッドライトに照らし出された彼女が口を開いた。
「ありがとう……今まで、全部」
美咲は大きく笑ってみせた。目じりにしわが寄るほどの、あまりにも精いっぱいの笑顔で、けれどその奥にたまった悲しみは隠しきれていなかった。




