表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

約束の場所

作者: とやまる
掲載日:2026/05/25

約束の場所


梅雨が明けたばかりの夏だった。


ポストの中に、一通の封筒が入っていた。


差出人は、検察庁。


高瀬 修二は、その文字を見ただけで胃が重くなった。


中には短い通知。


罰金三十万円。


未納。


労役場留置。


一日五千円換算。


六十日。


二ヶ月。


紙切れ一枚で決まるには、長すぎる時間だった。


修二は畳の部屋で、しばらく封筒を見つめていた。


窓の外では、蝉が鳴いている。


じっとしているだけでも汗が滲む暑さだった。


刑務所なんて、もっと暑いんだろうな。


修二はぼんやり思った。


その瞬間、昔の夏を思い出した。


息苦しい暑さ。


コンクリートの熱気。


汗の匂い。


閉じ込められた空気。


何度か入った刑務所の夏だった。


払えなかった。


修二は、昔からろくな人生じゃなかった。


若い頃から問題ばかり起こした。


何度か刑務所にも入った。


喧嘩。


酒。


くだらない揉め事。


気づけば周りから人が離れていた。


そして最後に流れ着いたのが富山だった。


知らない土地。


冬は寒く、空はいつも少し灰色だった。


その富山で、修二は難病になった。


身体は思うように動かない。


普通の仕事も続かない。


障害者施設へ通い始めたのは、その頃だった。


利用者として。


そこだけが、自分を普通に扱ってくれる場所だった。


施設には、好きな女性がいた。


指導員の真白 彩花。


優しい人だった。


利用者を見下さず、ちゃんと一人の人間として接してくれる。


修二が好きな歌の話をすると、笑いながら聞いてくれた。


「高瀬さんって、歌好きなんですね」


「なんかステージ立ってそう」


冗談みたいなその言葉を、修二はずっと覚えていた。


だから、好きになった。


ある日の帰り道。


修二は勇気を出して彩花へ告白した。


夕方の駐車場。


送迎車のエンジン音が響いていた。


修二は震える声で言った。


「好きです」


「もし良かったら……付き合ってください」


彩花は少し驚いた顔をした。


それから困ったように笑った。


「ごめんなさい」


短い沈黙。


そして、申し訳なさそうに続けた。


「高瀬さんは利用者さんですし……私は指導員なので……」


優しい断り方だった。


だから余計につらかった。


修二は笑って、


「そっか」


と言った。


だが胸の奥では、何かが静かに崩れていた。


それでも施設には通い続けた。


彩花も変わらず優しかった。


だが修二は、以前みたいに自然に話せなくなった。


少しずつ孤独だけが積もっていった。


そして最後には、罰金すら払えなくなった。


夏。


修二は労役場へ入った。


鉄の門をくぐった瞬間、熱気が身体へまとわりつく。


古い建物だった。


風が通らない。


空気が重い。


独居房へ入れられた時、修二は思った。


暑い。


とにかく暑かった。


壁が熱を持っている。


小さな窓から入る風も、生ぬるい。


汗が止まらない。


朝六時。


点灯。


決まったチャイム。


布団を畳み、そのまま房の中で作業をする。


紙袋折り。


封筒の組み立て。


小さな部品の袋詰め。


ずっと独り。


話し相手もいない。


蝉の声だけが、遠くから聞こえてくる。


修二は日に日に衰弱していった。


難病の痛み。


夏の暑さ。


労役の疲れ。


身体はフラフラだった。


立ち上がるだけで目眩がする。


それでも作業は止まらない。


持病の薬は貼り薬だった。


毎日背中へ貼る。


それが途中で、刑務所側の別の貼り薬へ変更された。


「同系統の薬です」


事務的な説明だけだった。


白い貼り薬。


見たことのない薬。


修二は不安だった。


だが拒否出来る空気ではなかった。


その頃からだった。


世界がおかしくなり始めたのは。


最初は音だった。


遠くの鍵の音。


看守の足音。


隣の棟の咳払い。


全部、異様なくらい鮮明に聞こえる。


耳だけが別人になったみたいだった。


さらに身体にも力が満ちてくる。


握力測定。


百二十キロ。


担当者が驚いた顔をした。


修二は笑った。


「やっぱり自分は普通じゃない」


そんな感覚があった。


労役中も、修二の中では世界が変わり始めていた。


ただの紙袋折り。


ただの袋詰め。


だが修二には、それが“人のためになる仕事”へ変わって見えた。


ある日。


独居房の中で、修二は突然思った。


――世のため、人のためになる事がしたい。


それからだった。


修二には、自分が“特別な布団”を作っているように感じ始めた。


その布団で眠れば。


どんな苦しみを抱えた人でも。


ぐっすり眠れる。


嫌な事も忘れられる。


涙を流した人も、安心して眠れる。


そんな不思議な布団だった。


修二は独居房の中で、一人、無我夢中で作業した。


だが、その布団は簡単には完成しなかった。


一枚作るたびに、“念”を込めなければならない。


気持ちが足りないと、完成しない。


修二は汗だくになりながら、何時間も集中した。


「大丈夫だから」


「安心して眠れるから」


「苦しまなくていいから」


まるで誰かを救う祈りみたいに、心の中で繰り返しながら。


気づけば全身が震えていた。


肩で息をする。


疲労困憊だった。


それでも、不思議と気持ちは澄み切っていた。


何故か、すがすがしかった。


人生で初めて、自分が誰かの役に立てている気がした。


現実では、ずっと迷惑ばかりかけてきた。


刑務所にも入った。


人も離れていった。


難病にもなった。


だけど今、自分は誰かを救う布団を作っている。


そう信じていた。


夜。


消灯。


その瞬間、独居房の壁が消える。


巨大なコンサート会場。


眩しいライト。


何万人もの歓声。


ステージ中央には、自分が立っていた。


修二は歌っていた。


スポットライトを浴びながら。


歓声を浴びながら。


人生で一度も感じた事のない熱狂。


「修二ー!!」


観客が名前を呼ぶ。


修二は涙を流しながら歌った。


現実では誰にも必要とされなかった自分が、その世界では求められていた。


そしてステージ袖には、彩花がいた。


白いワンピース姿で笑っている。


「すごいよ、修二さん」


「やっぱりあなたの考え方、好き」


現実では絶対にもらえなかった言葉。


一度でも聞きたかった言葉。


幻覚の彩花は毎晩会いに来た。


「利用者とか指導員とか、もう関係ないよ」


「私は修二さんが好き」


修二は、その言葉に救われた。


「出所したら、富山駅で歌ってよ」


「絶対聴きに行くから」


「約束ね」


修二は笑いながら頷いた。


「うん」


「富山で真面目にやっていく」


「彩花と一緒に」


「永遠に愛してる」


富山駅。


それは修二にとって、ただの駅じゃなかった。


何度も失敗して。


刑務所にも入って。


難病になって。


そんな自分が最後に辿り着いた街。


その富山で出会えた、大好きな人。


だから富山駅で歌う事は、人生をやり直すための決意だった。


「俺はここで生き直す」


その覚悟だった。


現実より、そちらの世界の方が本物だった。


昼も夜も、修二は完全にその世界を信じていた。


だから、自分がおかしくなっているなんて、一度も思わなかった。


ある日、巡回に来た年配の刑務官が、房の前で立ち止まった。


修二は独居房の中で、誰もいない空間へ向かって笑いながら話していた。


刑務官は少し黙ってから言った。


「高瀬」


修二は振り返る。


「お前、精神科に通った事あるか?」


修二は眉をひそめた。


「ありませんけど」


刑務官は少し考えるような顔をした。


「……そうか」


それだけ言って去っていった。


数日後、別の刑務官が書類を持って来た時も、小さな声で言った。


「出たら、一回精神科行っとけ」


修二は本気で意味が分からなかった。


何を言ってるんだ、この人。


そう思った。


自分は正常だった。


むしろ、今までより感覚が冴えている。


歌も上手くなった。


身体も強い。


彩花とも心が通じ合っている。


ようやく、本当の自分になれた気がしていた。


だから出所の日。


修二は本気だった。


富山駅へ向かった。


夕方。


人混み。


修二には見えていた。


改札前で待つ彩花が。


白い服で、笑って手を振っている。


「約束、覚えてる?」


修二は頷いた。


そして駅の中央で、大きく息を吸った。


歌った。


大声で。


全力で。


まるで本当のコンサートみたいに。


通行人が振り返る。


駅員が近づく。


だが修二の耳には、何万人もの歓声が聞こえていた。


拍手。


歓声。


ライト。


彩花が泣きながら笑っている。


「最高だったよ!!」


修二はさらに大声で歌った。


今までの人生。


ろくな事なんてなかった。


刑務所にも何度も入った。


人も離れていった。


難病にもなった。


だけど。


富山へ来て。


彩花に出会えた。


その彩花と一緒に、真面目に生きていく。


その始まりが、この歌だった。


だから止まれなかった。


警察が来ても。


駅員に肩を掴まれても。


修二は歌い続けた。


「アンコール!!」


幻覚の観客が叫ぶ。


修二は両手を広げた。


「ありがとう!!」


涙を流しながら叫んだ。


そのまま取り押さえられ、暴れ、叫び、強制入院になった。


白い病室。


閉ざされた窓。


消毒液の匂い。


医師は静かに薬歴を見ていた。


そして、労役中に変更された貼り薬を中止した。


翌朝。


世界が終わった。


歓声が消えた。


ライトも消えた。


ステージもない。


彩花の声も。


全部。


全部、消えていた。


ただ白い天井だけがあった。


修二は何時間も動けなかった。


永遠の愛。


富山駅での約束。


コンサート。


全部、存在しなかった。


全部、自分の脳が見せた幻覚だった。


退院後。


修二は久しぶりに施設へ向かった。


夕方だった。


利用者たちが笑いながら帰る準備をしている。


送迎車のエンジン音。


職員の声。


その中に、彩花がいた。


現実の彼女。


変わらない笑顔で、利用者へ優しく話しかけている。


修二に気づくと、少し驚いた顔をした。


それから、小さく会釈した。


修二も頭を下げた。


それだけだった。


彼女は、自分を愛していない。


永遠なんて誓っていない。


利用者と指導員。


その関係は、何も変わっていなかった。


でも。


元気そうだった。


ちゃんと笑っていた。


それだけは、本物だった。


修二は静かに施設を後にした。


富山駅までの道を、ゆっくり歩く。


夕焼けが街を赤く染めている。


駅前へ着くと、修二は立ち止まった。


ここで歌った。


人生をやり直すために。


大好きな人のために。


その結果、強制入院になった。


皮肉だった。


人生で初めて、本気で真面目になろうとしたのに。


その歌が、自分を病院へ連れていった。


修二は俯いた。


もし、あの貼り薬をまた使えば。


また彩花に会えるのかもしれない。


また歓声を聞けるのかもしれない。


独居房のステージ。


眩しいライト。


「永遠に愛してる」と笑う彩花。


戻りたい。


その衝動が、一瞬だけ胸を強く掴んだ。


だが修二は、ゆっくり息を吐いた。


現実の彩花は、自分を愛してはいない。


でも。


元気でいてくれた。


ちゃんと笑っていた。


それだけで良かった。


結局、自分はまた一人に戻っただけだった。


けれど。


それでも、生きていくしかない。


修二は小さな声で歌を口ずさんだ。


あの幻覚のステージで歌っていた歌。


誰にも聞こえないくらい、小さな声で。


一粒の涙が、頬を伝って落ちる。


遠くで電車の音がした。


今度はもう、歓声には聞こえなかった。


ただの電車の音だった。


修二は歌いながら歩いた。


ゆっくり。


ゆっくりと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ