第9話 モデラート
本日四話目です!
私がジトっと半目で見ると、ふにゃりと笑いながらアリスは言う。
「思ってます思ってます」
「えぇ〜? なんだか嘘くさい」
「えぇっ!? そんな、ひどいです……!」
互いに、鼻先が触れるか触れないかの距離を保って、じっと見つめ合う。
この距離だと、アリスは私の目や鼻を認識できる。
歯磨きをしてきた直後だからだろう、ミントのスースーと清涼感のある匂いも感じる。
「…………」
「…………」
こんなに近付いてくるまで、気配に気付けなかった私も悪いけど、ワザと私を驚かせて来たアリスも悪い。
「もう、お家に太一さんがいなくて寂しくなったんでしょ?」
指摘すると、アリスの真っ白な頬がほのかに染まる。
そう。堂々とピアノを弾いている姿からは想像しにくいけど、アリスはかなりの寂しがり屋なのだ。
そういう時、アリスは決まって私や春美さんに近付いてくる。
「うっ…………分かり、ますか?」
「どれだけアリスと一緒に生活して来たと思ってるのよ。どうせ、太一さんが出かけた時に目が覚めて、寂しくなったから寝落ちするまでピアノ弾いてたんでしょ?」
私が少しだけ唇を尖らせてそう言うと、アリスはサッと顔を逸らす。
「そ、その……」
「こーら、目を逸らさない!」
「あっ――」
ふわふわと柔らかいアリスの頬へ、包み込むように両手を添えて私の方へ向ける。
「もう、アリスは本当に寂しがりなんだから……」
「……はい」
これはアリス本人も自覚しているクセ。
普段は、包容力の塊みたいな春美さんがいるから問題ないんだけど、甘えられる相手がいないと、寂しさをピアノで紛らわせようとする。
「ちょっとだけだからね?」
「――はいっ!」
私はアリスの頬から手を離し、細身な体をギュッと抱きしめる。
ほっそりした腕が私の背中に回されて、私たちの間の距離がゼロになる。
そのまま、私は耳元で囁く。
「――学校、行くよ」
「あぁぁっ……」
するり、と私はアリスの腕を抜け出して、制服の準備を始める。
アリスが何やら名残惜しそうな声を出しているが、気にしない。
「制服、制服〜っと……あぁ、あった」
太一さんや、春美さんの服と思われる服が吊るされたハンガーラックから、私と同じ制服を引っ張り出す。
ちらりと掛け時計を見る。
現在時刻は七時四十分。
「うわ、もう時間ないじゃん……」
千代野家からほど近いところにバス停はあるんだけど、そろそろ準備をしないと本格的にまずい。
「――もう少しギュッと抱きしめてくれないと、寂しすぎて動けません……」
「うわっ、急に何よ! それに、背後から抱きつくなんて危ないでしょ!?」
制服を取り出した私のお腹に、しゅるりと絡みつく二本の腕。
当然、犯人はアリスしかいない。
「アリス、危ないから離れてってば。そろそろ制服に着替えないと、本当に遅刻しちゃうよ!」
「嫌です、まだまだ和奏ちゃんニウムが足りません!」
慌ててアリスに離れるように言うも、謎に拒否されてしまう。
何なのよ、和奏ちゃんニウムって……。
「ちょっと!? 私、そんな謎のエネルギーなんて発してないよ!?」
「いいえ! 和奏ちゃんに抱きつくと、和奏ちゃんニウムという素晴らしい栄養が摂取できるんです! 万病に効くんです!」
本当に何なのよ、和奏ちゃんニウムって……。
私が動かないのをいいことに、ギュッと腕に力を込めてアリスがさらに密着してくる。
「そんなにくっついたら危ないってば! ねえ、アリス!」
「……」
これが他の子だったら躊躇なく引き剥がすんだけど、抱きついてきたのがアリスだと話が違う。
「…………」
ぴしり、と私の身体は固まってしまった。
下手に動いて、アリスに怪我をさせては大変だ。
「あ、アリス? な、何か言っ――」
「――和奏ちゃん、私は充電中なんです。静かにしてください」
「は、はい…………」
アリスらしくない、有無を言わせない口調に思わず口をつぐんでしまう。
あれ?
この場合は私が悪いのか?
何故かアリスから注意されてしまった。
これって、どう見ても私の方が正しいよね?
先ほどまでの騒々しさから一転。私の背中に張りついたままピタリとアリスは喋らなくなってしまった。
アリスは無言のまま、さらにギュッと強く抱きしめてきた。
掛け時計へ視線をやると、時刻は七時四十五分。
入学二日目にして遅刻とか、絶対悪目立ちしちゃうよ……!!
差し迫るバスの時間に、心臓の鼓動が速くなる。
すると、私の首筋にサラサラとこそばゆい感覚。
ほんのりと感じる息遣いに、アリスが背中に顔を押し当てているのだと理解した。
二度三度と深呼吸をしたかと思うと、アリスがポツリと口を開いた。
「……和奏ちゃんは、ケチケチですっ」
「は――はぁ!?」
あまりに意味不明なアリスの言い草に、私は素っ頓狂な声を出してしまった。
ケチケチって、何?????
私の頭を疑問符が埋め尽くしていく。
「和奏ちゃん、春休みに全然遊びにきてくれませんでした……」
「あ――あぁ〜〜〜、それは――」
私が何か弁解する前に、被せるようにしてアリスが私を責めたてる。
「私、和奏ちゃんが来てくれるのを、ずっとずっと、ずーーーっと、待っていたんですよ?」
「うっ――そ、それはごめん……」
アリスの悲しげな声に、思わず謝罪の言葉が口を突いて出る。