第8話 二人のテンポ
本日三話目になります。
アリスがトーストをもぐもぐとしている間に、左手とポケットに忍ばせていた折りたたみのコームを使って髪を梳き、ツヤを出していく。
「アリス、今から髪結んじゃうから動かないでね?」
「はい、分かりました」
ちょうどトーストを食べ終えたタイミングだったのか、アリスから返事が返ってきた。
しばし、無言の時間が流れる。
互いの息遣いと絹ズレの音、掛け時計の秒針がチコチコと動く音だけが際立って聞こえる。
そういえば、アリスの髪に触るのもコンクール以来か。
アリスの髪はサラサラすぎるが故に、結ぶのにコツがいる。
だけど、伊達に保育園の頃からアリスのお世話をしてきていない。
一分もあれば、この通り。
寝癖とは分からないように、ゆるふわポニーテールの完成だ。
つい先日、動画でみた抜け感というのもうまく作れていると思う。
「少しだけ毛束を引き出して……はい、出来上がり!」
「ありがとうございます、和奏ちゃん」
アリスが私の方を振り向いて、にこりと微笑んでくる。
ふぅ、我ながら良い仕事をした。
「うんうん、アリスはどんな髪型でも似合うねぇ……」
「そ、そうですか?」
自然と、アリスと会話が続く。これは誇張でもなんでもない。
アリスは本当に、どんな髪型でも似合う。
「あ、ありがとうございます……」
少し恥ずかしそうに、口元をルームワンピースの袖で隠す。
その仕草がいちいち、いじらしいというかなんというか……。
「さ、後片付けは私がやっとくから、歯磨きしてきて」
「そこまでしてもらわなくても……」
「疲れて帰ってきた太一さんに、お皿洗いさせるわけにはいかないでしょ」
私がそう言うと、アリスは眉に皺を寄せて、もにょもにょと何か言いたげに唇を動かした。
すると、アリスは思い出したように手を叩き、私の忘れ去りたい黒歴史を引っ張り出してきた。
「和奏、まだお父さんのことを狙ってるんですか?」
一瞬でカァッと頬が熱を持つ。
「ちょっ、そ、それは保育園の時の話でしょ!? 制服に着替えないといけないんだから、アリスは早く歯磨きしてきてってば!」
「あ、和奏ちゃんが恥ずかしがってます」
「急に昔のこと言われたら、誰だって恥ずかしいってば!」
ふふふ、といたずらっぽく笑うアリスを手すりに誘導して、お皿とコップを持ってシンクに立つ。
シンク脇に置いてあるオレンジ色のスポンジを手に取り、食器用洗剤を染み込ませてギュッギュッと二、三回揉めばスポンジが泡立つ。
お皿一枚とコップ一つを洗うのに、食洗機を使うなんて電気の無駄だ。
「はぁ……まさか、さっきの仕返し?」
熱くなった頬を無視しながら、無心でお皿を洗おうとする……けど、どうしても思考が私の黒歴史の方へ流れていってしまう。
忘れたい忘れたいと繰り返し願うほど、天邪鬼のように封印していた記憶が鮮明に蘇ってくる。
あれはそう……私が保育園で年長だった時のこと。
何がきっかけかは忘れてしまったけど、女子の間で「誰のお嫁さんになりたいか」と聞いて回る遊びが流行ったのだ。
「わーかーなーちゃーん! あーりーすーちゃーん!」
聞かれた子は、誰のお嫁さんになりたいのかを十秒以内に答えないといけなくて、そこをたまたま通りかかった私とアリスが、哀れなターゲットになってしまった。
「だれのおよめさんに、なりたいー??」
あっという間に、周囲を女の子に囲まれてしまった私たち。
当時、アリスは今よりも大人しい、無口で引っ込み思案な子だった。
こういう時は、私がいつも矢面に立って来た。
アリスも、私の背中に隠れるようにギュッとしがみついて来たのを覚えている。
「じゅーうっ、きゅーうっ!」
状況が飲み込めず、困惑する五歳の私。
だけど、どうやら誰か男の子の名前を言えばいいんだと言うことは分かった。
「えっ、えっ……!?」
カウントダウンが進む中、私は横にいたアリスを見てふと太一さんの顔を思い浮かべてしまった。
「――さーん! にーい」
そして何が何だかよく分からないまま「わたし、たいちさんのおよめさんになりたい!」と口走ってしまった。
「だーれ! たいちさんってだーれ?」
太一さん、という聞きなれない名前に色めき立つ女の子たち。
同じ名前の男の子が、うちの保育園にいてくれたら良かったんだけど、残念無念。
「いや、えっとぉ……」
「ねーえー! わーかーなーちゃーん!!」
女の子たちの追撃に、しどろもどろになる私。
明日になれば、私もアリスも、他の女の子たちも、何を話したかすら忘れていたはずなのに、マズかったのはここから。
よりにもよって私たちを迎えにきていた太一さんに春美さん、うちの両親が聞いていたのだ。
「おや、アリスと和奏ちゃん?」
「た……あ、アリスのお父さん!」
太一さんの名前を口走りそうになって、咄嗟に回避する私。
だけど安心するにはまだ早かった。刺客はひっそりと息を殺して、背後に隠れていたのだ。
「おとうさん、わかなちゃんが、およめさんになりたいんだって」
先ほどまで私の背中に隠れて、素知らぬふりをしていたアリスが告げ口をしてしまった。
刹那、私を囲む女の子たちの脳裏には――
『およめさんになりたいひと→たいちさん???』
『およめさんになりたいひと→ありすちゃんのおとうさん?→たいちさん!!』
――の等式が、光よりも速く駆け巡ったことは想像に難くない。
結局、揉みくちゃにされた私が泣き出してその場は有耶無耶になったのだけど、まさか高校生にもなってこんな昔の話を持ち出してくるとは……。
ジャー、と蛇口を捻ってお皿とコップの泡を洗い流していく。
お陰で完全に思い出してしまった。
あの時の、太一さんの何とも言えない顔は今でも脳裏に焼き付いている。
「ハァ……これは一日引きずるかも」
私のお父さん?
太一さんを恨めしげに睨んでた気がするけど、忘れちゃった。
気分転換をしようにも、八代市は田舎すぎてカラオケすらない。
週末を待って、バスと電車を乗り継いでいかないと、この懐かしさと恥ずかしさが入り混じった感情を消し去ることは、できなさそうだ。
「――和奏ちゃん」
「うひゃうっ!?!?!?」
「っ!?!?」
突然、耳元で私を呼ぶ声がして一気に、思考が現実に引き戻される。
左を振り向くと、鼻と鼻がぶつかりそうな至近距離に、少し驚いたように目を見開いたアリスの顔があった。
アリスのブラウンの瞳は、じっと私を捉えて離さない。
恐らく、アリスの視界には同じように驚いた顔をした私が映っているはずだ。
「ちょっ、アリス……足音を消して歩かないでって、前から言ってるのに……」
「ごめんなさい、和奏ちゃんっ」
「もう、本当に悪いと思ってる?」
全く……何度も何度も言ってるのに、アリスはちっとも改善してくれない。
びっくりして、心臓のドキドキがなかなか収まらない……。