第7話 眠り姫
本日二話目になります!
部屋の中に入ると、ピアノ椅子の傍で毛布にくるまって、かすかに上下する白い毛玉が一つ。
毛布を引っぺがすと、アリスはブラウンベージュの髪を四方八方に広げて、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。卒業式以来だけど、相変わらずお姫様みたいに儚げな容姿をしている。
「ちょっと……なんて格好して寝てるのよ」
真っ白のルームワンピースが捲れ上がって、アリスのほっそりとした足が晒されている。見てはいけないものを見たようで、ドキリと心臓が跳ねる。これは目に毒だ……。
寝落ちする寸前まで楽譜を読んでピアノを弾いていたのだろう。鍵盤蓋も開けっぱなしだし、周辺には楽譜を指で読み取ることができるブレイル楽譜や、拡大楽譜が散乱している。
アリスが起きた時、踏んで滑らないように楽譜を拾い集めながら、声を掛ける。
「アリス、起きて。起きてってば」
「う、うぅ……」
毛布を剥ぎ取ったから寒かったのか、綺麗な眉を歪ませて赤ちゃんのように身を縮めるアリス。
「こら、起きてってば! 遅刻するよ!?」
これが休みだったら、私も楽器を吹いてアリスが自然に起きるのを待っていてもいいのだけど、平日となるとそうはいかない。
肩を叩いて、声のボリュームを上げてアリスを本格的に起こし始める。
「いまおきますぅ……」
むにゃむにゃと可愛らしいアリスだが、騙されてはいけない。
間違いなくこれは寝言。
「アーリースー!!」
私がガクガクと体全身を揺さぶり始めてようやく、アリスはふわりと目を覚ました。
「あ、おはようございます、おかあさん」
「私は春美さんじゃないって……」
ぼんやりと焦点の合わない目で、私を見つめてアリスは言う。
曇りのない目に、心臓がドキリと跳ねた。アリスと、久しぶりに目が合った。
余程寝ぼけているのか、私を春美さんと勘違いしているようだ。
目は覚めたが、口調はたどたどしい。目もしょぼしょぼとさせていて、すぐにでも瞼がくっついてまた寝てしまいそうだ。
「おはようアリス。急がないと遅刻しちゃうから、早く準備しちゃうよ」
「じゅんび……?」
トントン、と楽譜を揃えながら話しかけるも、反応は鈍い。
何のことやらといった様子で、アリスはきょとんと首を傾げる。
「こ・う・こ・う!! アリス、昨日入学式だったでしょ!」
折りたたまれた赤い鍵盤カバーを、鍵盤の上に広げながら私は言う。
指を挟まないように鍵盤蓋を閉めながら、腕時計を見るとすでに五分経過していた。
「あ……わたし、こうこうせい……になったのでしたっけ」
「ほら、いいから早く立って!」
分かっていたことだけど、アリスは低血圧で朝が非常に弱い。
立ってと言いつつも、アリスが立ち上がるまで待つ時間が惜しいのに、両脇に手を突っ込んで立たせる。
「ほら、顔洗いに行くよ」
「はぃ……」
ペンギンの親子のようにアリスを抱えながら、よちよちと洗面台へ向かって歩いていく。
「アリス、洗面台に着いたよ。自分で顔洗える?」
「だいじょうぶです……」
返事をしつつも、鏡越しにアリスの目がしっかりと閉じているのが見えた。
普段から目を閉じがちとはいえ、声がふにゃふにゃしていて生返事だ。
「もう、しっかりしてってば!」
後ろからアリスを抱えているから、私は洗面台の蛇口をひねることができない。
しょうがない……あまりやりたくないが、今は一分一秒が惜しい緊急事態だ。
アリスを抱きかかえるような恰好で、お腹をくすぐる。
「起きないとこうだぞ、こちょこちょこちょ――」
「……ぅ、ぅふふ――――っっっ!! や、やめっ――」
少しだけ笑い声を漏らしたと思えば、急に目を見開いて私の腕の中で悶え始めるアリス。アリスは、お腹をくすぐられるのに滅法弱いのだ。
「お、起きました! わ、和奏ちゃん、起きましたから!!」
アリスが必死に私の腕を叩くので鏡を見ると、先ほどまで半開きだった目がぱっちりと開いていた。
「お、おはよ。アリス」
「お、おはようございます、和奏ちゃん」
肩で息をしながら、アリスが挨拶をしてきた。
こうして会話をしたのも、卒業式以来だ。さっきまで感じていた気まずさが、再び鎌首をもたげてくる。
「……アリス、太一さんがリビングにトースト置いてくれてるから、顔洗ったら食べといてよ?」
「わ、分かりました……」
三か月前までだったら考えられないくらい、ぎこちない会話。
いたたまれなくて咄嗟に、太一さんが用意してくれていた朝食の話をする。
アリスが何か言わないうちに、矢継ぎ早に質問を重ねていく。
「あ、あと制服ってどこにあるの? アリスの部屋?」
「えと……リビングに掛けてあります」
それだけ聞ければ問題ない。
再び腕時計を見ると、現在七時十五分。また五分進んでいた。
「やば、あと三十分しかない……怪我しないように、なるべく急いでね!」
「は、はい!」
ジャバジャバ、という水音を背中で聞きながら、急いでリビングに戻る。
トーストをレンジに突っ込んで温めながら、食洗機からアリスのコップを取り出す。
少し、不自然だっただろうか……早口と、声が上ずっていたのをアリスが気付かなければいいのだけど……。
冷蔵庫から取り出した野菜ジュースを注いでいると、気持ちさっぱりとしたアリスが、手すりを伝ってリビングへやってきた。
「アリス、手出して」
「はい」
手探りでテーブルに着く時間さえ惜しいので、アリスの手を引いてテーブルまで誘導する。
「ここテーブルね。はい、椅子座って。もうちょっとでトーストも温まるからね」
「いただきます」
テキパキとアリスを椅子に座らせて、野菜ジュースを注いだコップを手渡した。
アリスが手を合わせた後、ちびちびとジュースを飲み始める。
同時に、ピーピーと電子レンジの加熱が終了したのでトースターを取り出して、アリスの前に配膳する。その際、ラップを取り除いておくことも忘れない。
「これ、太一さんのトースターね。レンジで温めたばかりだから、やけどに気をつけてね!」
「はい、和奏ちゃん。ありがとうございます」
「いいのいいの。アリスのことは、春美さんから頼まれてたし」
そう言った後で、後味の悪さを感じて心がチクリと痛む。
春美さんから頼まれなかったら、まるでここには来なかったみたいな言い方じゃないか。
私が自己嫌悪に陥っているとは露知らず、アリスはそーっとお皿に手を伸ばして、探るようにしてトーストを掴む。
「はむっ」
アリスは小さな口を開けて、トーストに齧り付く。
もぐもぐ、と咀嚼する間にアリスの髪の毛を整えていく。
「アリス、今日も適当に髪やっちゃうね?」
後ろから声をかけるとまだ飲み込んでいないのか、アリスはもぐもぐと口を動かしながら、こくりと頭が動いた。
サラサラと、腰のあたりまで伸びるブラウンベージュの綺麗な髪に手櫛を通していく。
「相変わらず、なんて触り心地……」
サラサラな指通りにいつまでも触っていたくなる髪質は、非常に羨ましい。
「時間は……うげ、あと十五分しかない……」
ちらりと視線をやると、壁掛け時計は七時三十分を指していた。
うーん……寝癖を直してる時間もないし、複雑な髪型は諦めて低めの位置でポニーテールにしますか。