第36話 暗闇の中、模索する
もはや一秒も無駄にできない私は、逸る気持ちを押さえながら六限が終わるのを待った。
「気をつけ、礼」
『ありがとうございましたー』
万が一にも突き指しないように、極力ボールは足で触ったし投げるのも最小限に留めておいた。
「じゃ、行こうアリス」
ソワソワしながらホームルームを終えた私は、すぐさまアリスの手を引いて音楽室へ向かう。
「和奏ちゃん、鍵!」
「鍵?」
「音楽室の鍵をもらわないといけませんよ!」
「……あ、忘れてた!」
途中で鍵のことを指摘されなかったら、階段の往復で時間と体力を浪費するところだった。
そうだ、落ち着かないと。
こんなガチガチに力んだ状態じゃ、いい演奏ができるわけがない。
「焦ると物事はうまく行かないものです、少し落ち着いてください」
「う……ゴメン」
職員室で鍵をもらって少し間ができたことで、昂っていた心が少し落ち着いた。
焦ってはいけない。
このアイデアを早く試したい。
二つの気持ちが心の中でせめぎ合って、体がむずむずとしてしまう。
だけど、ここで焦って万が一階段を踏み外して怪我なんてすれば、全てが水の泡になる。
平常心を心がけて、ゆっくりと階段を上る。
「ふぅ……ご心配おかけしました」
「いいえ、それじゃあ練習しましょうか」
「うんっ!」
閉め切られたカーテンを全開にして、準備を整えていく。
ウォーミングアップと基礎練が終わったら、いよいよ合奏なのだけど、そこで私は待ったをかけた。
「ちょっと待った!」
「?」
「私、試してみたいことがあるんだよね」
そう言ってスカートのポケットから取り出したのは、アイマスク。
私、思ったんだ。
私の解釈って、あくまでもヴィヴァルディの肖像画だったり、ピエタ慈善院の写真を元にイメージを膨らませたもの。つまり、映像主体なんだよね。
私は思い浮かべた映像を表現しようとしていた。
だけど、アリスは暗闇の中で私の解釈を元に、膨らませたイメージで表現しようと模索していた。
私は、アリスに見えないものを見ていて、
アリスは、私に聴こえないものを聴いていた。
お互い、無意識のうちに解釈がちょっとずつズレていたんだ。
そりゃ演奏がズレるのも至極当たり前の話。
だから、私がアリスの世界に飛び込むんだ。
「お待たせアリス。それじゃ、始めよっか」
アイマスクをつけると、一気に足元が不安に思えてくる。
やや覚束ない手で、フルートを構える。
「はい、いつでも大丈夫ですよ」
「おっけー……スッ――」
目を閉じて、真っ暗な世界の中で、アリスと一緒に歩くんだ。
第一楽章が始まる。
視界が遮られている影響なのか、明らかに音がよく聴こえる。
アリスが表現しようとしているものは何?
細かいトリルで鳥の鳴き声を表現しながら、アリスのピアノへ問いかける。
今だけは、道しるべとしてアリスを引っ張るんじゃなくて、一緒に手をつないで歩く私を許してね。
直後、あの感覚が私を襲う。
ぞくりと背中が粟立つような、そんな真に迫るアリスの音。
まただ。
この強烈な迫力の正体はなに!?
手探りで、アリスの演奏について行く。
いつの間にか、私が伴奏でアリスが主旋律を奏でているような感覚に陥る。
なんとか、なんとかしないと――!!
私の気持ちとは裏腹に、そのまま第三楽章まで通し終わってしまった。
「――はぁ、はぁっ……なんで」
これじゃ、この一週間と同じことの繰り返しだよ。
乱れた息もそのままに、ぐるぐると思考が渋滞にはまって前に進まない。
「和奏ちゃん……」
「アリス……」
心配そうなアリスの声が聞こえる。
今からでも解釈の話をする?
いや、もう一度新しく解釈を練り直すのは時間的にも不可能だ。
でも、このままじゃダメだってことも分かってる。
どうする……もう一度合奏したって、何かを掴めるとは思えない。
いっそのこと、コンクール辞退できないかな――そんな考えが頭を過ぎった時、窓からビュウッと吹き込んできた強風を肌で感じた。
風…………そうか、そうだったのか。
分かった。
私、ようやく分かった気がするよ、アリス……。
アリスがピアノで表現していたのは、きっと『風』だ。
軽やかに頬を撫でる涼風。
ワンピースの裾をはためかせ、麦わら帽子がふわっと浮き上がりそうになるくらい強風。
ある時は空を羽ばたく『ごしきひわ』を助ける追風で、またある時はピエタの少女たちに吹く時代の逆風。
アリスは、あのピクニックで色んな風を感じたに違いない。
私はそんな風に翻弄される『ごしきひわ』であり『ピエタの少女』だったんだ。
「ねえアリス、もう一回やろう?」
「はい、和奏ちゃん」
「いくよ、スッ――――」
アイマスクを外すことなく、再度演奏を始めた。
これだ……。
私は私の考えが正しかったことを悟った。
手応えが違う。
曲を通して、アリスと対話ができている。
あの鳥肌が立つようなピアノも、追い風として私の背中を力強く支えてくれる。
コロコロと表情を変えるアリスの演奏は、頻繁に風向きを変える変わり風のように私を翻弄しようとする。
だけど、今の私はこれまでとは一味違う。
襲い掛かる風を利用して、一気に空へ舞い上がってやる。
第二楽章、第三楽章と耳に全神経を集中させながら、風を読む。
ねえアリス、次の風はいつ吹く?
どこから、どの強さで吹く?
一回目と音の深みがまるで違う。
私……というより、別人が吹いてるみたいに生き生きとしてる。
音楽って、楽しい……!!
できるなら、このまま永遠にアリスと音楽を奏でて居たい。
だけど、そろそろ終わらなくちゃ。
フィナーレがすぐそこまでやってきている。
アリスがピアノを弾き終え、最後の音が風にさらわれていく。
十一分くらいの演奏は、あっと言う間に終わりを告げた。
これまで生きてきた中で、一番集中した十一分だった。
終わ……った?
どこか茫然としながら、風にさらわれていく余韻を心に刻み込む。
「私……やったんだ……」
しばらくの間、アイマスクも外さずにいた私の胸に、じわじわと達成感が湧き上がって来た。
あぁ……私、ちゃんとアリスと音楽ができたよ。
アイマスクを取って、久しぶりに感じた西日の眩しさを感じながら、余韻に浸る。
あれから、アリスとすれ違ってしまったあと時から、少し長くなった髪を風が揺らす。
私と同じく演奏の余韻に浸っていたアリスが、ピアノ椅子をギィッと鳴らして立ち上がる。
「凄い……凄いです、和奏ちゃん!!」
「えへへ……コンクール前になっちゃったけど、なんとかセーフ……だよね?」
「私、感動しました!!」
こんなにストレートに褒められると、少し気恥ずかしい。
でも、それ以上に嬉しい。ピアノの天板に静かに相棒を寝かせる。
はは、私ってば手が震えてるじゃん。
「和奏ちゃん」
「ん――って、危ない危ない!」
ピアノの天板を頼りに私の方へ歩いてくるアリスが、教壇の狭くなっているところを歩いていたので、慌てて手を取って抱き寄せる。
「きゃっ――あ、ありがとうございます」
「せっかくここまで辿りついたのに、怪我なんてしたら許さないよ?」
「はい、ごめんなさいっ」
私は怒っているというのに、叱られた側のアリスは満面の笑みで笑う。
そんな顔をされたら、私だってにやけてきちゃうじゃないか。
「お待たせ、アリス」
「いいえ」
腕の中でぷるぷるとアリスは首を振る。
「和奏ちゃんならやってくれるって、信じてましたから」
こうして、私たちの『ごしきひわ』は巣立ちを待つのみとなった。




