第24話 ブレス
メトロノームが止まったことで、私は我に返った。
「気付いたら三十分もブレストレーニングやってたや……」
ブレストレーニングの次は、ロングトーン。
いそいそとケースを開けるけど、まだフルートは組み立てない。
昔、今はないフルート教室の先生から習った通りに、頭部管だけでロングトーンを行う。
何度か息を吹き込んで、再びメトロノームを動かし始める。
カチ、カチと動くメトロノームの音に合わせて、四拍、八拍、十六拍とどんどん長くロングトーンを行う。
「うーむ……やっぱり八拍以上だと最後がブレちゃうなぁ」
でも、アリスの前で最初に吹いた時よりはマシな気がする。
あれから毎日、アリスの家で練習させてもらってたから、感触は少しずつ良くなってきてはいる。
最初は口の周りの筋肉が疲れて、|フルートを吹くために必要な口の形が崩れたりしてたけど、それもなくなった。
「一日一歩、晴耕雨読だぞ私!」
「――ファイトです、和奏ちゃん!」
「うん、ありがとう――って、アリス!?!?」
びっっっっくりしたぁ……。
音もなく、アリスが私の背後に忍び寄って来ていた。心臓が止まったかと思った。確実に寿命は縮んだに違いない。
まず、悲鳴をあげなかった私を褒めて欲しい。偉いよね?
四階とはいえ、グラウンドまで私の悲鳴が響いていたかもしれないのだ。
「おそよう、アリス」
「おそようございます、和奏ちゃんっ」
危うく、秋山先生が階段ダッシュをするハメになってしまうところだった。
ただいまの時刻・・・九時過ぎ。恐らく、太一さんに送ってもらったのだろう。
「ねえアリス、私、前にも言ったよね?」
「え、えーっと……何のことでしたっけ?」
頭部管を一旦ケースに仕舞って、ニコニコしているアリスの前に立つ。
「ふふふ……足音を消して歩かないでって、前に言ったの――記憶力のいいアリスのことだから、当然覚えてるよね?」
「き……」
「き?」
「記憶にございません……?」
ふふふ、アリスはよっぽど私のことをおちょくっているようだね。
私がアリスに手を上げないと思ったら、大間違いだ。
確かな決意を心に秘めて、アリスの顔に手を伸ばす。そして――
「ふぇ?」
むにゅり。
もちもちなアリスの頬を人差し指と親指でつまみ、みゅーんと左右に引っ張った。
「全く、何度言っても懲りないね」
「ひゃ、ひゃはなひゃん! ひゃなひへふははい!」
「んー? ごめんねぇアリス。アリスがなんて言ってるか、私分かんないやー」
ますますみゅーんと伸びるアリスのほっぺた。
餅か……? アリスの頬は餅で出来てるのか?
「|ふぉ、ふぉふぇんふぁふぁい《ご、ごめんなさい》!」
「うーん。私も許すって言いたいんだよ? 言いたいんだけどさぁ、私が注意したのに、また同じことしちゃってるからなぁ~。これ、何度目かな?」
「|ふぉ、ふぉふぁいへへふ《ご、五回目です》」
うんうんそうだよね……って、え? 五回もやられてたの?
私、今回のと前回の、前々回の分の三回しか記憶がないんだけど……。
微妙に残念な気持ちになりつつ、私はアリスの頬をみょんみょんと伸ばしたり縮ませて、どうすべきかを考えた。
あ、そうだ。
いいこと思い付いたぞ?
「ふふふ、ふっふっふ……」
「|ふぁ、ふぁふぁなふぁん《わ、和奏ちゃん》?」
私が不気味な笑い声を発したからか、アリスが不安気に私の名前を呼ぶ。
「アリスへの罰を決めました」
「ふぇ?」
「それでは発表します、デデン! アリスにはゴールデンウィーク中、朝六時に起きてもらいますっ!」
そこで、私はアリスの頬をパッと放す。
「そ、そんなぁ……」
アリスは衝撃を受けた様子で、頬を押さえてピシッと固まってしまった。
何だか、ムンクの『叫び』みたい。ちょっと面白い。
「ひ、ひどいです……おに、あくま、わかなちゃん……」
「朝起きてって言っただけで、私そんなに言われるの?」
「な、何と……無意識ですか!?」
アリスは愕然とした様子で、一歩二歩と後ずさる。
「鬼や悪魔が、裸足で逃げ出すくらい恐ろしいですっ」
「いや、言い過ぎだって……」
「私が朝が苦手なのを知っていて罰を与えるなんて、閻魔様もびっくりな所業です!」
アリスはビシィッと私を指差して言う。
「いや、被害者っぽく私を糾弾して罰から逃れようとしても無駄だよ」
「…………てへっ?」
アリスはあらぬ方向に視線をやって、コツンと自分の頭を叩いた。
いや、可愛いけどさ……。
「可愛く誤魔化しても、ダメなものはダメ」
「ひんっ」
手刀を作ってチョップすると、アリスは頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「うぅぅ……でもでも、早起きなんて絶対に無理ですよぉ……」
和奏ちゃんも分かってますよね? と言いたげな表情で、私を見上げてくるアリス。
確かに、低血圧のアリスにとって早起きは辛いことかもしれない。
「連休明けからも、この時間に朝練しようと思ってたんだけど……」
「和奏ちゃん、私の家でやるのではいけないのですか?」
アリスが、ビシッと手を挙げて発言した。
うーん、正直それもアリっちゃアリなんだけどねぇ……。
私も楽だし、アリスも楽。
どちらにも負担がかからない良案だけど、一つ問題がある。
「それだと、私が音量をセーブしちゃうんだよねぇ……」
「私のことでしたら、気にせずに――」
「アリスは気にしなくても、私が気にするの!」
特に、耳はアリスにとっての生命線。
フルートは高音域での演奏が多くて、他の楽器に比べて確実に耳に負担がかかる。
「私だって右耳が少し痛くなる時だってあるのに、耳が良いアリスが何も感じないわけないでしょ?」
「それは……そうですけど……」
ほらね。
いくら防音室に吸音材が貼り付けられているからとはいえ、音の反響を完全に吸収できるわけではない。
「ちゃんと吹き込めないと練習にならないんだよね……」
意識的に音量をセーブしてそれなのだ。
思いっきり吹けない状態で、ブランクを克服するのは厳しいと言わざるを得ない。
私が万全の状態で、調子だったり運指、アリスとの呼吸を確認する程度の練習だったら問題ないとは思うけど、調子を取り戻す練習には向いていない。
『生活リズムが崩れると体調を崩しやすいので、気をつけるよう言っておいていただけますか?』
さっき秋山先生に言われたこともある。
「ねえ、アリス?」
「はい……」
「私はブランクを克服する。アリスも、苦手な朝を克服してみない?」
太一さんに相談しながら慣らしていけば、アリスだって早起きできるようになるはずだ。




